22:<郭嘉編>濮陽争奪4
曹操が戻ってきた。どうせ曹操が来れば呂布は負けるに決まっている。そう言う郭嘉に、陳宮は勝利を確信した笑みを見せる。一方、濮陽を目の前にして曹操の下に張邈の手紙が届く。
「奉孝殿!」
郭嘉が最初に閉じ込められた広間に連れて行かれ、入り口に放り出されると、すぐさま母が駆け寄ってきた。
「奉孝殿、よかった、無事で……!」
彼女は泣いて郭嘉の頬に触れてきたが、そこで息子の異変に気付いたらしい。がばと顔を挙げ、連れてきた張邈に向かって声を挙げた。
「どうか、お願いでございます! この通り、息子は薬を飲まないといくばくも持ちません。どうか、邸に薬を」
「それは、そなたの息子次第だな」
張邈が母を見、郭嘉に視線を落としてくる。母の膝の上であおむけになりながら、郭嘉はなんとか首を振った。
「いいよ、母上。どうせもうじき曹操殿が帰ってくるだろ。十万対三万だぞ。勝てるわけない。曹操殿が勝ちさえすれば、ここから解放されるさ。そのくらいは、持つだろ」
「ほ、奉孝殿!」
「まこと、惜しいほどの気骨だな」
ぽつりとつぶやいて、張邈が室を出ていく。それを見送ってから、郭嘉はなんとか上体を起こした。
「母上、無事ですか。他の連中は……」
見回すと、広間には相当多くの者たちがいた。ただ、家僕の姿はない。
「家僕は人質には入らないのだそうですよ。ここには、官吏の方々の家族だけが」
「そうですか。静がいれば、やれることもあるかと思ったんだけど」
郭嘉はなんとか立ち上がると、母に導かれるまま壁際に行き、そこに横になった。一応粗末だが布団らしきものはあり、牢獄の床に横になるよりはずっとましだった。
「奉孝殿、お前はいい加減その減らず口をやめたらどうです。こんな、熱を出してあえいでいるというのに」
母のふっくらした手が額に触れる。その心地よさに目をつむりながら、郭嘉は言った。
「熱出そうが殺されようが、馬鹿に加担して無駄死にするなんて御免ですよ。でも……正直助かりました。あのまま牢屋の床に横になってたら、めげてたかも」
「奉孝殿、いいですか、よく覚えておきなさい」
母の手がなだめるように郭嘉の頬を撫でる。しかし彼女の眼差しは強く、強かな商人の一面が垣間見えた。
「矜持はもちろん大切です。ですが、すべては命あっての物種。誰に膝を屈しようと、誰を欺こうと、最後に己の望みを果たせればそれでいいではありませんか。時には口から出まかせも、腹立たしい相手に膝を屈して見せることも、必要なことなのですよ」
まっすぐに見つめてくるその強いまなざしは、郭嘉が初めて見る母の一面だった。驚いて見つめ返すと、母がふわりと微笑む。
「時には敵に笑顔を向けることとて、策士には必要なことでしょう?」
思いもかけない母の言葉に、郭嘉はもう、笑うしかなかった。
「はは、だから、陳宮に穀と金を?」
「ええ。私にとって、お前は何物にも代えがたい宝です。曹操様に天下を獲っていただきたいと思っていたけれど、それもお前の命が懸かったなら、話は別です。金だろうが穀だろうがいくら積んでも惜しくはありません。だから、奉孝殿。お前はお前の命を大切にしてちょうだい。お願いですから」
母がじっと見つめてくる。その眼差しは、いつもの郭嘉の知る温もりがあった。
郭嘉は苦笑して目を閉じ、一つうなずいた。
「肝に銘じますよ、母上」
曹操が戻ってきた。ほとんど休みもとらず、ひたすらに駆けてきたらしい。
「一晩兵を休ませたら、すぐに濮陽へ向かう。状況は?」
「はい。どうやら兗州のほぼ全域が反旗を翻したようで――」
城門まで出迎えた荀彧は曹操の後ろについて、府に向かうまでにこれまでのことを報告した。
濮陽の人質がそっくりそのまま反乱側に抑えられた可能性が高いこと。濮陽への兵の集まり具合から見ても、兗州全域が反乱側についた可能性が高いこと。また、各地の城市の官吏もその反乱に加担しているらしいこと。
「今、各地の城市からこちらに逃げてきている官吏がちらほらいますが、数は、かなり少なく……」
「よい。大半の連中はそういうものだ。強い方になびく。俺が呂布を打ち破れば、そいつらはどうせすぐにまた、俺に平伏するだろう。もちろん、仕儀によっては許すわけにはいかんが」
曹操は案外落ち着いているようだ。しかし、荀彧がほっと息をついたのも束の間、府の広間で残っている幕僚を見回して、曹操は眉をひそめた。
「魏种はどうした」
魏种というのは、曹操が特に目をかけていた若者だ。かつて曹操が彼を孝廉に推挙した関係で、そういった場合、孝廉に推挙された者は生涯推挙してくれた相手に対して礼を尽くすのが普通だ。
「混乱のさなか、濮陽に逃げたようでございます」
すなわち、陳宮側についたらしい、ということだ。
荀彧が言うと、曹操の表情が一変した。
「なんだと!? あ奴め、恩を忘れて俺に叛くか!! 絶対に地の果てまでも追いかけて八つ裂きにしてやるわ!!」
「孟徳」
がなった曹操に、夏侯惇がため息交じりに言う。
「お前のそういうところが今回のことを招いたのだと、まだわからんのか。少しは抑えろ」
ぐ、と曹操が言葉に詰まり、ふん、と嘆息して胡床に背を預ける。
「見る目のない連中どもだ! そもそもこの俺にどうやって勝つつもりだ。俺を陥れたいと言うのなら、亢父か泰山の街道を断ち切って、俺を待ち伏せでもすればよかったものを、呑気に濮陽なぞに布陣しておる。連中の無能が目に見えるようではないか」
「おそらく、呂布と陳宮の連携がうまくいっていないのではないかと見ます。呂布が一時この鄄城を囲みましたが、とても攻城が可能な数ではございませんでしたし」
ちらと荀彧が夏侯惇に目を向けると、彼は大きくうなずいた。
「今頃陳宮は呂布がうまく動かないのでイライラしておるだろうな。だが、孟徳、気をつけろ。呂布の率いる騎兵はわずか数百だがとんでもない強さだぞ。あれがもっと数が多かったら負けたかもしれん」
「ふん、わずか数百の騎兵なぞにそのようなことを言っておるからこんなことになるのだ! 早急に濮陽を取り返し、兗州を取り戻すぞ。よいな!」
「ふん、案外骨のない男よ。わずか半月獄に落とされて、このざまか。それほど獄が堪えたか?」
広間に移された翌日、寝込む郭嘉のところへ、陳宮がやってきた。至極楽しげなその顔に、郭嘉は精一杯の虚勢を張って言い返した。
「俺、かよわくて繊細なんだよね。そっちこそ、いくら積んだのか知らないけど、金積まれたくらいで俺を外に出すとか、案外ちょろいよな。あんたそんなに金に汲々としてるんだ。意外だよ」
「奉孝殿、おやめなさい」
そこに母が口を挟み、陳宮の前で平伏した。
「陳宮様、口の減らぬ息子で申し訳ございません。ですが、息子はこの通り、薬を飲まねばままならぬ体です。どうか、どうか邸に薬湯を取りに行かせていただけないでしょうか? 息子には、陳宮様達に従うよう、強く言って聞かせますので」
「ほう? だが、ご子息にそのような気配はなさそうだがな」
陳宮が目を細め、横になる郭嘉を見下ろしてくる。郭嘉は小さく嘆息した。
「そりゃそうだろ。あと数日で負ける奴に仕えるバカなんか、いないよ」
「奉孝殿!」
「それは我らのことを言っているのか、小僧?」
叫ぶ母をよそに、陳宮は楽しげに目を細めていた。怒らせようと思って言ったのだが、意図は外れたらしい。
「他に誰がいるって? 曹操殿は十万くらい率いて帰ってくるんだろ? いくら徐州から長躯してきた兵だって言ったって、多分今中原で一番強い兵だろう。対してあんたらは? 二万? 三万? 当代一の戦上手相手に、呂布が三分の一で勝てるなら大したもんだ。俺も考えを改めて、あんたたちに膝を屈してもいいかもな」
「ほう、そうか。我らが勝てるなら膝を屈すると」
やはり、陳宮は怒らない。苛立ちのかけらも見せず、むしろ楽しげに目を細め、郭嘉のすぐそばに膝をついた。
「いいだろう。ならば薬湯を用意してやる。おそらく、明日か明後日には城壁の外でぶつかり合いが始まるだろう。高楼にでも連れて行ってやるから、お前はそこで、曹操が屠られるのを見ているがいい」
陳宮の目は、冗談を言っているようには聞こえなかった。
「……本気で、勝つつもりなのか?」
思わず素で聞き返すと、陳宮は得意げに目を細めた。
「無論だ。我らには、必勝の策があるのだからな。小僧、先程の言葉、ゆめ忘れるなよ」
陳宮が背を向け、広間から出ていく。兵士に薬湯を取りに行かせるよう指示を出すその姿を見ても、動揺は全く見えない。
――一体、どうやって勝つつもりなんだ。
じっと見つめていると、去り際、一度陳宮が振り返った。
にやりと笑って見つめてくるその瞳は、やはりかけらほども負けるとは言っていなかった。
濮陽の豪族だという男が曹操に投降してきたのは、濮陽に着く前日だった。
城内に内通の用意があり、戦が始まったら城門を開くという。
戯志才は、それを明らかな罠と見た。
だが、曹操は男が持ってきた書簡を見るなり、それを信じたようだ。
「間違いなく、孟卓の文字だ」
渡された書簡に目を通す。
紙に書きなぐられた文字は妙に乱れていた。手紙の差し出し主は張邈。この反乱を主導していると言われている者の一人で、曹操の友であるという。
手紙の内容はこうだ。弟が陳宮たちと結託して勝手に反乱を始めてしまった。妻子を人質に取られているので従うふりをしてきたが、本意ではない。戦が始まったら濮陽の城門を内から開くから助けてほしい、とある。
「あまりにも出来すぎています。罠では」
使者をじっと睨みつけても、彼はぶんぶんと首を振るだけだった。後ろめたくてというよりは、信じてほしいと訴えているようにも見える。
「とんでもございません! 張陳留(張邈)様はなんとかしてこの事態を打開したいとお考えで、呂布と陳宮の目を盗んで、ようやく私にこれを託されたのでございます」
「ほう、で? どうやって城門を抜けた? これから攻囲が始まろうという城市で、そう簡単に城門を抜けられるとは思えんがな」
「そのようなこと、門番に金でも掴ませれば容易きこと。濮陽城内にはまだ、曹使君(曹操)に心を寄せる者も少なくないのです」
男の言葉に嘘はないように聞こえる。
だが、出来すぎている。そこが、ひっかかった。
「しかし」
「よい、志才。そこまでにしておけ」
曹操が手を挙げ、言い募る戯志才を止めた。
「俺は、孟卓を信じる。あいつが俺を裏切るわけがない」
――それが、危険だと言うのだ。
胸の内で言った言葉は、到底口に出せるものではなかった。戯志才も、最近は曹操の機微がわかってきた。この男は他人の進言はとてもよく聞く男だが、しかし、聞きたくないと思っていることは、絶対に聞かない。たとえそれが、見え透いた罠であったとしても。
「あ、ありがとうございます! 孟卓様は、呂布は攻城が始まれば打って出るはずとおっしゃっておられました。隙を見て城門を開ける手はずになっていると」
男の語っている話は、実にずさんだ。
もちろん、ずさんだから罠だとも、本当だとも判断はしづらい。
重要なことは、曹操が騙されても、自分がそれを止めることだ。それこそ、自分に与えられた仕事だろう。
戯志才は話し込む曹操と使者の男を尻目に、どんな状況がありうるかを考え続けていた。




