37:<郭嘉編>天与の才
順調に呂布の拠点を落とす中、徐州から陶謙が死に、劉備が徐州牧になったと報が届く。
怒り心頭の曹操はすぐさま徐州に攻めこむと言い出すのだが――
朝日が昇ると同時に郭嘉を起こし、半分眠ったままの彼をなんとか牀に座らせ、静は彼の髪を結っていた。
「夜更かしするからですよ。もう戦も終わったんですから、早く寝たらいいのに」
言いながら、髪を櫛で梳かしていく。静が言っても郭嘉はまだ半分夢の中だった。
定陶から一度乗氏を経由し、鉅野にやってきたのがひと月あまり前の話だ。鉅野にいた呂布の将は、城を守るよりも打って出ることを選んだらしい。会戦になり、彼らはあっさりと曹操に打ち取られた。ついで援軍でやってきた呂布とも再び切り結び、かなりの被害を与えた。
この間、郭嘉の軍内での評判はうなぎのぼりだった。
出す策出す策、すべて成功している。加えて、呂布側の行動の予測もことごとく当たるというので、幕僚だけでなく兵たちの間でも郭軍師はすごい、という認識がすっかり出来上がっていた。
しかし、天与の才の持ち主とうたわれるその陰で、郭嘉が実は努力を重ねていることを、静だけが見ていた。
戦の最中、郭嘉は毎日遅くまで曹操の下で作戦を練るか、そうでなくとも自室で夜中まで地図とにらみ合っては夜更かししていた。体に障るからと言っても聞きもしない。彼は毎夜深更まで考え込んで、地図の近くで寝落ちし、それを静が牀まで運ぶ、の繰り返しだった。
「聞いてますか? 寝てます?」
「……戦は、まだ終わってないだろ」
後ろから顔を覗き込むと、まだ随分と眠そうな郭嘉が言葉を返してくる。
「呂布、殺してない」
「それはそうですが」
「また、あいつをおびき出す方法考えないと。つーか、もういっそ東緡に……」
ぶつぶつとつぶやいて、腕を組む。しかししばらくするとまたぼんやりし始めた。やはり眠いらしい。
「寝不足ではその内頭が回らなくなりますよ」
「……もうすでに、そうなってるかも」
郭嘉が突然後ろに体を倒し、後ろにいた静に体を預けてきた。髪を結おうとまとめていた途中で寄りかかられ、手が止まる。
「若」
「眠い」
「ですから夜は早く寝たほうがいいと」
「今すぐ寝たい」
「それは駄目でしょう」
普通なら、兵も幕僚も夜明けと同時に動き出すのが普通だ。まじめな幕僚なら夜明け前くらいに活動を始めたっておかしくない。今のところ特に朝遅いと曹操に怒られているわけではないようだが、郭嘉が他の幕僚に比べて朝起きるのが遅いのは確かだろう。
「あまり遅くなると、さすがに……」
ふと嫌な予感がして、静は郭嘉の額に手を当てた。
熱い。
「若、もしかして」
「郭軍師、殿よりご伝言です」
言いかけたところで、幕舎の外から声がかかる。郭嘉はいかにも億劫そうに体を起こして、どうした、と返事をしていた。
「緊急のことがあるのですぐに殿の幕舎まで来られるようにと。起きていなかったら身支度せずに来てもよい、とも仰せでしたが……」
「了解。今すぐ行きますって伝えといて」
「はっ」
兵士が去っていくと、郭嘉は苦笑して静を振り返った。
「さすが殿は俺のことわかってるわ。でもさすがに髪このまんまはまずいから、頼む」
「わかりました」
手早く髪をまとめ、寝間着代わりの単衣の上に、袍を羽織らせる。
「ご無理なさらないように」
静が言うと、郭嘉は力なく微笑んだ。
「お前本当過保護だな」
郭嘉が幕舎を出て行くが、その足取りもどこか頼りない。
さっき触れた郭嘉の額は、妙に熱かった。本人もだるさくらいは感じているだろう。おそらく、寝不足で体調を崩しかけているのだ。
倒れる前に戻ってきてくれればいいが。
静は人知れずため息をついた。
曹操の幕舎へと向かって歩きながら、郭嘉は嫌な予感でいっぱいだった。
寝不足のせいだとばかり思っていたが、歩いてみるとどうも違う気がする。多分、これは倒れる前触れだ。
――薬湯だけは飲んでたんだけどな。今度は寝なさすぎ、か?
食事は支給の物を食べているし、最近は偵察のために馬に乗ってあちこちでかけることだって少なくないから、体も動かしている方だろう。自分でも最近は体力がついてきたような気がすると思っていたくらいだったのに、自分の身体はとことんまで無理のきかない体のようだ。
この後どうするかは、まだ曹操と話し合っていない。せめて戦の合間くらい、ゆっくり寝なければまずいかもしれない。そんなことを考えながら、曹操の幕舎へと向かった。
「おはようございます、殿」
「ああ、おはよう」
竹簡を手に座っていた曹操は、郭嘉の顔を見るなり眉をひそめた。
「どうした。寝ていないのか?」
「え?」
「顔色が悪い」
「あー……、いや、元々こんな顔ですよ」
必死に策を考えて夜更かししていたなんて、曹操には知られたくない。思わず目をそらして言ってしまったが、曹操はそれ以上追及はしてこなかった。
「まあいい。悪い知らせだ。陶謙が死んだ」
「えっ!?」
差し出された竹簡に目を通す。どうやら徐州に潜んでいる間者からのもののようだ。そこには陶謙が死んだこと、そして徐州牧を劉備が継いだことが書いてあった。
「劉備が、徐州牧?」
「にわかには信じられんが」
曹操が思案げにひげをさすった。
「劉備って、陶謙の血縁じゃないですよね?」
「それどころか、臣下ですらない。単に援軍に来た傭兵風情に徐州を任せるとは」
普通ならありえないことだ。劉備が朝廷から任じられたというのならまだしも、この状況でそれはありえないだろう。となれば、普通なら重臣たちが反対するはずだ。いくら先年の曹操の征伐で荒らされたとはいえ、徐州は広く、当然そこには利権だってある。徐州牧にどこの馬の骨ともわからない男を就けるなど、陶謙の血族や重臣たちが反対しなかったのだろうか。
書簡の中には陶謙が死に、劉備が徐州牧になったということが記してあるのみで、当地の詳しい状況は書かれてない。ただ、一言「今のところ大きな混乱はない」と書かれているだけだ。
「訳わかりませんね。劉備を徐州牧に就けてなんか得でもあんのかな。それとも、劉備が乗っ取ったとか?」
「仮に乗っ取ったところで、治政がうまくいかねば意味はない。となれば、少なくとも徐州の文官は同意しているのではないか。まだ、続報で様子を見る必要はあるが」
郭嘉はうなずき、手に持っていた竹簡を曹操に戻した。曹操はそれを受け取ると、みし、と音がするほどきつく握りしめる。
「この状況で徐州牧を受けるとは。俺は、劉備という男を見誤っていたようだ」
曹操が握りつぶした竹簡を地面に投げつけると、それは無残に割れて地面に散らばった。
「一度乗氏に戻って補給したら、徐州へ向かうぞ」
「徐州へ?」
「俺をなめくさった劉備に知らしめてやらねばならん。俺の仇に手を貸した上、のうのうと徐州牧に就くなどということがどういうことなのかをな。ついでに、陶謙の墓を暴いて死体を切り刻んでくれるわ!」
「殿!」
幕舎を出ていく曹操を慌てて追う。曹操は幕舎を出るなり、すぐさま兵に命を出した。
「乗氏に戻る! 至急出立の準備をせよ! 正午には出立するぞ!」
曹操の一声で、もうそれは確定事項になった。兵士たちがあわただしく動き始める。
「殿、お待ちください」
「待てぬ」
「殿、徐州まで何里あるとお思いですか。兵糧が足りませんよ!」
「だから乗氏で補給すると言っているのだ。それに、季節はもうじき夏。徐州に行けば麦もあろう」
「では殿、呂布はどうされるおつもりです? 鉅野を落としたとはいえ、呂布は取り逃がしました。しかも定陶はまだ落ちてません。東に向かおうと思えば絶対に呂布の勢力圏を通ることになります。一体どこを抜けて徐州に向かわれるおつもりですか」
「それを考えるのがお前の仕事だろう、奉孝」
「そんな無茶な」
郭嘉と押し問答をしながら、曹操は陣中を回って次々兵や将たちに指示を出していた。そのやり取りを見ていると、曹操はそれなりに冷静なように見える。
しかし、行ったって勝てるわけがない。
言葉を尽くして曹操の説得を試みたが、何を言っても曹操の考えは変わりそうになかった。兵や将たちは、言い争う曹操と郭嘉を見て困惑顔だ。
本当はこんなこと、皆の前でやるべきじゃない。
それはわかっていたが、ここで引き下がって徐州に行けばどうなるかなんて、目に見えている。
「殿……」
一体どう言ったらわかってもらえるのか。
なんか都合のいい故事でもなかったか。そう考えることまではしたのだが、急に倦怠感が強くなり、動悸が激しくなる。
「あ、く……っ」
不意に締め付けられるような胸の痛みが起こり、息が詰まる。苦しくて襟をつかんだ瞬間、視界が真っ暗になり、体が力を失った。
「奉孝!?」
どこか遠く曹操の声が聞こえたかと思うと、地面に突っ伏した体を起こされ、ゆすぶられる。
との、と言いかけたのだが、結局胸が締め付けられるような感覚を抱えたまま、郭嘉は意識を失った。
郭嘉が倒れた、と連絡があってすぐ、静は曹操の幕舎へと向かった。
静が到着したその時、郭嘉は曹操の幕舎にある牀に横たえられ、医師が容体を見ているようだった。
入り口で膝をついて拝礼すると、曹操は静が想像していたよりずっと鷹揚に声をかけてきた。
「ああ、来たな。そなた、奉孝とはずっと一緒であろう。先程倒れたのだが、心当たりはあるか」
言った曹操と共に、牀の傍にいる医者もまた静を振り返る。静は平伏しながら言った。
「恐れながら、寝不足かと」
「寝不足?」
「はい。奉孝様は定陶攻囲の前からずっと、夜は深更まで地図を睨んで策を考えておられました。文字通り寝る間も惜しんで。元々体の弱いお方ですので、無理をすると体に障ると申しましたが、まったく聞く耳を持っていただけず……。今朝も、幕舎を出る時点で熱がありました」
曹操が意外そうに目を丸くする。
「だ、そうだが。どうだ、そなたの見立ては?」
曹操が医者に問うと、医者は郭嘉の脈を見ながら言った。
「はい、おそらく当たっているのではないかと思います。無理がたたったのでしょう。今も脈が少し乱れています。元々心の臓が弱いか、あるいは疲労で一時的に心の臓が弱っているか、いずれかでしょう。薬湯を処方しましょう」
「いえ、薬湯ならすでに飲んでいるものが」
静が毎晩煎じている薬湯の中身を告げると、医師は感心したようにうなずいた。
「それは、あなたの処方ですか?」
「いえ、十年ほど前に郭家にやってきた医師の処方です。その前は、奉孝様は今よりもっと病弱で熱を出してばかりでしたが、その薬湯を飲んでから随分ましになりました。近頃は、おとなしく薬湯さえ飲んでいればほとんど体調を崩すことがないほどに」
「ならば、その薬湯は続けたほうがいいですね。とりあえず、今は解熱の薬湯を処方しましょう。それ以上は、様子を見て」
「どこが悪いのだ?」
曹操に問われ、静は首を振った。
「私は言われた薬湯を作っているだけなので、詳しくは……」
「おそらく、飲んでいる薬湯から察するに脾、腎が弱いのではないでしょうか。腹を壊しやすく、食が細いのなら、血も足りていないのでしょう。先だって濮陽で大量に出血した影響も残っているのかもしれません。気は満ち満ちていますが、血が足りていない。それで体の均衡を崩しかけている。しばらく安静になさることです」
静の代わりに医師が言った。それに、曹操がうなずく。
「ならば、せめて乗氏に着くまでは休めばよい。馬車を用意させよう。そなたは奉孝のそばで看病してやれ。乗氏に着いて、徐州への出陣の支度が整えば再び呼ぶ」
「はい。それでは」
平伏してから、郭嘉を運ぼうと牀に近寄ると、曹操が声をかけてきた。
「よい、そのまま寝かせてやれ。どうせすぐに出立だ。馬車の準備が整ったら呼ばせよう」
「え?」
「奉孝は大事な私の懐刀だ。めったなことのないように頼むぞ」
「は、はい」
静はその場で首を垂れながら、これが徐州で虐殺をした悪鬼と噂される男か、と驚いていた。それでなくとも、曹操は厳しく、冷酷な男だというもっぱらの噂だったはずだ。それが、郭嘉にはまるで親が子にするかのような優しい声音で気遣って見せる。それが、静には驚きだった。
郭嘉は目が覚めた時、地面が揺れている、と思った。
ふと目を開くと、妙に狭い部屋に、手足を縮こまらせるようにして寝ていることに気づいた。次いで、すぐそばに静がいることにも。
ぼんやりと見上げると、気づいた静が郭嘉の額に触れた。
「目が覚めましたか? 熱も下がってきたようですね」
「……ここ?」
「馬車の中ですよ。曹操様が若のために馬車を用意してくださいました。乗氏に戻るまで、休ませよ、と」
「乗氏……」
つぶやくと、気を失う直前のことがよみがえってきた。郭嘉はがばと体を起こすと、周囲を見回す。馬車の窓から外を伺い見て、自分が確かに行軍中の馬車の中にいることを知った。
「俺、殿のところで倒れた、んだよな?」
「おそらくは。私が行った時は曹操様の幕舎で横になっていましたので」
「殿は? なんか言ってなかったか? 徐州に行くとかなんとか」
「乗氏に戻って徐州に出発する準備が整ったら呼びに行くから、それまで若を休ませよ、と仰せでしたけど」
静の言葉に、郭嘉は思わず頭を抱えて再び横になった。
「やっぱり……」
「どうしたんです?」
「どうしたもこうしたも! この状況で徐州に行くなんて死にに行くようなもんだろ。必死に説得してたのに、殿、ぜんっぜん言うこと聞いてくれなくてさぁ」
そういえば、と思い出す。荀彧が、曹操は大変人の言うことをよく聞くが、時として頑として己の決めたことを曲げないことがある、と。
これが、それか。
「最初に徐州行った時もこんな感じだったのかな……」
なるほど、これでは引き止めるのは至難の業だ。曹操は決めてしまうと即行動で、迷いなど見せない。それが彼のいいところでもあるが、暴走してしまったら手が付けられないという面もある。
「つっても、まだ乗氏にも着いてないわけだし……」
曹操を説得して、止められるか。せめて呂布だけでもなんとかできれば話は違うと思うのだが。
横になったまま、顔をしかめて思考を巡らせていると、静がなだめるように額に触れてきた。
「今は、休まれることです」
「そんなの」
「また倒れますよ。せめて乗氏に着くまでだけでも、眠ってください。曹操様にも言われました。休ませよ、と」
なだめるような声で言われて、郭嘉はしようがないと嘆息し、目をつむった。
それでも、頭をめぐるのはどうやったら勝てるか、ということしかない。しばらくして静の嘆息が聞こえ、彼の硬い手がまたなだめるように額に触れた。
「軍医が、もし必要があれば別の薬湯を処方すると言っていましたよ。眠くなる薬湯もあるのだそうで。あと、心の臓に効く薬湯も飲んだ方がいいかもしれないとも」
「胸が苦しくなるのはたまにだろ。必要ない。眠り薬も」
眠れないわけではない。ただ、夢見が悪くてすぐ目覚めてしまうだけで。
しかし、静は納得しないようだ。彼の嘆息がまた聞こえた。
「ではせめて、しっかり寝てください。曹操様から『私の大切な懐刀だから、めったなことのないように』と重々念を押されましたから」
「殿が、そんなことを?」
「意外でした。曹操様は、虐殺をするような冷酷な人物だとばかり思っていたので。若にはまるで、我が子にするかのように心配して、私にも何を気にするふうもなく声をかけられました。身分の高い方は、奴婢には声をかけることも厭う方も多いものですが」
「殿はそういうところ、鷹揚なんだよな。全然身分差とか気にしてなくて」
曹操は誰にでも分け隔てなく接する。身分の低い者でも能力があれば取り立てるし、奴婢だからといって直答を許さないなどということもない。中には従者から取り立てられた者や、反乱に与していた農民の中から、見どころがあると武将として取り立てられた者もいる。
「あと、殿は結構優しいとこもあるよ。懐深いっていうか。ただ、敵だとみなした相手とか、仕事しない奴とかにはすごく厳しいって話だけど」
「では、また若が倒れたら、私に処罰が下るんじゃないですか、若?」
冗談めかした言葉だったが、ちらと見ると、静はまた嘆息していた。
「お願いですから寝てください。せめて乗氏に着くまでは」
「わかったよ」
再び目を閉じて、口も閉じ、郭嘉はおとなしく馬車の揺れに体を預けた。馬車の中には簡単な枕と敷布が引いてあり、寝心地自体は悪くない。
いったん引っ込んでいた眠気が徐々に体に広がっていく。しかしそのまどろみの中でもまだ、郭嘉はこの先のことを考えていた。
あれだけ曹操と陣中で言い争ったのだ。中に潜んでいるだろう呂布側の間諜たちによって、きっとすぐに徐州侵攻はばれてしまうだろう。
呂布がどう出てくるか。場合によってはそれを利用できるんじゃないか。あとは、どうやって曹操を説得するか。曹操がどうしても徐州に行くというのなら、もうあきらめてどう勝つかを考えたほうがいいんじゃないか。
覚えているのはそこまでで、その後郭嘉は深い眠りに落ちて行った。




