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軍師の心情 ~曹操の軍師たち~  作者: 西本夏
3.兗州平定
35/64

35:<郭嘉編>異床同夢

呂布討伐に向かう前、悪夢に悩まされた郭嘉はふと夜中に出歩く。

そこで同じく悪夢に悩まされる曹操を知ることに。

「そうか、孟徳は断ったか。まあ、そうだろうな」

 袁紹が気のない様子でそういうのを、荀諶は目を伏せながら聞いていた。

「そもそも無理な話よ。いくら穀に窮するからといって、二万石で曹操の妻子を人質に取ろうなどと。癇の強い曹操のこと、怒り出すに決まっておるわ」

「まあまあ、二万石無くならなかっただけよしとせねば。もし向こうが受けると言ったら穀を送ったはいいが、妻子が送られてこぬということもあり得た」

「それを言うなら、わざわざ二千石も送ってやらんでもよかったのではないか」

「そこはそれ、本当に穀に窮すれば、曹操が呂布に負けて、それこそ防衛が――」

 さんざめく袁紹の軍師たちの皮肉に満ちた言葉を聞きながら、荀諶は人知れず嘆息した。

 これで、自分の出世の芽はほぼ潰えたと思っていいだろう。ここに留まる意味はあるのか。かといって、今から曹操のところに行くのは死んでもごめんだった。あの兄に、頭を下げることになりかねない。

 袁紹を捨て、曹操のところに行った荀彧は今や曹操の右腕だ。曹操に「我が子房」と褒め称えられ、恃みにされているという。

 片や、自分は――

「やはり、二千石無駄にしたのではありませんか。友若殿の献策は完全に無駄でしたな」

 あざ笑うように言ってきた郭図に、荀諶はすっと目を細めた。

「そういえば、曹操殿の隣に懐かしい方が」

「懐かしい? 誰だ」

「郭奉孝殿です。聞けば、最近曹操殿に仕官したのだとか。かなり気に入られているようで、曹操殿のすぐ傍に控えておいででした。公則殿から、彼はもうどこにも仕官するつもりはないと聞いていたので、どうしたのかと問うたところ――」

 ちらと郭図に視線をやる。彼は、愕然と目をみはっていた。

「『ようやく身命を賭して仕えるべき主を見つけた』と。どうやら彼も、見る目のない男だったようで」

 荀諶の言葉に、場は再びざわついた。郭嘉が袁紹に気に入られていたことは皆が知っている。郭図が、再三袁紹に求められながら、彼を呼び戻せなかったことも。

「なんと……! 彼まで曹操の下へ」

「いや、奴は元々荀彧と近しかったゆえ、荀彧が呼び寄せたのではないか」

「それにしたって、親族の公則殿の言には従わず……」

 その場にいる全員から視線を浴び、郭図が悔しそうに唇を噛む。それに、荀諶は少しだけ留飲を下げた。

 しかしそれも、くだらない話だった。

 日々明け暮れるのはつまらない権力争い。しかもそれに勝つのは功績を挙げた者よりも、袁紹に気に入られた者の方が多い。

 主を、見誤ったのか。

 だがそれも、最終的に袁紹が天下を獲りさえすれば話は違うはずだ。曹操などに天下が獲れるはずもない。目下、曹操の勢力は袁紹の半分にも満たない。

 自分は間違ってはいない。

 郭図を責める幕僚たちの言葉を聞きながら、荀諶は一人瞳を閉じてそう己に言い聞かせた。




「父上、此度は私もお連れください!」

 いよいよ出陣、となったその朝、やってきたのは曹操の長子、曹昂だった。

 年の頃は二十歳前後くらいだろうか。いかにも真面目そうなその面差しは、あまり曹操には似ていない。彼が曹操を父と呼んでいたから息子とわかったが、そうでなければ彼が曹操の子だとは思わなかっただろう。

 夏侯惇と夏侯淵がしようがないなとばかり苦笑しているのに、当の曹操の表情は冴えない。彼は乗ろうとしていた馬の手綱を持ったまま、すっかり具足に身を包んでいる曹昂をつま先から頭のてっぺんまで眺めまわした。

「まだ、早いのではないか」

 心配して言っているというよりは、単に気が進まない、という声音だ。曹操のその言葉に、曹昂は拱手し、その場で片膝をついた。

「父上、先日も申し上げました。私は父上のように立派な武人として世の役に立ちたいのです!」

「しかし言ったではないか。丁娥が、お前には学問をさせろと。戦場に連れて行くなど以ての外だと言っていただろう」

「母上は、ちゃんと説得いたしました。ですから、父上!」

 それでも、曹操はまだ渋い顔をしている。

「いいじゃないか、孟徳。連れて行ってやれ。剣の腕は俺が保証するぞ」

 横から声をかけたのは夏侯惇だった。次いで、夏侯淵も声を挙げる。

「殿、子修殿はもう二十一歳ですよ。全然早くないですって」

「二十一歳? もうそんなか」

 曹操はどうやら息子の年齢を把握していなかったらしく、目を丸くしている。次いで、傍らにいた郭嘉に目を向け、問うた。

「郭嘉、お前はいくつだ?」

「俺ですか? 二十五ですけど」

 郭嘉が言うと、曹操はまた曹昂に目を戻し、しようがない、とばかりうなずいた。

「よかろう。本当にあれを説得したなら、だが」

「本当です! なんでしたら母上をここに」

「やめろ、出立が遅れる。いいか、子修。肝に銘じろ。息子といえど手加減も特別扱いもせんぞ」

「はい!」

 嬉しそうに曹昂が返事をする。それを見ていると、周囲も笑顔になってしまうような嬉しそうな表情だった。

 曹昂はその場にいた幕僚たちに「よろしくお願いします」と言って回り、最後に郭嘉にも拱手してきた。

「郭奉孝殿とおっしゃるのですね。曹昂、字を子修と申します。よろしくお願いいたします。不慣れですが、精いっぱいがんばりますので」

「そんな、やめてくださいよ。俺も、きちんと従軍するのは初めてだし」

「え、そうなんですか?」

 途端に曹昂はまた嬉しそうに微笑んだ。

「だったら、尚更。心強いです。不慣れなのは自分ばかりかと――」

「子修! 郭嘉! 遊んでおる暇はないぞ! さっさと並べ!」

「はいっ」

 二人同時に返事をして、目を合わせて笑った。

 一行は一旦濮陽へ向かってから、そこから南下する予定だ。朝早くに出立して、日暮れ前には濮陽に到着していた。

 兵は城外に待機して、翌日には出立だ。郭嘉は曹操たちと共に府に向かい、軍議に参加することになった。

 出迎えた荀彧は、居並ぶ幕僚の中に郭嘉と曹昂を見つけ、嬉しそうに微笑んだ。

「そうですか、若君も。ついに初陣ですね」

 はい、と曹昂がまた嬉しそうに返事をする。どうやら曹昂は相当素直な性格のようだ。

「奉孝殿も。ようやく、収まるべきところに収まってくれたという気持ちになります」

「……はは、そうかもね」

「あなたもきちんと従軍するのは初めてではないのですか? 二人とも、初陣で手柄を立てられるよう、祈っています」

 荀彧は拱手すると、すぐに卓の上に広げられた地図に目を落とした。

「さて、わたしの手の者が集めた情報ですと、まず呂布ですが、乗氏で攻城に失敗して東へ向かったということでしたが、どうやら鉅野ではなく、別の城市にいるようです。南下したということでしたので、おそらく昌邑あたりではないかと思っていたのですが、ついさっき昌邑も呂布を退けたと連絡がありました」

「ほう」

 曹操が興味深そうに目を細める。

 昌邑は山陽郡の中心都市だ。山陽郡の太守は呂布につかなかったということだろうか。

「詳しい状況は不明ですが、呂布は攻城戦が苦手なのではないでしょうか? 乗氏もそう城壁の高い都市ではありませんが、呂布を退けています。昌邑はぐっと城壁が高いので、おそらく戦う前にあきらめたのではないかと。結局、呂布はすぐ近くの東緡に拠ったようです。定陶からも鉅野からも同じくらいの距離にありますから、そのどちらかが攻められても救援に行きやすいように、というふうに考えたのかもしれません」

 荀彧が次々に地図を示していく。東緡は鉅野と定陶からほぼ同じ距離にある。三つの城市を結ぶと三角形になり、その間を確保しようとした可能性もあるだろう。

「兵はそこまで多くはないようです。それぞれ多くて一万。彼らも穀には困っているはずなので、そう増えることはないでしょう。一方、呂布の攻囲を跳ね返した乗氏より西は、あまり呂布の勢力は強くない、と見ます。ただ、句陽と離狐には守将がいて、それぞれ数千の兵もいるとか。といっても、守将は文官、兵もせいぜいで二千から三千です」

「攻囲はさほど難しくはなさそうだな」

「はい。守将たちもどこまで積極的に呂布に加担しているかわかりません。殿に一度叛いた以上、許されることはないと思ってしようがなく呂布についている可能性もありますから」

 伺うように荀彧が曹操を見る。しかし曹操は地図に目を落としたまま、反応しなかった。

「あと、ひとつ気になることが。東武陽なのですが、袁紹の派遣した東郡太守の臧洪殿に不穏な動きがあるとか。彼は張超の故吏で、張邈が呂布に加担したことから、自分も張超の下へ向かいたいと袁紹に願い出たとか。もちろん、袁紹は却下したそうですが」

「ああ、それは聞いている。厄介なことだ」

「ご存じでしたか。さすがお耳が早い」

「いや、お前の弟が来てな」

「えっ、友若が? それは、どういう」

「袁紹の使者として来たのだ。穀二千石と共に、俺に妻子を冀州へ移動させてはどうかと言いに来た」

 それは、と荀彧が顔色を変える。それに、曹操は肩をすくめた。

「もちろん断った。その時に、東武陽が不穏だから鄄城も安全とは言えまいと言っていたのだ。確かに、東武陽に敵がいると思えば面倒だが。実際どうなのだろうな?」

「わたしが得た情報では、東武陽の城内には元々の守兵八千がいて、城外には郭貢殿が率いていた二万が控えているということです。元々はその二万は州境の賊徒を睨み、どこかに駐屯させるはずだったそうですが、臧洪殿の動きが不穏なので、そのまま東武陽に駐屯させることになったとか」

「ということは、八千を二万で見張っておるということか」

「そうなります。ですから、すぐにどうこうということはないとは思うのですが、一応警戒だけはしておいた方がいいかと」

 荀彧の情報網はすごい、と郭嘉は感心した。一体どこから情報を調達しているのだろう。

「ならば、そこまで多く兵を割く必要もないな。元譲、お前一万を率いて鄄城に戻れ。お前は濮陽から東平にかけての守将だ。とりあえず、変事がないよう備えろ。東平にいる子廉には平定が終わり次第こちらに合流しろと伝令をだす。子孝、そなたは兵五千を率いて句陽へ向かえ。子修、お前も同行せよ」

 は、と二人がそろって拱手する。

「で、残りの者は私と一緒に離狐攻囲だ」

 他の幕僚たちと共に返事をし、その場は散会になった。




 郭嘉が悪夢にうなされて目が覚めたのは真夜中だった。

 軍議の後、曹操について閲兵をした後、幕僚たち全員で食事になった。終わったのがちょうど日暮れごろで、移動の疲れもあって食事を終えるなりすぐに眠った。

 のだが、夜半に悪夢にうなされて目が覚めてしまった。

 夢はいつものように母が死ぬ夢だ。それも、いつもより妙に鮮やかな夢だった。夢の中で何度もこれさえやれば母を救えるかも、あるいはこれをしてしまったら母が死ぬ、と思いながら行動して、最後の最後には血まみれの母を抱いて終わる。

 郭嘉は深いため息をついて再び目を閉じた。何とか眠れないだろうかと思ったが、さっきの悪夢で味わった嫌な感触がずっと脳裏から離れない。

 しようがなく、郭嘉は傍にあった上着を羽織って室の外に出た。

 冬の空気は肌を刺すようだ。上着の襟をぎゅっと掴み、回廊を歩く。

 悪夢がいつもより鮮やかだったのは、ここが濮陽だったから、だろうか。

 府に入った時も、外で閲兵していた時もちらちら濮陽で囚われていた時のことを思い出していた。わずかひと月ほど前のことなのに、もう一年もたったかのように感じられる。しかし、そこここで感じる感情だけはひどく鮮やかだ。

 あそこでああしていれば。

 今日、何回そんな不毛なことを考えただろう。どっと疲れたのは移動で体力を使っただけでもないのかもしれない。

 一番ひどかったのは、曹操と閲兵に行って城壁に上った時だ。

 当時は胸が躍るような楽しい感情だった記憶しかないのに、今城壁の上に上ると己の愚かさが心底嫌になってめまいさえ感じた。

 ――俺って、弱い。

 こんなところは誰にも見せられない、と思う。

 曹操は移動の最中も閲兵の最中もずっと郭嘉を試すように問答を仕掛けてきていた。兵法の知識がどれくらいあるのかを試されていたのだろうと思う。それはそつなくこなせたと思うのだが、言葉の端々から曹操がはっきりと自分に期待していることが感じられて、不安だった。

 別に作戦を立てるのも戦場に立つのにも不安はない。ただ、このどうしようもない後悔と、時々起こる禍々しい怒りをどこまで抑えられるのか。もしかしたら自分は陳宮や呂布を前にして冷静な判断ができなくなるんじゃないか、そんな不安が頭をもたげてくる。

 足の赴くままうろうろと官舎の回廊を歩いていると、ふと人の気配を感じた。

 角を曲がると、庭で剣を振っている人間の姿が見えてくる。誰だろう、と思っていると、郭嘉が声をかけるより早く、相手がこちらを振り返った。

「誰だ?」

 曹操だ。咎めるような声ではなかったが、郭嘉はびくりとして足を止めた。

「郭嘉です。すみません、お邪魔しました?」

「いや」

 曹操は剣を鞘に納めると、それを手に持って郭嘉へと近づいてきた。見れば、彼は薄手の単衣一枚だ。寒くないのだろうか、と驚く。

「殿、その格好」

「動いていると暑くてな」

 寒くないんですか、という前に、曹操は笑って回廊に脱ぎ捨てられていた袍を手に取った。しかしそれを着ることはせず、肩にかけている。

「こんな夜遅くまで鍛錬なさってるんですか」

 曹操は剣術にも長ける、と聞いたことはあるが、時間を惜しんでまで鍛錬するほどとは思わなかった。しかし、帰ってきた曹操の言葉は意外なものだった。

「眠れなくてな。体を動かせば眠くなるかと思ったのが」

「え? そんな激しく運動したら余計目が覚めるんじゃないですか?」

「お前こそ、どうした? 疲れたから寝ると真っ先に寝所に行ったのではなかったか。まだ夜半だぞ」

「あー、それは……。一回寝たんですけど、夢見が悪くて目が覚めちゃって、眠れなくて。散歩でもしたら、眠くなるかなーと」

 じっと見つめてくる曹操の視線が気まずい。似たようなことを言っているのがおかしかったのか、曹操はまたふっと笑った。

「ならばちょうどいい。ついて参れ」

 連れて行かれたのは曹操の居室だった。曹操は着くなり従者に碁盤を用意させ、そこに座るよう郭嘉に言った。

「碁は打てるか?」

「はい」

 渡されるまま黒石の碁笥を受け取り、定位置に石を二つずつ並べる。対局の場合は貴人が白石を持ち、先番を打つと決まっていた。

「碁がお好きなんですか?」

「そうだな。勝負事は何でも好きだぞ。ついでに言うなら、俺は大抵の勝負事に強い」

「はは、さすが」

 最初は笑って相手をしていたのだが、数手打ったあたりで曹操のその言葉が嘘でも何でもないことに気づいた。

「もしかして、ものすごく、強いんじゃ」

「だから言っただろう。俺は強いぞ、と。お前は、まあそれなりだな」

 曹操が哄笑する。それに、郭嘉は言葉を返せなかった。

 郭嘉も碁にはそこそこの自信があった。負けたことがないとは言わないが、大人になって負けたことなど数えるほどしかない。冀州では賭け碁をしてかなり稼いだくらいだったのに。

 それを、「それなり」とは。

 悔しいと思っていられたのは、本当に序盤だけだった。盤面が半分ほど埋まってくると、もう明らかに勝てないとわかってやる気を失うほど、曹操は強かった。

「殿、あの……」

「続けよ。手加減してやる」

 曹操が笑って返してくる。しようがなく、郭嘉は次の手を打った。

 ちらと見ると、曹操はじっと盤面を見つめていた。圧倒的に勝っているのだから、盤面を見て次の手を考えているなどということはないだろう。

 ならば、彼が望んでいるのは何なのか。

 ふと、さっき彼が眠れないと言っていたことを思い出した。

「さっき、眠れないとおっしゃってましたけど」

 郭嘉が言うと、曹操がちらと視線を挙げる。かけらほども眠そうではないその眼差しは、それでもいつもよりは穏やかだった。

「まあな。ここのところまともに寝た記憶がないな。不思議と、戦場に行くとよく眠れたりするのだが」

「だ、大丈夫なんですか?」

 曹操が小首をかしげる。

「最初は、眠らねばと思っていた。だが、そう思っても眠れるものではないと気づいた。だから、体を動かしたり、誰かとしゃべったりする。そうするうちに眠気が来て、夜明け前の一時くらいは眠れたりする。まあそれで、なんとかなっているから大丈夫だろう。これも――」

 曹操は従者が運んできた茶に口をつけた。郭嘉にも供されたその茶は、甘い香りのする珍しい茶だった。

「眠くなる茶だと言われたのだが、まったく眠れたためしがない」

「へえ、そうなんですか」

 自分も茶器を手に取り、口に含んでみる。飲むと、香りは甘そうだが別に甘くはない。

「所詮茶ですし。まだ薬湯とかのがいいんじゃないですか? 俺、毎晩薬湯飲んでますけど、眠くなりますよ。あ、でも最近は夜中に目が覚めて眠れなくなることもしょっちゅうですけど」

 結局意味がないも同然だ。苦笑して頭を掻くと、曹操が淡く笑ったのがわかった。

「お前も、眠れぬのだな」

「そう、ですね。ここ最近。ろくな夢、見なくて」

「こないだ言っていた、悪夢の話か」

「……はい」

 お互いじっと盤面を睨みながら、ぽつぽつと言葉を交わしていた。たまに石を打つ音が、言葉の合間に響く。

「悲しいのか? それとも怒りゆえか」

「うーん、どっちかっていうと、悔しい、かな。何もできなくて、もしあそこでああしていたらって、ずっと考えちゃうんです。何度か泣いちゃったりしましたけど、それも、悲しいっていうよりは、悔しくて、何もできない自分が嫌でつい泣いちゃうみたいな感じだったような……。おかしいですよね。普通は悲しくて泣くんでしょうけど」

「おかしなものか」

 笑ってごまかそうと、郭嘉は殊更明るく言ってみたのだが、それを断ち切った曹操の声は随分と真摯だった。

「おかしくはない。そんなものだろう」

 つぶやくように言い、曹操が白石を置く。

 聞いてもいいものかどうか。

 ずいぶん迷ってから、郭嘉は自分も黒石を置きながら、言った。

「もしかして殿も、同じような夢、見ます?」

 しかし、すぐには返事が返ってこなかった。

 あの荀彧が、曹操を気遣って徐州のことを諫言できなかったくらいだ。曹操の一番の謀臣ともいうべき荀彧さえ聞かなかったことを、もしかしたら郭嘉は聞いてしまったのかもしれない。新参者がずかずかと踏み込んできて、と思われているかもしれない。

 聞くべきじゃなかったな、と思っていると、また、ぱちりと曹操が白石を置いた。

「夢に、見ることもある。ただ……」

 曹操は言いながら、じっと碁盤を見つめながら、まるで言葉を探すように、ひげをさすっていた。

「おそらく、お前と俺の見ている夢は違うだろう。俺も、どうしようもない悔悟の思いはある。どうして父を傍に置かなかったか、どうして兵を迎えにやらなかったか。色々考えた。だが、俺の一番の思いは、陶謙をこの手で殺したい、だ」

 曹操が右手を碁盤の上に掲げ、こぶしを握った。

「あらん限りの苦しみを与え、四肢をちぎってから少しずつ殺すつもりだ。どうやって殺すか、それを毎晩夢に見る。起きているときも、ふと気が付くとそんなことを考えていたりする。眠れぬ夜は、特にな。だから剣を振り、女を抱き、必死に忘れようとするが、すぐまた、その考えは襲ってくる」

 曹操は握った拳を見つめ、皮肉そうに口許をゆがめた。

「我ながらおぞましい人間だ。陶謙を殺したところで父が生き返るわけでもない。ただ、このどうしようもない怒りのようなものが、時として俺の理性を奪う。衝動的になり、感情を抑えられず、暴れてもなお収まらず――。後はお前も知っての通りだ。青州兵は、まるで俺の内心をくみ取ったかのように動いた。徐州を攻めているとき、俺はまさしく、この世のすべてを殺しつくしたいとさえ、思っていた。ただ、最後の最後に、最も殺したかった男は殺せなかったがな」

 曹操が手を下ろし、肩をすくめる。彼の口元にはまだ皮肉そうな笑みが浮かんでいた。

「俺も、毎晩毎晩思っている。陶謙を八つ裂きにすれば、このおぞましい妄執から逃れられるのだろうか、と。早く、それを試したいものだ。もちろん、そのためには地盤を固め、絶対に勝つだけの準備をせねばならん。それはわかってはいるが、時に、もどかしい」

 そこまで言うと、曹操はようやく顔を上げ、郭嘉を見つめてきた。

「お前は若いのによく己を抑えている。そんなお前から見れば、俺のしたことはさぞかし浅はかなことだろうな」

「そんなこと」

「気休めはいい。ある程度自覚はしている。俺は粗忽な男だ。なるべく感情的にはならんようにと思ってはいるが、時として、己を抑えきれない」

「自覚して、抑えようとしている。それだけでも充分でしょう。人間なんだから、時として怒りに駆られて暴れたりするのも、しようがないことじゃないですか?」

 胡散臭そうに睨まれ、慌てて苦笑して見せた。

「違います? 俺だって感情をしっかり抑えてるわけじゃないですよ。俺が暴れたりしないのは、単にその力がないからです。ろくに剣も振れないし、軍を持ってるわけでもない。俺は陳宮目の前にした時、どうやったら殺せるかって考えまくってましたけど、結局そうしなかったのは、できるだけの手段がなかったからです。だからもし、俺があなたように力のある立場だったら、似たようなこと、したかもって思いますよ」

「お前、こないだは」

「確かに、こないだは偉そうなこと言ってたくせにって感じですよね。けど俺は、殿が思ったよりちゃんと人の意見を聞く人なんだなって驚きましたよ。もっと独断専行する人かと思ってたんで。でも、時として抑えられない時はある。それはしょうがないんじゃないかな。誰だって、そんな完璧になれないでしょ」

「衝動的になっていい、と申すか」

「違いますって。衝動的になりそうになった時、一度立ち止まって考えていただきたい。俺が言っていたのは、そういうことです。そして、今実際そうなさってるみたいだし、俺は、それでいいんじゃないかと思いますけど」

 ごまかすように早口でまくしたて、まだ胡散臭げに見つめてくる曹操に微笑んで見せた。

「正直、前は親を殺されたくらいで虐殺するなんて、って思ってました。でも、母親殺された今は、なんとなくですけど、殿のお気持ちもわかる気がします。俺も、一歩間違ったら怒りに任せてそのくらいのこと、したかもしれないなって。そのくらい俺も、死ぬほど悔しいし、毎日もやもやして、いらいらしてますから。殿もさっきおっしゃってましたけど、ほんと、試してみたいですよ。陳宮を八つ裂きにしたらこのもやもや、なくなるのかどうか」

 肩をすくめて見せると、曹操はそこでようやく納得したようにうなずいていた。

「……きっと、奴を殺したところで、この妄執からは逃れられるものではないのではないか。俺は、そんな気がしている」

「そうですね。俺も、ちょっとそんな気がします。まあ、やってみなけりゃわかりませんけど」

 そこからしばらくは、黙ってお互い碁に集中していた。曹操は郭嘉を導くように手を打ち、郭嘉は郭嘉でそれを受けた手を打っていった。

「まあまあだな。文若あたりといい勝負かもしれん」

 とりあえず盤面が埋まったところで曹操が言う。曹操はまだ眠そうではなかったが、郭嘉はわずかに眠気を感じ始めていた。

「すみません、殿。俺そろそろ」

「そうだな。朝までさして時間はないがゆっくり休め」

「はい。じゃ、おやすみなさい」

 失礼します、と言って立ち上がり、出口へと向かう。しかし。

「郭嘉」

 室から出る直前、呼びかけられて郭嘉は振り返った。

「順調にいけば、俺が陶謙を殺すより、お前が陳宮を殺す方が早かろう。お前の好きなようにさせてやるから、殺した後、感想を聞かせろ。その胸の内の怒りが、消えたか否か。あるいは、多少はましになったのか」

 薄闇の中で、しかも遠目だったので曹操の表情はよく見えなかった。ただ、彼の声は低く響いている。

「かしこまりました。その時は、必ず」

 曹操は曹操で苦しんでいる。

 回廊を歩きながら、郭嘉はそれをしみじみと感じていた。世間では怒りに任せて徐州の民を殺しつくした残忍な男、とばかり言われているが、案外繊細な人なのかもしれない。

 同じと言っていいものかわからないが、曹操が自分と似たような苦しみを抱えている。郭嘉はそれを、なんとかしてやりたい、と思った。

 それがどれだけ苦しいかは、よく知っていたので。

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