59:<郭嘉/荀彧編>子の心親知らず(後編)
伏兵に遭った郭嘉たちに曹操からの援軍が届く。一方荀彧は、再会した娘の言動に悩まされることに。
その頃、許にて。
「やめたほうがいいと思いますよ」
劉仲永がそう言うと、面前に座っていた男は口に運ぼうとしていた箸を一瞬止めた。
「なんだと?」
「やめた方がいい。死にます」
場所は許の下町の食堂だった。人気店のため、周囲は客であふれて騒々しい。相手の男は伯父で、密談はいつもこういった人に紛れられる場所で交わしていた。
「護衛は二千なんだろ?」
「ですが、護衛としてついて行っているのは曹操の息子と軍師の郭嘉。息子の方は、ここのところ評判が上り調子ですね。武将としてなかなかのものだと。それに、郭嘉の方は……」
劉仲永は食えない顔で平然と嘘をついていた郭嘉を思い出していた。
怪しまれるようなところは見せていなかったはずだ。それなのに、あの男はなぜか自分を警戒して妙な嘘をつく。
自分が間者だと気づかれているのではないか。
そう考えるしかなかった。
「郭嘉って、こないだ言ってた奴か。陽翟出身の、若手の軍師だとか」
「はい。妙にこちらを警戒しているように感じます。それに、調べると色々出てきました。兗州での対呂布戦で相当な功があるとか。曹操は彼を『未来を見透す目を持っている』とまで絶賛しているそうです」
「はっ、未来を見透すだぁ? んなもん、無理に決まってんだろ」
「それに等しい慧眼を持っている、ということでは」
「なら、護衛の兵に二千しか連れてかなかったのは見えてなかったとしか思えねぇけどな」
伯父は、今頃伏せておいた兵たちが曹操の妻子を襲っているころだろう、と言っていた。これも劉仲永から見れば悪手としか思えなかった。
「曹操が武平から汝南をかすめて許に戻ろうとしていると聞きましたが」
「だからよ。郡境で曹操を待ち伏せるより、意表をついて曹操の妻子ぶっ殺すなり人質に取るなりした方がよっぽど勝ち目あんだろ」
伯父は、賊徒の首領だった。そして、今は主に袁術と良好な関係を保っている。袁術は曹操が恐ろしいらしく、曹操を遠ざけてくれるなら、という条件で穀や金をもらっているうえに、汝南の城市での略奪まで暗黙の了解で認められている。伯父としては、曹操が許に来て汝南まで平定するとなると厄介以外の何物でもないだろう。
だから、彼が曹操を叩こうとするのは当然だ。
しかし。
「勝ち目などないと思いますよ」
劉仲永が言うと、伯父はあからさまに顔をしかめた。
「曹操と袁術を比べると、圧倒的に曹操です。曹操自身の資質は知りませんが、曹操軍には人が多い。郭嘉だけでなく、今政務を取り仕切っている荀彧もかなりの曲者です。名と顔を覚えるのに異常なまでに長けていて、間者として誰かを潜り込ませるともできない。私が知るだけでもすでに数人、荀彧に間者と看破されて牢にぶち込まれています。しかも人心掌握にも長けていて、許の官吏たちは皆、この短期間のうちにすっかり取り込まれてしまった。皆荀彧に唯々諾々従っていますよ。一方、家名だけでもっているような袁術はいずれ曹操に敗れ行く運命でしょう。いっそ」
「曹操と結べってか? 正気かお前。曹操は賄賂の類は厳禁、今も賊徒との取引した奴は斬首なんて言ってる奴だぞ。そんな奴と組んでなんの利があるっつーんだ」
「ですが、曹操は当世きっての戦上手。敵対しては死ぬだけでしょう。それなら――」
言いかけ、劉仲永は言葉を切った。店の奥で話し込んでいたが、入り口付近で人を探すようにきょろきょろとしている兵士の姿が見えたからだ。
兵士は奥に座る劉仲永を見つけると、案の定駆け寄ってきた。
「劉仲永殿、府までおいで願えますか。荀軍師が用事があるとかで」
「荀軍師が、ですか。解りました」
噂をすれば影でもないだろうに。呼び出しを受ける心当たりはなかったが、断る理由もない。
立ち上がる時、一瞬だけ伯父と目が合った。賊徒の首領がまさかのこのこ許にやってきているなどと思う者はいないだろうし、劉辟の顔を知る者はそう多くない。戦場では兜をつけているからだ。それでもうつむきがちにやり過ごそうとしていたはずの伯父は、その目が合った一瞬、疑うように劉仲永を見つめてきた。
裏切ろうとしているんじゃないだろうな。
そう言われているように、劉仲永には感じられた。
そんなつもりはない。ただ、最初に許にやってきた頃とは状況も自分の想いも変わってきていることは事実かもしれない。
「劉仲永、参りました」
荀彧の執務室で拱手して頭を下げる。
直属の部下でもないのに彼はよく劉仲永を呼び出した。ただ、彼が来る前と後では微妙に任される仕事が変わっていた。渉外担当としてあちこちに出向いていた仕事から、内部の文書係へと変えられたのだ。疑われているのか否か、今のところ判断はつかない。
いつもどおり微笑みを浮かべて荀彧を見る。そこで気づいた。いつもなら彼の傍に数人は控えている属吏たちが一人もいない。
珍しい。まさか、と思っていると、荀彧の涼やかな声が耳に届いた。
「今日は休暇だったそうですね。申し訳ないことをしました。ただ、緊急だったもので」
「いえ、どうせ暇をしておりましたので、お気遣いには及びません。それで、ご用の向きは」
見つめると、荀彧がふわりと微笑んだ。ただ、なぜかその美しい微笑みで背筋が凍る。
知らず、構えていたらしい。荀彧は微苦笑を浮かべた。
「そう怯えずともいいのですよ。話と言うのは、あなたのことです。あなたの、今後、というか」
「今後、ですか」
「あなたはなかなか優秀ですね。わたしは才ある者は出自によって差別されるべきとは思いませんが、それでも身元ははっきりさせておかねばならないと調べさせました。ところが、何も出てこない。出身もわからなければ、ここに来る前、あなたがどこにいたのかも、出仕する前のあなたを知る者も」
きたな。そう思いながらも、逃げられないものかと平静を装う。
「自分は、山中の寒村の出ですので。名士の知り合いの方もおりませんし」
「あなたを推挙して身元保証したのは商人ですね。その商人は先日、賊徒とかなり大規模に取引していたことが判明して、もう二度としないと平伏していましたが」
「そうだったのですか。それは知りませんでした。趙家には、山から下りてきてしばらく雇っていただいたことがありましたので」
「商人からすれば、賊徒に恩を売れば商売で有利になるとでも思ったのでしょうね」
さらりと切り返され、一瞬言葉に詰まった。
「それは、どういう」
「そなたが先程城下で会っていたのは賊徒の首領ですね」
ずばり言い切られ、さすがに言葉を失った。
どうする。逃げるべきか。怯えて見つめても、荀彧の怜悧な微笑みは変わらない。
「とりあえずは泳がせておきますが、そなたはそろそろ愚かしい者たちとは縁を切ってはどうです? 袁術と我ら、そのどちらに付くのが望ましいか、そなたはとっくに理解しているのではありませんか? 袁術は早晩つぶれると思いますよ。きっと袁術の方が何かと都合のいい条件を出しているのでしょうが、そんなもの、死ねば何の意味もない。違いますか?」
相変わらず揺らぐことのない荀彧の微笑みが、これほど恐ろしいと思ったことはなかった。どっと背に汗があふれる。
「わたしはそなたを評価しているのですよ。その優秀さは賊徒として切って捨てるにはあまりに惜しい。どうです、このまま殿にお仕えするというのは? 曹孟徳様は当代並ぶもののない英傑です。もしそなたにその気があるのなら、賊徒の首領を説得するつもりはありませんか。そなたの説得で劉辟が我らに膝を屈することになれば、無駄な血が流れることもない。もちろん、そなたは賊徒鎮圧に功ありとして、それ相応の地位に就くこともできる」
そこまで言うと、荀彧は言葉を止めた。相変わらず彼の頬には微笑みしかないが、射すくめられたように動けない。
侮るべきではなかった。しみじみそう思った。一見優しげで、強引なことなどしなさそうな彼の容貌がどうしても予断を誘うのだ。
しばらくにらみ合った後、口火を切ったのはため息をついた荀彧だった。
「うなずかないというのなら、そなたを獄につなぐことになりますよ」
気づけば、自分の背後、部屋の入り口あたりに二人ほど控えていた。一人は自分を呼んできた兵で、もう一人はたまに見かける荀彧の従僕だ。自分もそこそこの武術の心得はあるが、おそらく、敵わないだろう。
「……私を捕らえても、もう遅いですよ」
こわばっていた体から力を抜き、かすれた声で、ようやくそれだけを音にした。
荀彧が意外そうに目を細める。彼としては勝算はあると思っていたのだろう。
劉仲永もまた、脳裏で計算をしていた。先程言っていた伯父の作戦は成功するだろうか。しかし、仮に曹操の妻子を人質の取れたとしても、長い目で見て曹操に勝てるのかどうか。
「どういう意味です?」
「伯父は既に手を回していますから。果たして曹操の妻子がここまで到達できることか。きっと今頃陳留からの街道で、伯父の伏兵とぶつかり合っているころでしょう」
せめてもの意趣返しにとにやりと笑って見せると、さすがに荀彧が顔色を変えた。
「それは、どういう」
「さあ、自分もちらと聞いただけですから」
今更ばらしたところで、援軍など間に合うはずがない。
荀彧があわただしく指示を出し、劉仲永は獄につながれることになった。それでも、最後に荀彧の慌てた顔を見られたことが少しだけ、愉快だった。
荀玲は馬車の外から聞こえてくる戦の気配に体をこわばらせていた。
「まあ、こんな近くまで……」
覗き窓から外を確認した母が袖で口元を抑え、小さくつぶやく。
馬車の外からは喚声と剣戟が聞こえている。弟たちは母にしがみついて震えていた。自分より年上のはずの兄も心なしか青ざめていて、剣を習っている荀緝は持ってきた剣を握ったまま、神妙な顔で外をうかがっている。
荀玲もまた恐怖を感じて母にしがみついている一人だった。
もう明日には許に到着するだろうと言っていたのが今朝の話だった。それなのに、こんなことになるなんて。
異変が始まってもう半時は過ぎただろうか。馬車は街道に止まったままほとんど動かず、徐々に戦いの喚声は近づいてきている。
「そ、そんな近いのですか?」
母に問うと、母はのぞき窓を閉じ、馬車の中に再び腰を下ろした。
「ええ。敵兵を抑えようと戦っておられる方たちが、すぐそこに。どうして馬車は下がらないのかしら」
「馬車の車列はかなりのものでしたから、容易に下がれないのでしょう」
荀緝が言う。彼はいざとなれば皆を守るつもりでいるのか、手にした剣をぎゅっと握っていた。
「緝殿、無茶をしてはなりませんよ。そなたは剣を習っているとはいえ、まだ子供。外で戦っているのは具足をつけた兵士たちなのです。敵うはずもありません」
「わかっています。ですが、万が一の時はと」
「おい、何やってる! 左、押し込まれてるぞ!」
その時、かすかに聞こえた声があった。
荀玲は気を惹かれ、立ち上がってのぞき窓から外を見た。
確かに母の言う通り、もう味方が戦っているのはすぐそこ、せいぜいで二百歩先というところだろう。荀家の前にいる馬車が三つあり、そのすぐ前で兵士たちが戦っている状況だった。前の馬車に乗っている者たちはさすがに危ないと思ったのか、兵に誘導されて馬車から降りて後ろへと走って行っている。
「お母様、前の馬車の人たち、馬車から降りているみたい。私たちも逃げたほうがいいんじゃ」
母に言うと、母は一瞬考え、うなずいた。
「そ、そうですね。後ろへ参りましょう」
身重の母を先にいかせ、兄が一番下の弟を抱いて一緒に走り出す。荀緝も弟を抱え、荀玲に言った。
「玲殿は駆けられるな?」
「は、はい、もちろん!」
荀緝の背を追うように走り出そうとしたその時だった。
後ろでひときわ大きな歓声が聞こえた。悲鳴と歓声が入り乱れ、まるで勝鬨のような雄叫びも聞こえてくる。
「えっ、なに」
思わず振り返っても、混戦になっているのが見えるくらいでよくわからない。
ただ、なんとなく、戦っている味方の兵たちが喜んでいるように見えた。
「よし、間に合った! 逃げる奴後ろに行かないようにだけ気をつけろ!」
遠くからまた声が聞こえる。耳に覚えのある声だ。もしかして、と目を凝らすと、馬上で指揮する郭嘉の姿が見えた。彼は簡単な具足こそ身に着けていたが、兜はつけていない。兵たちの一番後ろで指揮をしているようだが、剣を抜いてもいない。
――そういえば、剣術は全然だめだって言ってたのに、あんな最前線で……
心配と、すごいと思う気持ちが入り乱れる。
「玲殿!」
思わずじっと見ていて、足が止まっていたようだ。荀緝に腕を引かれ、我に返った。
「援軍が来たようだが、危ないのは同じだ。後ろへ」
「あ、は、はい」
荀緝に引っ張られるようにして走り出しながら、それでも荀玲は郭嘉の姿を探してまた振り返っていた。
「た、助かった~」
賊徒とぶつかり合いが始まって半時余り。
その間郭嘉は兵たちの一番後ろで指揮を続けた。曹昂は騎兵と共に相当な数を屠ってくれたが、それでも彼我の差は圧倒的だ。どこまでもつかと気が気ではなかった。
「もう死ぬかと思った」
郭嘉がぐったりと乗っていた馬の首に体を預けると、すぐに呆れたような声が飛んできた。
「剣使えない奴が前線出てくるからだろ。でもまぁ、お前意外とそれなりじゃないか。戦えもしない奴があんだけ指揮取れりゃ上出来だ」
顔を上げると、援軍として来てくれた夏侯淵が面白くなさそうな顔でこちらを見ていた。しかし、その言葉が信じられない。彼に褒められる日が来るとは思わなかった。
愕然として見つめると、彼は不満そうに顔をしかめた。
「んだよ、変な顔して」
「いや、褒められるなんて夢にも思わなくて」
「ふん、俺はお前が賊徒に追いかけられて泣きながら逃げてるのを期待して来たってのに、来てみりゃ剣も抜かずに後ろで偉そうに指揮してんだ。驚きもするだろ」
「そんなもんですかね。なんにせよ、助かりました。ありがとうございます、妙才殿」
郭嘉は体を起こし、馬上で拱手した。それに、ふん、とまんざらでもなさそうに夏侯淵が鼻を鳴らす。
「お前、ほんっとムカつくやつだよ。なんで伏兵あるなんてわかったんだよ。それも、何日も前に」
「殿が汝南をかすめて許に入るって話でしたから。賊徒としては殿を避けるか、でもなきゃ妻子でも襲って一矢報いてやるって思うかのどっちかでしょう。それにこの辺は、最初に来た時に伏兵食らった場所でもありますし」
郭嘉が言うと、夏侯淵はまた気に入らないとばかり鼻を鳴らした。
「お前のその全部わかってますみたいのがほんっとムカつく」
いつも大体こんな言われようだが、郭嘉としては対応に困る。顔をしかめても夏侯淵は気にもせず、今度はすぐそばにいた曹昂をほめ始めていた。
夏侯淵は騎兵を一千だけ率いて駆けてきたという話だが、追って歩兵も二千ほど来るらしい。それだけいれば安心感も随分違う。
――とりあえず、無事に許まで行けそうかな。
ほっと一息ついた途端、なぜか急激に疲労が襲ってきた。鉛でも担いだみたいに体が重くなり、思わず馬の首に体を預けたが、またおかしな動悸が始まる。
「あ、やば……っ!」
胸が締め付けられるように痛い。
「郭軍師?!」
「おい、どうした!?」
曹昂と夏侯淵の声が遠く聞こえる。
視界が暗くなる瞬間、馬から落ちる前になんとかしなくては、と思ったが、郭嘉が意識を保っていられたのはそこまでだった。
郭嘉たちが妻子を連れて戻ってきたのは、一月もそろそろ終わろうか、という頃だった。途中、劉仲永の言った通り伏兵に襲われたらしい。妻子にけがなどはなかったようだが、郭嘉には辛い道程だったのかもしれない。道中発作を起こしたらしく、帰ってきた時、郭嘉は馬車に乗せられてぐったりしていた。
荀彧は到着当日は曹昂から報告を受け、その翌日、昼も過ぎてから自室に横たわる郭嘉を見舞った。
「大丈夫ですか? 乱戦に巻き込まれたと聞きましたが、どこか怪我でも?」
問いかけると、郭嘉はぼんやりと目を向け、言った。
「いや、そんなんじゃないですよ。乱戦になりかけてたけど、俺は後ろで口だしてただけですから。ただ、疲れがたまってたんじゃないかな。もう大丈夫って思った途端、急にきましたからね。疲れてたけど、なんとか気力でもってたのがぷつっと切れたみたいな感じで」
郭嘉は疲れ切った表情で横になったまま額にかかった髪をかき上げた。心なしか彼の顔色は青い。
「ぶっ倒れたのは久々ですけど、今までの経験からすれば、何日か寝てれば治ると思います。俺には休みなしで睡眠時間削ってひと月近くぶっ通しの騎乗ってのは無理だったみたいですね」
そこそこ体力ついたと思ってたんだけどなあ、と郭嘉はぼやいていた。
「殿は、五日後に到着されるそうです。到着後できるだけすぐ、周辺の賊徒を討伐したいと仰せなのですが、同行できそうですか? 殿はきっと奉孝殿を連れて行きたがると思うのですが」
「五日もあればさすがに起き上がれるようになると思いますよ。それまでゆっくり休ませてもらえれば」
「もちろんです。さすがにこんな状態のあなたに仕事しろなんて言いませんよ」
微笑みかけると、郭嘉は妙に乾いた笑みを見せた。最近よく見せる表情だ。きっと体よくこき使われているとでも思っているのだろう。
ただそれも、郭嘉の賢さゆえだ。普通の官吏なら音を上げるようなことでも、彼にやらせてみるとすんなりこなしてしまったりする。仕事の処理や把握が早いだけでなく、時には荀彧の気づいていなかった点を指摘したりすることさえあった。
やればできるのだ。ただ、本人がやりたくないと思っているだけで。
もったいないと思うが、本人がやる気が出ないというのだからしようがない。
「あ、そういえばさ、文若殿、知ってる? 洛陽に向かった曹子廉(曹洪)殿が苦戦してるらしいんだけど」
「ええ、聞きました。洛陽直前で進軍を妨害されているとか」
「どういう状況か知ってるんだ?」
「ああ、そういえばあなたにはお伝えしていませんでしたね。伝令からの話では、子廉殿を洛陽に入れさせまいとしている勢力があるようで。邪魔をしているのが董承という、まあ陛下の外戚のような立場の方なのですけど、何せ陛下の外戚なので、戦って打ち破るというのもちょっと。それでどうしたものかと連絡が来ていました」
「で、どうするんですか?」
「少し前に陛下の傍にいる私の友人に、軍が通れるような名分を何かもらえないかと書簡を出したところです。例えば洛陽近辺の賊徒討伐、とかですね。そういったものがあれば通してもらえる可能性もあるかなと」
「その外戚は、なんで邪魔してんのかな? 殿に洛陽に来られちゃ困ることでもあるってこと?」
「それはそうでしょう。その董承というのは、陛下の傍にいる者たちと離合集散を繰り返してなんとか己の権力を確保しようとしているような人物です。近頃は権力争いに負けて陛下のお側からは離れているようですから、尚更でしょうね。殿が洛陽に兵を向けるということは、陛下に対して何らかの意図がある――すなわち権力を掌握しようとしているのではないか、と考えて警戒しているのです」
まあ、実際そうなのでしようがないところもありますけど、と荀彧が苦笑すると、郭嘉は少し考える様子を見せた。
「その、董承ってどういう奴なんです? 今の話聞いてると、結構付け入る隙ありそうな気がするけど」
「董承という人物は、外戚らしく権力と金に執着しているという印象ですね。といっても、これは書簡を送ってくれる友人からの受け売りなのですが。そうだ。もし手紙を読む気力があるようでしたら、こちらにその手紙を持たせましょう。友人の書簡にはいろいろなことが書いてあるので、とても有益ですよ。文字を読むことはできそうですか?」
郭嘉は少し考え、うなずいた。
「今すぐはちょっときついけど、少し休めば。でもそれ、俺が読んで大丈夫なんですか? 私信でしょ?」
「問題ありませんよ。殿にはその都度お見せしているものですから」
「それなら、お願いします」
「では、後ほどこちらへ持ってこさせます。とりあえずは、ゆっくり休んでくださいね」
「ええ。ありがとうございます」
かすかに微笑んで、郭嘉が目をつむる。そこに言葉をかけるべきか迷って、荀彧は室を後にした。
荀彧の脳裏に浮かんでいたのは、昨夜再会した家族のことだった。
成長した息子たちと、お腹が大きくなった妻。これは手紙で知っていた通りだった。
だが、娘が、荀彧の知っている娘の姿ではなかった。
「なんでそんな歳で化粧など。まだ必要ないだろうに」
化粧を施した荀玲の姿はどうみても旅装にふさわしいものとは思えなかった。荀彧にすれば娘が無駄なことをしているから叱ったくらいのつもりだったのだが、娘は荀彧にそう言われるなり、むっと顔をしかめ、荀彧から顔をそむけてしまった。
「玲? 一体どうしたのだ」
今までこんな態度を取られたことなどない。彼女も他の子供たち同様、いつも再会すれば嬉しそうに抱きついてきたものだったのに。
ふいと顔をそむけたまま、一言も言わずに荀玲が奥へ下がっていく。娘を呆然と見ていた荀彧を不憫に思ったのだろう。子供たちがいなくなってから、妻が言った。
「あなた、どうか叱らないでやってくださいませ。あれはあの子なりの乙女心なのですわ」
「乙女心?」
「ええ。玲はどうも、郭様に懸想しているようなのです」
「…………は?」
理解するのに、随分時間がかかった。愕然とする荀彧などお構いなしに、妻は妻で妙に娘の成長を喜んでいるようで、まるで我がことのように頬を染め、喜ばしいことだとばかり、ため息をついていた。
「以前鄄城で郭様が我が家にいらしていたことがあったでしょう? 玲はあの頃から郭様が好きだったのですって。今回郭様が妻子の移送を担当なさると聞いたら、お会いできるかもしれないからちゃんとした格好をしてお会いしたいと。なんといじらしいことでしょう」
「な、何を言っているのだ。そんな、十一歳になったばかりの子供の言うことを真に受けて」
「あら、十一歳でも、女子ですわ。特にあのくらいの娘は年上の素敵な殿方にあこがれるものです。私もそうでしたから」
妻とはお互いに子供の頃に親が決めた婚約者同士だ。もちろん荀彧は彼女以外に恋い慕った相手などいない。というのに、この妻の発言は聞き流せるものではなかった。
「待て、玥玥、どういう意味だ? そなたはわたし以外に想う相手がいたと?」
思わず声に険がこもる。しかし妻にとっては大したことではないようで、彼女は口許を袖で覆って笑った。
「まあ、いやですわ、あなた。子供の頃のほのかな憧れの話ですのに」
「いや、だからといって」
「別に、恋い慕ったというほどのことではありません。それに、今は当世一の素敵な旦那様に大切にしていただいて、とても幸せだと思っておりますわ。私がお慕いしているのは夫君だけですもの」
当たり前ではありませんか。そう言って見つめられてしまうと、荀彧としてもそれ以上は言えない。
「でも、あの子の初恋が形になったら、それはとても素敵なことと思うのです。あなた、郭様がまだ独身でいらっしゃるのなら、あの子の縁談、考えてはいただけませんか?」
妻は本気のようだ。だが、荀彧は到底うなずくことはできなかった。
「それはだめだ。実は一度冗談交じりで奉孝殿に水を向けてみたのだが、あっさりと断られてしまった。子供すぎると」
「まあ。でも、それでしたら時間が経てば」
「それに、奉孝殿はいささか気が多い。あれでは……」
妻はここまで言うと、納得したようだった。彼女自身がそうであるように、娘も生涯妻は一人と思っている男に嫁がせたいと思っているのだろう。
ところが、翌朝娘にも諦めさせようとこの話題を持ち出したところ、思わぬ反撃に遭った。
「玲。昨夜母君からそなたが奉孝殿を慕っていると聞いたが」
娘は荀彧がそう言った瞬間、ぱっと頬を染めた。そこで怒らなかったのは、いずれ母から父に伝える、とでも妻に言われていたからだろう。
「それは諦めなさい」
そう言った瞬間の娘の顔が忘れられない。
たった十一歳の子供がこんな顔ができるのかと思うほど、失望と怒りの入り混じった顔をしていた。
「ど、どうしてですか?」
「そなたと奉孝殿とは歳が離れすぎている。それに、奉孝殿は女好きだ。きっと妻が一人というわけには行くまい。今はまだ妻帯していないが、それも遊びたい気持ちがあるからだろう。そなたにはまだわからぬかもしれぬが、世の男は大半が――」
「それはお父様が言っていることでしょ!」
「な」
今まで一度たりとも娘に口答えされたことのなかった荀彧は、それだけで面食らってしまった。
「奉孝様は私をきれいだってほめてくださったもの! いずれきっと私を認めてくださいます。私、奉孝様以外のところにお嫁になんて行きませんから!!」
荀玲はそう言うなり、途中だった食事を放棄して室にこもってしまった。
追いかけて戸口で説得を試みたが、ついに出仕の時間まで彼女は室の扉を開けることも、父に言葉を返すこともしなかった。
――まさか、こんなことになるなんて……。
かといって、郭嘉と娘の縁談がそう簡単にいくわけがない。何せ当の郭嘉本人が子供すぎて問題外、と言っているのだ。女官としょっちゅう戯れているあたり、とても彼が娘を大事にするとも思えない。普通の男なら出世を気にして荀彧の顔色をうかがう、ということもあるだろうが、郭嘉はそんなことは全くしない男だ。もちろん、そこが彼のいいところでもあるのだが。
一体どうしたら。
荀彧は深いため息をついて執務室へと向かった。




