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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
3.兗州平定
36/64

36<郭嘉編>初陣

曹操は兗州平定のために動き出す。郭嘉はその隣で徐々に軍師として周囲に認められていくことに

 離狐と句陽を落とすのは難しくはなかった。乗氏の豪族も曹操に好意的で、しばらく曹操軍は拠点を乗氏に置くことになった。

「定陶、陳留と落とせれば潁川への道がつくな」

 地図を見ながら曹操が言う。

 確かに、そうやって落としていけば、潁川への道はつく。

 ただし、話はそう簡単ではない。潁川どころか、陳留だって東緡に比べれば遠い。仮に定陶を落とせたとしても、そこから陳留を攻めようとすれば呂布に背後を突かれることになる。

「仮に陳留攻略を優先しようと思うと、軍を二手に分けなきゃいけませんよ。こっちの方が数が多いから、不可能じゃありませんけど、結構きついんじゃないですかね」

「しかし、潁川に行けば穀が手に入る公算が高い」

「それはそうなんですけど」

 荀彧が調べたところによると、潁川も干ばつであまり作柄はよくなかったらしいが、それでも兗州よりはかなりましらしい。兗州の一部では、穀がないばかりに飢えた民は人を食らって生きているという噂まであった。実際、東平のあたりはかなりひどいらしい。落とした離狐と句陽も蝗害がひどく、落とした曹操側が手に入れられるような穀はなかった。むしろ、備蓄を分けてやらねばならないほどだ。

 乗氏は蝗害こそさほどでもなかったらしいが、作柄が悪いのは同じだ。乗氏の民が曹操を受け入れたのは、ひとえに曹操軍が街を守ってくれる、という思いからだろう。入城の際に多少の穀の進物はあったが、ほんの気持ち程度のものでしかなかった。もちろん、城市としては精一杯だったのだろうが。

「俺は、最低でも定陶、鉅野は落とさないと遠征はきついと思いますね。陳留だって、すぐ落ちるとは限りません。なんせ城を牛耳ってるのはこの反乱のきっかけを作った張超なんだし、絶対に降ったりしませんよ」

「確かにな」

「しばらく乗氏に腰を据えて、鉅野と定陶、両方落とすことを優先したほうがいいと思います。万全を期すなら、東緡も獲って、呂布をもうちょっと東に追いやるか、殺すかすれば後顧の憂いはなくなるかと」

 曹操がしようがないか、とばかり低くうなった。

 乗氏は呂布側の将が治める定陶と鉅野のちょうど間にある。そのどちらに対しても牽制になるし、また攻めるのにも都合がいい。

 もちろん、逆に言えば挟み撃ちの危険も大きいということだ。乗氏の豪族はよく街を守ったな、と思ったが、どうやら攻め寄せたのは呂布だけだったらしい。定陶と鉅野を守っている将は守りに徹している、ということだろうか。

「ここを拠点にして、うまく敵をおびき寄せて罠にはめるのが上策だと思います。定陶か鉅野、どっちか攻めてれば呂布が出てくると思うんで、どっちがいいか、できれば地形が見たいところですけど」

「お前のそういうところは、実に頼もしいな、奉孝」

「え?」

「他の連中は軒並み呂布を恐れているが、お前だけが呂布を恐れておらん」

 曹操が笑う、それに郭嘉は苦笑を返した。

「それ、俺が初戦にいなかった、ってだけのことじゃないですか?」

「それでもだ。もしお前がいなかったら皆が皆呂布を恐れながら戦うことになった。そう思うと、お前がいてくれて心底よかったと思わざるを得んな」

 作戦立案から、戦の最中はもちろんのこと、戦が終わった後も事務処理を手伝い、場合によっては夜碁を打ったり、たわいもない雑談をしたりと、郭嘉はこの間ほぼずっと一日中曹操と一緒だった。

 武将たちは自分の部隊の官吏もあるからというのもあるだろうが、幕僚の中でも、郭嘉程傍にいる者はあまりいない。

 もしかしたら曹操に気に入られたのかもしれない。最近はそう感じることもあった。

「定陶にはいたことがあるからわかるが、あそこはなかなか堅城だな。落としやすさでいえば鉅野だろう。さほど大きな城市でもないし、戦となればおそらくは平原で会戦となる」

「じゃあ」

「だが、俺は定陶から攻めたい」

 はっきりと曹操が言い切ったので、郭嘉は一瞬言葉に詰まった。

「それは、なぜです? あえて落としにくい方を、ってことですよね?」

「鉅野は獲っても保ちにくい城だ。守兵が多く要る。その点定陶は獲ってしまえば堅牢な城壁がある。他への兵も融通しやすい。それに、お前が言っていただろう。呂布を逃がすなら東だ。先に鉅野を抑えてしまった場合、呂布が定陶に移るようなことがあっては面倒だからな」

「確かに」

 鉅野の拠点を失い、呂布が定陶に移動すると、今度は定陶を攻めた後陳留に逃げ込むような可能性も高くなる。それこそ、呂布を西へ逃がす契機ともなりかねない。

「じゃ、定陶が先ですね」

「ああ。諸将には伝達を出す。お前は行軍の途中、どこで呂布を罠にはめるか見極めることだ」

「かしこまりました」

 戦のことを考えると胸が躍る。わくわくしながら地図を見ていると、曹操が妙に沈痛な面持ちでいることに気づいた。

「殿? 何か気にかかることでも?」

「いや、戦とは関係はないのだが……陶謙が、病らしい」

 曹操の話によれば、間諜が陶謙が病に倒れたと情報を持ってきたらしい。郯の城では重臣を集めて議論が行われているらしいという噂もあり、それだけ重篤の可能性が高いということだ。

「呂布さえいなくなれば、徐州に目を向けることも可能か?」

 問われ、郭嘉は暫時迷った。呂布がいなければ、不可能ではない。ただ、どの道糧食が足りないことは同じだ。

「呂布を殺したらすぐに、というのは難しいでしょう。けど、その時期を早めることはできます」

「ならば、定陶攻略にかこつけて、援軍に来るであろう呂布を陥れ、殺す。お前はそれを中心に考えろ。必ず仕留めるのだ。定陶攻略は、俺が算段をつける」

「かしこまりました」

 言いながら、そう簡単ではないだろう、とは思っていた。それでも、なんとかしたいという気持ちは強い。

 もう一度地図を見つめ、郭嘉はそれでも心が沸き立つのを感じていた。




 年が明けてすぐ、定陶攻略になった。

 定陶の城市をすぐ南にある支城が援護する形になっていて、攻めにくい城だと郭嘉も感じた。ただ、攻めあぐねるのも悪いわけではない。救援にくる呂布から見れば、曹操軍を陥れる好機にも見えるだろう。

「ここと、ここ」

 定陶攻略を始めて十日、郭嘉は夏侯淵を前に地図を指さしていた。

「物見の情報によると、明日にも呂布は来るはずです。だから、ここに兵を伏せて、呂布を討つ」

 曹操から伏兵を指揮するのは夏侯淵、と指名された。先日つっかかってこられたので、郭嘉としてはあまり気は進まなかったが、曹操いわく、夏侯淵は今いる中でもっとも武術に優れ、弓馬の扱いに長けているという。

 しかし案の定、夏侯淵は面白くなさそうな顔をして、地図を睨んでいた。

「言っときますけど、あなたを指名したのは俺じゃなくて殿だから」

「わかってるよ、んなことは」

 夏侯淵は腕を組み、嘆息した。それが郭嘉に命令されるのが嫌で出たものなのか、呂布と正面切って戦わねばならなくなったせいのものなのかは、郭嘉には分らない。

「どうやって兵を伏せる。伏兵なんかで呂布を殺せんのかよ」

「可能です。まず、呂布に勝てないって思いこむのやめてください。呂布なんて、ただ勢いがあるだけのバカだから、横から伏兵でも襲い掛かれば簡単に混乱します。不意を突けば絶対勝てる」

 言い切ると、夏侯淵が胡散臭げに眉をひそめた。

「あなたが勝てないって思ってたら、永遠に勝てませんよ」

 重ねて言うと、夏侯淵はそこでようやくしぶしぶと言った様子でうなずいた。

「わーったよ。だがな、お前、真剣にやれよ。失敗して死ぬのは俺なんだからな!」

「違う。まだ負けるって決めつけてる。あなたが言うべきはこうだ。『勝って戦功第一は俺』ってね」

 即座に言い返すと、夏侯淵はまた嫌そうな顔をしてうなずいた。

「で、どうやる?」

「東緡から来るなら、東からでしょう。東の方の街道見てきましたけど、道は細くて、周囲は草が伸び放題でしたよ。兵を伏せるのに絶好の場所だ。兵を伏せるのはここ。けど、最初は息をひそめて呂布をやり過ごして、一度、ここまで引き込む」

 郭嘉は地図上で指を動かし、定陶に近い位置を指した。

「定陶の連中に、援軍が来たと思わせて、あわよくば打って出させるところまで行きたいんです。この辺までくれば騎兵が来たことくらいは城内からわかると思うんで、ぎりぎりこのあたりまで。殿が慌てて呂布を迎え撃つふりをして、最初の罠にはめる手はずになってます」

「だ、大丈夫なのかよ」

「だから、それやめてくださいって。準備は万全ですよ。呂布は殿の罠にはまって戻ってくるはずだから――」

 郭嘉は再び地図をたどり、定陶から五里離れたあたりで指を止めた。

「で、ここ。ここであなたの出番だ。見通しの悪い林の合間、草は伸び放題だ。そこに、矢を打ち込む。連中は浮足立つはず。あわよくば、そこで呂布を討ってください。ただ、無理はしないで。多分、呂布は最初の罠である程度兵は減らしてると思うんですけど、部下の武将も結構やりますから」

「わかった」

 うなずいた夏侯淵の表情は硬い。まだ負けるかもしれないと思っているのかもしれないが、こればかりは彼の問題だ。郭嘉にはどうすることもできない。

「できれば、この辺に陥穽とか掘れるといいんですけどね。そんな深くなくていいから、浅めのをぽつぽつ街道の中に作ると、馬が足ひっかけて転ぶ可能性もあると思うんですけど。でもちょっと時間ないかな。呂布が行って帰った後だし」

「最初に掘っとけばいいんじゃないのか」

「それじゃ意味ないんですよ。呂布には、俺たちが呂布が援軍に来ること気づいてないふりしなきゃいけないんだから。だから、ここで呂布を待ち伏せしますけど、最初はやり過ごす。呂布が行って帰ってくるまでだから、多分二刻(三十分)あるかないかくらいじゃないかと思うんですけど」

「んなもん、兵が三千もいるんだぞ。総出でやればどうにかなる。なら、呂布をやり過ごした後、穴掘りだな」

「やってくれるんですか?」

「当然だろ! 俺だって、罠は一つでも多い方がいい。絶対勝つんだからな。あと、お前!」

 びし、と鼻先に指を突き付けられ、郭嘉は驚いて一歩引いた。

「お前、責任もって俺たちの隊について来いよ」

「もちろん。最初からそのつもりです」

 郭嘉が笑顔で応じると、夏侯淵はそこでようやく迷いなくうなずいて見せた。




 翌日、郭嘉の策は見事なまでに当たった。

 夏侯淵は最初、街道から少し離れて息をひそめ、呂布をやり過ごしたときはどうなるかとまだ不安だった。

 しかし、郭嘉は迷いがなかった。呂布をやり過ごした後、すぐに兵に指揮を始め、陥穽を掘り、草と土でうまく偽装した。二刻過ぎてから引き返してきた呂布の騎兵隊は、まず陥穽に躓き、次に雨のように降る矢を受け、大混乱に陥っていた。

 周囲に控えていた歩兵に槍を構えさせ、混乱する呂布軍に一斉に突っ込ませる。それでもう、ほとんど勝負は決したようなものだった。

 大混乱の中一人で暴れまわる呂布と、夏侯淵は数回、武器を交えた。

 圧倒的な力と威圧感。それも、戦っている間は必死で、さほど感じなかった。圧倒的な武は確かにある。一対一では勝てないだろう。だが、伏兵にやられてうろたえているところを襲う分にはそこまでの脅威は感じなかった。

 何度はせ違ったか、あらかたの兵は逃げ、周囲に死体が散乱したころ、呂布は部下の武将に引っ張られるようにして撤退していった。

 呂布に、勝ったのだ。

 首を獲れないまでも、呂布の連れていた歩兵はほとんど壊滅だった。騎兵も多くが罠にはまり、何頭もの馬が怪我をして死体と共に転がっていた。

 しかも、自分はあの鬼神のような男とまともにやりあって、さほど後れを取らなかった。

 兵たちも同じようなことを思ったのだろう。呂布が逃げた直後、耳を覆いたくなるような歓声が周囲には響いている。夏侯淵も一緒になって雄叫びを上げ、ひとしきり勝利に酔いしれた。

「皆、喜ぶのはまだ早い! 敵の置いてった兵糧と、馬回収して定陶に戻るぞ! 早くしろ!」

 指揮官のはずの夏侯淵を差し置いて、郭嘉がてきぱきと指示を出している。兵たちはすぐに気を取り直し、それに従っていた。

「お前、嫌に冷静だな。ほとんど初陣だろ? 嬉しくないのかよ」

 夏侯淵が言うと、郭嘉は当たり前みたいに肩をすくめた。

「想定内の結果だから、喜べって言われても。呂布の首、獲れてたら飛び上がって喜んだかもしれませんけど」

 郭嘉に悪気があったのかどうかはわからない。ただ、夏侯淵には「お前がうまくやらなかったせいで呂布の首が獲れなかった」というふうに聞こえた。

「失敗だったってのかよ」

「違いますよ。成功は成功。ただ、殿には呂布の首取れませんでしたって報告しなきゃいけないから、次の策、考えなきゃいけませんけどね。けど」

 郭嘉はにこりと笑って夏侯淵を見上げてきた。

「これでわかったでしょ? 呂布は絶対に勝てない相手なんかじゃないんだ。妙才殿、すごかったですよ。もうちょっとで呂布を討てそうだったのに。殿があなたが今いる中で一番の猛将だって言ってたのは本当ですね」

 褒められているのはわかった。わかったが、それもなにか、気に食わなかった。

 その後、どこからどうみても初陣らしからぬ落ち着き払った郭嘉の指示で、兵たちはてきぱきと後処理をして、一時後には定陶に戻っていた。

「殿、勝ちました。呂布は逃げてったし、奴ら、馬も兵もかなり失った。すぐには攻め寄せられないでしょう」

「そうか、よくやったな、妙才。お前ならやれると思っていたぞ」

 曹操が笑って肩を叩く。それに拱手していると、隣にいた郭嘉が言った。

「すみません、殿。呂布は仕留め損ねました」

「よい。気にするな。かなり大きな戦果を挙げたのだ。また次、奴を仕留めればいい。すぐに策を考えよ」

「はい。まずは定陶をどう落とすかだと思います。俺、戦況を見てきたいと思うんですけど、いいですか?」

「構わんぞ。護衛は連れて歩けよ」

「はい。じゃ、行ってきます」

 郭嘉は曹操に拱手し、夏侯淵にも拱手して幕舎を出て行った。

 郭嘉を見送る曹操の眼差しが、妙に楽しげだ。多分、曹操は相当郭嘉を気に入り始めている。それは、感じていた。

 今までも、荀彧が来た時、戯志才が来た時、いずれも曹操は時を惜しんで彼らと語り合おうとした。気に入ったからだ。郭嘉もまた、最近昼夜問わずほとんど曹操と一緒だという。曹操が新参の智者を気に入るのはいつものことといえば、いつものことなのだが。

「どうした、妙才?」

 気づけばむっと顔をしかめ、考え込んでいたらしい。曹操に問われ、夏侯淵はいえ、と首を振った。

「殿、あいつ……ムカつくけど、すごいわ」

「むかつく?」

「初陣のくせに落ち着き払って、俺が勝って喜んでる横で、てきぱき兵に指示出したりさぁ。挙句の果てに嬉しくないのかって聞いたら、『想定内なんで、別に』とか言いやがって」

 夏侯淵の言葉に、曹操が声に出して笑った。

「それはそれは」

「けど、ほんっとむかつくけど、あいつ、まるで本当に見えてたみたいに策が当たっちまった。俺より年下のくせに」

 郭嘉は自分よりもかなり年下だ。なのに、自分よりずっと落ち着いていて、曹操が認めるだけの才もある。それが、憎たらしい。

 その内心を見透かしたのか、曹操はねぎらうように夏侯淵の肩を叩いた。

「年齢は関係なかろう。だが、あれは知恵しかない。お前の武あってこその勝利だ。そしてまた、お前も、奉孝の智があってこそ勝てた。それを忘れるな」

「それは、わかってます」

 わかっていても、面白くない。それだけはどうしようもないことだった。




 曹洪が定陶の陣営に到着したのは、曹操が定陶の攻囲を始めてひと月ほど経った頃だった。

 率いていた二万の内一万は乗氏に置き、残りの一万を率いて陣営に着くと、真っ先に出迎えたのは夏侯淵だった。

「洪兄、遅いぜ」

 曹家と夏侯家は代々姻戚関係にあり、姓は違っても夏侯淵は従弟のような存在だった。年の離れた夏侯淵は、昔から曹洪を洪兄と呼んだ。

「どうなんだ、攻囲は。呂布が一回援軍として来たとか聞いたが」

「ああ、半月くらい前に一回な。でも、見事なくらい勝ってさぁ」

「それはすごいな。よくあの呂布相手に」

 曹洪は褒めたつもりだったのだが、夏侯淵はなぜかあまり嬉しそうではない。不思議に思って見つめると、夏侯淵はむすっとして言った。

「新しく来た軍師が結構すごくてさ」

「へえ、そりゃ」

「城は落とせてないけど、本当未来が見えてるんじゃないかみたいにばんばん言ってること当たるんだよ。すっかり殿も気に入っちゃって。ムカつくけど、あいつすごいわ」

 すごい、と夏侯淵が言ったことに曹洪は少し驚いた。彼はあまり他人をほめたりしないたちなのだが。

「戯志才よりも?」

「多分。でも洪兄、気を付けたほうがいいぜ。あいつ、ほんっとムカつくから」

 ふてくされる夏侯淵をみて、曹洪は苦笑した。多分、新しい軍師が気に入られているのが気に食わないのだろう。

 その後、夏侯淵と別れ、曹操の幕舎へと向かった。

「殿、遅くなりました。曹洪です」

「うむ。本当に遅かったな」

「そんな。これでも色々あったんですよ。ちゃんと、ご命令通りに東平鎮撫してきたのに」

 おどけて言うと、曹操もまた笑顔になる。曹操は、曹洪にとって仕えるべき主ではあるが、同時に愛すべき従兄でもあった。一応臣下としての礼儀はわきまえているが、子供の頃のような気安さも続いている。

「まずは報告です。ご命令通り乗氏に一万置いてきました。あと、――」

 つらつらとここにくるまであったことを説明していると、曹操の隣に若い男が控えていることに気づいた。

 荀彧のような美々しさはないが、なかなか目鼻立ちが整っている。小柄でひょろひょろだが、眼差しには力があり、いかにも賢そうだ。

「で、さっき妙才に言われたんだけど、なんかすごい軍師が来たって?」

 若い男を見ながら言うと、彼はきょとんと目を丸くした。そうすると、印象はぐっと幼くなる。

「妙才の奴が気に入らないって喚いてましたよ。気に入らないけど、すごいって。あいつがあんなこと言うなんて珍しい」

「だそうだぞ、奉孝」

「はぁ」

 にやにやしながら言った曹操に、若い男はちょっと困った様子で返事をしている。

「もしかして、これが?」

「そうだ」

 曹操と共にじっと見つめると、若い男はわずかに眉をひそめてから、拱手して頭を下げた。

「潁川出身の郭嘉、字を奉孝と申します」

「へえ、意外と普通だな」

「は?」

「いや、戯志才はすごく変な奴だったからさ、ついああいうのを想像してたんだ。それが、案外普通の優男だから」

 悪い悪い、というと、曹洪は郭嘉に向かって手を差し出した。

「俺は曹洪、字は子廉だ。殿の従弟にあたる。できる奴が増えて嬉しいよ。よろしくな」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「お前さん、呂布のところにいた奴だよな? あの、蝗がふってきた戦を裏で操ってた奴」

「裏でって言うか……、そこまでじゃないですけど」

「大したもんだって思ってたんだよ。てっきり年上だろうと思ってたんだけど、こんな若い男とはなぁ。妙才がふてくされるのもわかるわ」

 夏侯淵としては、自分より年下の男が曹操に重用されているのが気に入らないのだろう。夏侯淵は従軍している武将の中でも若い方で、何かと若輩者だ、と言われることが多かった。それなのに、自分よりぐっと若い男が評価されていて面白くないのだろう。

「それはそうと、殿。東平から東郡経由でこっち来ましたけど、程昱殿から進物」

「進物?」

「東郡でかき集めた穀だそうですよ。大体七・八千石くらいだったかな」

「何!?」

「荀軍師と話して、二千石は濮陽に置いてきました。あっちはかなりひどいですからね。残りの内、半分は乗氏の軍にも持たせて、半分は持ってきましたけど」

「一体どこから捻出したのだ」

 呆然とつぶやく曹操に、曹洪はちらと周囲を見回してから小声で言った。幸い幕舎の中にいるのは曹操と郭嘉だけだ。

「どうも、東阿で略奪したみたいですよ。じゃなきゃ、強引に徴発したか」

 曹洪が言うなり、曹操は嘆息した。

「あいつはなんでそんな、ろくでもないことを……」

「でも、助かったは助かったでしょ?」

「しかし、大丈夫なのか。東阿は、反乱の際も背かなかった数少ない城市だというのに」

「そこは地元だからなんじゃないですかね。程軍師は全く心配ないって胸張ってたけど……。ただ、噂によると結構強硬に徴発したみたいですね。ちょっと変な話も聞こえてきてるし」

「変な話?」

「逆らったやつの肉、刻んで兵糧に混ぜたんじゃないか、って」

 今度は曹操だけでなく、郭嘉もあからさまに顔をしかめていた。

「なんだそれは」

「噂だよ、噂。ま、でもありえない話じゃない。俺らは人肉なんてありえないって思いますけどね、実際東郡のひどいとこじゃ食うもんないからって人間を殺して食べてるって話だから」

 曹操が頭を抱えて嘆息する。飢饉になれば人が食らいあうというのは聞いたことはあるが、まさかそれが現実になるとは、というところだろう。

「早く収拾をつけねば……。奉孝、どうだ。やはり妙策は出ぬか」

「はい。やっぱりここは一度定陶は諦めて、乗氏に戻りましょう。そして、鉅野を攻める。そうすれば、呂布をおびき出せる契機にもなります」

 郭嘉の言葉に、曹操はうなってひげをさすった。

 ひと月も粘ったのにあきらめるのか。驚いて見つめると、郭嘉は淡々と言った。

「もう一月経つのに、呂布は最初の一回攻め寄せただけで二回目がありません。勝てないと思ってふてくされてるんじゃないかと思います。呂布は割とそういうむらっ気のある男でしたし。それに、定陶はやっぱり堅城です。簡単には落ちない。それに、守ってる奴もこっちを攻めようっていう気がないから門を閉ざしたままだ。付け入る隙がありません。物資が少なく、背後も安定しない状況でここにこれ以上しがみつくのは危険ですし、損失も大きい」

「我らがここを後にして、呂布が定陶に拠る可能性は?」

「可能性は低いと思います。俺、定陶の太守はどっちかっていうと、呂布に加勢して反乱を成功させることより、自分の利権を守るのに必死な気がしますね。全然攻め寄せてこないでしょ? 殿に膝を屈する気はないにしても、呂布にもそこまで加担する気ないんじゃないかな? ここひと月、一回やってきただけですぐに諦めて帰ったろくでなしに膝を屈しようなんて、いつまでも思えるもんじゃない。呂布が定陶に来たとして、おとなしく受け入れますかね?」

「確かにな。俺もそれは感じてはいるのだが」

「そういや、ここに来るまでに聞いた話だが、この近辺の城市では呂布の軍に略奪されて、かなり呂布への嫌悪感が強いみたいだな。定陶も、呂布についたとはいえ、奴を受け入れれば略奪で物資を奪われるんじゃないかって結構警戒してんじゃないか?」

 曹洪が言うと、曹操がうなずく。

「ありうるな」

「むしろ俺たちが鉅野を攻めれば、呂布はそっちに出てくるでしょう。救援目的もそうですけど、呂布は城に籠ってるの苦手なんですよ。いい遊び場ができたくらいの気持ちで出てくるはず。奴の首を獲るきっかけになる」

「お前、簡単に言うなぁ。そこで、呂布を討てるって?」

 曹洪が言うと、郭嘉が笑った。にこりと微笑んでいるようでいて、その目は笑っていない。策士らしい、抜け目のない笑顔だ。

「そこはやってみないと。でも、ここにじっとしてるよりはずっと確率は高い。もたもたしてたら夏が来て、あっという間に収穫の時期になりますよ。それまでにやれること、やっておかないと。ていうか――」

 郭嘉が小首をかしげ、嘆息した。

「あなたも、呂布に勝てないとか思ってるクチ? やっと払拭できたと思ってたのに」

 使えない奴、とでも言わんばかりだ。

 なるほど、夏侯淵が「ムカつく」と連呼したのもうなずける。ただ、曹洪にとってはいちいち腹を立てるほどのものではなかった。あの訳の分からなかった戯志才を思えば、かわいらしく思えるくらいだ。

 曹洪は笑って、曹操に目を向けた。

「なかなか、骨のありそうなやつですね、殿」

「そうだろう」

 曹操も一緒になって笑っている。

「いや、切れる軍師が来て頼もしい限りだな。期待してるよ、郭軍師。あんたが呂布の首、獲ってくれるのをな」

 そういうと、郭嘉はまたちょっと嫌そうに顔をしかめた。

「ともあれ、完全に攻囲を解くのも危険だ。子廉、お前はここに残り、一万で定陶を囲め。我らは残りを率い、鉅野で呂布討伐を目指す。よいな」

「は!」

 郭嘉と共に拱手して返事をする。ちらと見た郭嘉の楽しげな眼差しを見て、曹洪はこいつはきっと曹操とうまくいく、と確信していた。

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