23:<郭嘉編>濮陽争奪5
濮陽城外で、呂布VS曹操の戦いが始まる。
その日、郭嘉は呼びに来た張邈に連れられ、高楼へとやってきていた。
昨日久々に薬湯を飲んでから、体調は回復しつつある。まだだるさはあるが、歩けないというほどではなかった。
陳宮は本気で戦を御覧じろ、とでも思っているらしい。高楼の窓から下を眺めると、比較的城壁に近いこともあって、実によく下の光景が見えた。
地平を埋め尽くすような黒い塊が見える。あれがおそらく曹操軍だろう。整然と並ぶ兵と共に、たなびく旗と攻城兵器も見える。
城壁に近いところに視線を落とすと、おそらく呂布の軍だろう。こちらも、門の前に整然と並ぶ姿が見て取れた。ただ、数は圧倒的に少ない。
あきらかに、彼我の兵力差は歴然だ。地平を埋め尽くし、濮陽など簡単に囲んでしまえそうな曹操軍に対して、呂布の軍は半分もいない。呂布らしき男が中心にいて、おそらくその周囲にいるのが騎兵だろう。その左右に歩兵が並んでいた。
しかし、ここまで差があると、戦う前から結果は見えているようなものだ。
「本気で勝つつもりなら、呂布は大したもんだな。まあ、陳宮の言ってた策とやらがあるのかもしれないけど」
郭嘉は窓の桟に体を預ける張邈を見て言った。彼自身は戦うつもりはないのか、郭嘉と一緒になって高楼の窓から下を眺めている。
「あんたは、策がどんなか知ってんの?」
張邈の表情は相変わらず読めない。彼はちら、と郭嘉に目を向け、またすぐに外の景色に視線を戻した。
「私は反乱に加担したことになっているが、本意ではなく、中心となっているのは弟。弟に妻子を抑えられているので巻き込まれてしまったが、本当は孟徳に逆らう意思はない。戦が始まったら城門を内から開くので、助けてほしい」
すらすら言うので、本気でそう思っているのかと思ったが、どうやら違うようだ。張邈はそこまで言うと、皮肉そうに口許をゆがめた。
「――と、そんな手紙を、孟徳に送った。しかも、使者は策とは知らない。私が本気でここから逃げ出したいのだと思い込んでいる。我ながら、実にうまい演技だったな。震える声で言うと、実にあっさり信じたようだ」
皮肉めいた笑みを浮かべ、彼はまた窓の外を見つめた。
「それ……」
「公台殿の策だ。孟徳は感情に流されやすく、まだ私が本気で背いたとは思っていないのではないか。それなら絶対に乗ってくる、と」
言いながら外を眺める張邈の表情は、また昏いだけの無表情に戻っていた。
「そんな見え透いた罠に曹操殿がはまったとしたら、それはまだ、曹操殿はあんたを大切に思ってるってことじゃないのか? それなら、あんたのするべきことは」
「言ったろう。もう、始まってしまったことなのだ」
郭嘉とは目を合わせず、外を眺めたまま、張邈が言う。闇色の瞳にわずかに悲しみの色を見た気がして、郭嘉は次の言葉を見つけられなかった。
「始まるぞ」
張邈が言う。つられて外を見ると、進撃を指示する太鼓の音が響いてきた。
濮陽側の呂布の兵に比べて、曹操の兵はあまりに多い。曹操は中央に歩兵の塊があり、両翼に騎兵の構えのようだ。曹操がいるらしいところに「曹」の旗も見える。彼は中央の一番奥だった。
呂布の騎兵が走り出す。遠くから見ていても、その勢いのすごいことはよくわかった。一丸となった騎兵が、曹操の歩兵の真ん中を突っ切っていく。それはまるで布を断ち切る刃のように、驚くほど速やかに前へ前へと進んでいく。
「えっ、ちょっ!?」
戦略も戦術もあったものではない。普通に考えれば、わずか数百の騎兵が突出して数万の歩兵に突っ込んでいくなんて、自殺行為だ。それなのに、まるで歩兵など存在しないかのように陣を突っ切っていく。
もしかして、このまま曹操のところまで行ってしまうんじゃないか。
張邈と共に窓から身を乗り出す。しかしさすがに曹操は陣を動かしたようだ。呂布の勢いが止まる。今度こそ呂布が囲まれるんじゃないかと思ったが、今度は彼は元来た道を引き返すように、また歩兵を突っ切って引き返し始めた。
「無茶苦茶だな。呂布の騎兵、めちゃくちゃ強いけど、味方の歩兵はほったらかしだ。自分だけで勝つつもりかよ」
「だが、あの騎兵はすさまじい。それに、公台殿の策では、曹操軍を攪乱し、勝てないと見せかけた呂布殿は回り込むことになっていた」
「回り込む?」
「おそらく、じき、東門が開く」
呂布の騎兵が曹操の歩兵の中を抜け、まるで逃げるように城壁から遠ざかって走っていった。彼の率いていた歩兵はついていけるはずもなく、もう完全に算を乱していて、まともに戦ってもいない。
曹操軍が城壁に張り付き始める。後ろに控えていた攻城兵器を動かすため、曹操軍がその進路を開け始めた。
そこに、城門の上で混乱が始まる。同士討ちを始めたように曹操側からは見えただろう。ひとしきり混乱が続いた後、城門が開いた。
わっと歓声があがる。場内へ逃げようとする呂布の歩兵と、中へ殺到しようとする曹操軍で城門前は大混乱だ。そこに、曹操の騎兵らしき一群が近づいてくる。逃げ惑う呂布の歩兵を蹴散らすと、そのまま城門をくぐって中へ入っていった。それに、曹操の歩兵が続く。あっという間に濮陽の大通りは兵であふれた。
「これ……」
もうこれで、曹操の勝ちは決まったんじゃないのか。
思わず張邈を見つめると、彼は首を振り、窓の桟から離れ、別の方角の窓に移動した。
「公台殿の策を奉先殿が守るつもりなら、おそらく……」
張邈が窓から西の方を覗き込んでいる。それについていこうとした瞬間、またわっと、外から喚声が上がる。見れば、東門から火の手が上がっていた。
「え、なんで城門を――あ、そうか。退路を断つつもりで」
どちらがそうしたのかはわからない。ただ、意図は明確だ。退路を断つつもりなのだろう。曹操がした可能性もある。敵を逃がさないため、そして味方を背水の陣に追い込むために。
もしこれが、本当に内通で開いた城門ならば、だ。
しかしこれは、罠なのだ。
「曹操殿、疑ってもない、のか?」
よく見ると、城門近くに騎兵の一団がある。ちらほら立派な具足を身に着けた武将もいるので、曹操軍の幕僚だろう。それが曹操なのかどうかはさすがにわからないが、門の中に入ってしまっている以上、あの騎兵はもし陳宮の策が当たったら逃げ場を失うことになる。
「来た」
張邈の言葉で、郭嘉は陳宮の策がどんなものだったのかを理解した。
逃げたふりをして回り込んだ呂布が別の門から入ったのだろう。大通りを逆方向から突っ切ってくる一群が見えた。赤い馬。ひらめく白刃が日の光を返して何度も光った。通りにあふれる兵を容易く断ち切って進むその姿は、間違いなく呂布のものだ。
さっきといい、呂布の騎兵の勢いはすさまじい。彼が通ると一振りで何人もの兵が吹っ飛ばされている。呂布はあっという間に東門までやってきて、曹操の武将たちと戦い始めた。
「あれは……多分、孟徳だ。あの黒馬、あっ」
いつの間にか郭嘉の側の窓に戻っていた張邈が苦々しげに言う。
彼が言っているのは、城門あたりで落馬した男だろう。確かに立派な飾りのついた馬だ。曹操らしき武将は馬から振り落とされ、乱戦に巻き込まれていた。
思わず身を乗り出して見守る。しかし、完全に乱戦になってしまって、事態がよくわからない。ひとしきり混乱が続いた後、誰かが武将を黒馬に乗せ、その黒馬が火の手の上がる城門を駆け抜けようとした。そこに、焼けた門の一部が崩壊した。
どん、と大きな音が響く。
大丈夫なのか。さっと血の気が引く。
しばらくすると燃え盛る東門から馬が飛び出して行った。最初に黒馬。それに誰かがしがみついている。それを追うように、何頭か馬が駆けだして行った。具足から見て、おそらく曹操の武将だろう。
しばらくすると、周囲には退却の鉦が鳴り響き始めた。
「殿!」
東門が開いた途端曹操が駆けだしたのを、戯志才は前線から離れた位置で見ていた。
東門が開くと同時に、曹操は止める暇もなく駆けだしてしまった。
しばらくして東門から火の手があがる。それを見て、思わず戯志才は叫んだ。
「いかん! もし罠だったらどうするのだ! 夏侯惇将軍、殿を呼び戻しに行ってくれ!」
「し、しかし孟徳は自信満々だったぞ。罠なわけがない」
「そこが殿の甘さだ! 人の内心なぞ簡単に変わる! もしこれが罠だったら殿は逃げ場を失うことになるぞ!」
「しかし、孟卓(張邈)殿が我らを裏切るとは――」
「だからそれが甘いと言っておるのだ! 早くしないと――」
わっと、燃える東門からひときわ大きな喚声が聞こえた。梁が落ち、門が崩れ落ちたようだ。そこから馬が飛び出してくる。
「あれは……」
夏侯惇が馬上で体を伸ばし、東門を見る。
「孟徳!」
曹操だとわかった瞬間、夏侯惇が駆けだした。それを、そばにいた騎兵が追っていく。
「だから早く行けと言ったのに……!」
曹操は大丈夫なのか。
城門から飛び出した曹操は城壁を囲む兵に紛れていて、二里(約八百メートル)先にいる戯志才からは、どこにいるのかわからなくなってしまった。
無事に帰ってきてくれればいいが。
心の臓が高鳴っている。
と、その時崩れ落ちた東門でまた大きな音がした。誰かが焼け落ちた梁を動かしたようだ。
そしてそこから、火の玉のような赤い馬が飛び出してくる。
呂布だ。
ついさっきの、あのすさまじいまでの勢いは忘れられない。死ぬかもしれないと初めて恐怖を感じた瞬間だった。
その恐怖がまた沸き起こってくる。
赤い馬はまるで曹操を探すように歩兵の集団を荒らしながら走ってくる。
しばらくして、呂布が自分の方に向かっていることに気づき、戯志才は愕然とした。
そういえば、本陣を表す大将旗は戯志才の側に残ったままだ。
「旗を、旗を降ろせ! 早く――っ!」
言い終えないうちに、とんでもない衝撃が体を襲った。投げ出され、天地がひっくり返る。
「曹操はどこだ!」
怒鳴る呂布の声が遠くに聞こえる。
激痛と共に、体から何かが抜け落ちていくのがわかる。呂布、と言おうとして口を開くと、そこからは声ではなく、生暖かい液体があふれ出した。
曹操のものらしき黒馬が城門を抜けた後、呂布が焼け落ちた梁を動かし、その後を追ったようだ。
ただ、曹操自身は兵に紛れてしまって、追い切れなかったようだ。呂布は、代わりにずっと本陣に残ったままだった「曹」の大将旗を目印にしたのだろう。赤い馬に率いられた騎兵隊はあっという間に元曹操がいた場所を荒らしまわった。
呂布の一振りで、容易く何人もが吹き飛ばされている。
その隙をついて、黒馬はうまく集団から逃げ出したようだ。鳴り響く退却の鉦で、城壁に張り付いていた歩兵たちも一目散に逃げ始める。
最後まで残っていた曹操軍の武将らしき男たちが呂布を牽制しながら徐々に下がっていく。わずかな騎兵と、大盾を構えた歩兵、そして武将数人がかりでなんとか呂布に立ち向っているという格好だ。
さすがに呂布も分が悪いと思ったのか、深追いはあきらめたらしい。
徐々に曹操軍は遠ざかっていった。
始まってから、終わるまで、あっという間の時間だった。
「……嘘だろ……」
郭嘉にはもう、呆然とつぶやくしかできない。
呂布が勝つなんて、夢に思いもしなかった。
高いところから見ていた分、戦の趨勢ははっきりとわかった。
まずは、呂布の騎兵のとんでもない強さだ。さすがの曹操も用兵云々と言っている暇もなかったのだろう。
そして多分、張邈を信じているがゆえに、罠にはまってしまったのが大きな敗因だ。
その張邈を見ると、彼は青い顔をしてまだ眼下を見下ろしていた。
そんな顔をするくらいなら、曹操を罠にはめるなんてしなければいいのに、と思うのだが。
じっと見つめられていることに気づいたのか、張邈が決まり悪げに顔をそむけた。そのまま身を乗り出していた窓の桟から体を起こし、ぽつりとつぶやく。
「ここまで、鮮やかに勝つとは……」
信じられない、とばかり口許に手を当てている。その横顔に、郭嘉は言った。
「あんたを信じたから、罠にはまったんだ。そうだろ?」
郭嘉の言葉に、張邈はぎくりと表情を硬くした。さっと郭嘉に背を向け、入り口に向かう。その背に、郭嘉はもう一度声をかけた。
「あんた、本当にこれでいいのか?」
張邈はちらとだけ郭嘉を振り返ったが、何も言わないまま高楼を出て行った。
損害は尋常ではなかった。
敵になっていたのは、ほとんど呂布の率いていた数百の騎兵だけだ。それなのに、こちらは一万近く兵を減らしていた。いくら罠にはまったとはいえ、ありえない数だ。
しかも、戯志才が死んでいた。曹操が濮陽を脱出した直後、追ってきた呂布は本陣に残っていた大将旗を見て、曹操がそこにいるとでも思ったのだろう。馬に乗っていた戯志才は、本陣を率いる将にでも見えたのかもしれない。呂布の一撃を受けたらしく、胸を潰された遺体を兵が運んできていた。
夏侯惇自身も城壁に近づいた時に流れ矢に当たって左目を負傷していた。幸い眼球に突き刺さった矢はさほど深くはなかったが、左目は矢を抜く際に一緒に引きちぎれてしまい、もう元には戻らない。
夏侯惇が痛みと出血で身動きが取れない間に、従弟たちが陣を五里退かせ、兵たちを抑えたようだ。幸い追撃はなく、撤退は避けられた。
しかし、一日経った今も兵の動揺は大きい。
ここしばらく負け知らずだったこともあるし、大軍で寡兵に敗れたこともそうだ。そして、何より兵たちを動揺させているのは曹操が姿を見せないことだった。特に、青州兵は曹操の威光で動いているようなところがある。曹操が死んだなら逃げるか、と言っている青州兵たちもちらほらいるという話だ。
曹操は城門から逃げる際燃え落ちた梁が当たったらしく、左手に火傷を負っていた。傷自体はそこまでひどいものではないらしいが、曹操の気分の落ち込み方は尋常ではない。さすがの夏侯惇も、曹操に声をかけられずにいた。
張邈の書簡を信じ切って、負けたのだ。
彼に裏切られたことがいかに曹操に深い傷を負わせたのか、簡単に想像できてしまった。本来なら、落ち着くまでそっとしておいてやるのが一番だろうが、なかなかそうもいかない。
このまま曹操が引きこもり続ければ、攻囲を続けることなどできなくなるだろう。そうなれば、もはや呂布に完全なる負けを認めたも同然。兗州は文字通りすべてが呂布になびき、兗州を取り戻すのは相当な至難になる。
ここは、絶対に負けられないのだ。
曹操が幕舎に籠った翌日、夏侯惇はまだ鈍く痛む左目を布で覆い、意を決して曹操の幕舎の中へ入っていった。
「孟徳」
呼びかけても、返事はない。曹操は薄暗い幕舎の中で牀に腰かけたまま、うなだれていた。具足は身に着けず、着物の袖口から包帯に覆われた左手が見える。痛みがひどい、と初日に言っていたが、その後彼は医師さえも遠ざけていた。
「孟徳。外に出て、兵に顔を見せてやれ。皆、お前がいないので不安がっている」
呼びかけるが、返事はやはりない。
夏侯惇は軽くため息をついて、曹操の前に膝をついた。
「孟徳。お前の気持ちはわかる。わかるが――」
「何がわかる!」
低く、地に響くような声だった。驚いて口をつぐむのと同時に襟首をつかまれ、引き寄せられた。
「お前に何がわかる! あの文字は間違いなく孟卓のものだった! それがっ」
曹操が襟首をつかんだまま、うなだれる。その肩が震えているのを、夏侯惇は黙って見ていた。
「……なぜ、こんな……っ」
張邈が裏切ったという現実を、ようやく受け入れる気になったのだろう。ただ、なぜ彼が曹操を裏切ったのかは、夏侯惇にもわからなかった。張邈はそれなりに名の通った文人だったから、曹操が徐州でしでかしたことに愛想をつかしたのかとも思ったが、それなら曹操が帰還したあの日、わざわざ曹操を訪れてくるとも思えない。強いて不審だったと言えば、張邈がその晩のうちにさっさと陳留に帰ってしまったことだろうか。いつもなら、ああいうときは数日曹操の側にいるのが常だった。
もしかしたら、あの晩何かあったのかもしれない。夏侯惇に思い当たる節はその程度だった。
「孟徳、俺だって、なぜという気持ちは強い。張邈殿がお前を裏切る理由なんぞ、まったく思い浮かばん。だがな、孟徳。お前はもう、曹孟徳である以前に一人の国主であり、軍を率いる将帥なのだ」
夏侯惇は曹操の肩を掴み、うなだれたままの彼に向かって言った。
「そして曹操という男は、皆にとってはもはやただの男ではない。百万の賊をわずか数万で降伏させた、軍神とも言うべき、天命を享けた将帥なのだ。皆がお前を主と仰ぎ、柱と恃んでいる。そのお前がいつまでもここで引きこもっているのでは、戦を続けられないばかりか、天下を獲るという未来さえあきらめねばならん。わかるか。このままではお前がここまですべてを懸けてやってきたこと、すべてがふいになる」
ぴくり、と曹操の肩が動く。
「いいか、ここが踏ん張りどころだ。ここで呂布なんぞに負けるわけにはいかんのだ、絶対に! あんな男に、お前がここまで懸けてきたものすべて壊されていいわけがない! お前は、曹操である以上、個人の感情にいつまでも振り回されるな。せめて、兵の前では自信にあふれた大将の顔をしていろ。もし倒れそうになったら、俺がそれを後ろから支えてやる。心配せず胸を張って、外を歩け」
最後にぐっと肩を掴み、手を放す。曹操はしばらく反応しなかったが、夏侯惇の襟首をつかんでいた手をそろそろと離すと、その手を今度は己の膝の上で握った。
うつむいたままの曹操を、夏侯惇はそのままじっと見つめ続けた。
ずいぶん経って、曹操が瞑目したまま、顔をそむける。ふ、と曹操がわずかに笑ったのがわかった。
「……もはや俺は、俺ではない、か」
曹操は嘆息すると、何かを振り払うように頭を振り、牀に座りなおした。腕を組み、背筋を伸ばして座ったその姿は、いつもの彼に戻ったようにも見える。
「文若も、そんなことを言っていた。俺のいつもの姿が完璧すぎて、俺が人であったことを忘れていたとかなんとか」
「なんだそれは」
「知らん。だが、天命を享けた将帥、か。この、俺が」
自嘲気味に笑って、曹操は立ち上がった。
「お前は大丈夫なのか? 左目は」
「血は止まった。医師には血が止まるまでは安静にしろと言われていたから、もう大丈夫だろう」
じっと曹操が見つめてくる。眼帯代わりの布に血がにじんでいるのが気になったのかもしれない。
「無理はするな。で、状況はどうだ?」
曹操が具足に手を伸ばしたので、夏侯惇はそれを身に着けるのを手伝ってやりながら言った。
「陣中は動揺している。お前がいないことが大きいが、久々に負けたことも大きいな。あの呂布の騎兵は本当にとんでもない。濮陽側からは今のところ追撃はない。だが、お前が負けたという噂が広まれば、兗州の豪族があっという間に呂布になびくぞ。おそらく、各地から援軍が来る」
「だろうな。まずは、意地でも濮陽を落とさねばならん。援軍が来ないか斥候に常に探らせろ。俺はこれから、陣中を周る」
具足を身に着け、幕舎の入り口をそのまま出ていくのかと思ったのだが、曹操はその一歩手前で足を止めた。
「どうした?」
後ろから声をかけると、曹操が顔半分だけ振り返る。その頬には、また自嘲めいた笑みが浮かんでいた。
「いや、ただ……孤独なものだと思っただけだ。覇道を行くというのは。俺は、今まで口では天下を獲ると言いながら、どこかそれを、他人事のように思っていたのかもしれん」
小首をかしげ、曹操が幕舎を出ようとする。その背に、夏侯惇は声をかけた。
「忘れるな、孟徳。誰がお前を裏切っても、誰がお前を見捨てても、俺だけは、必ずお前の側に在る」
慌てて早口で言った言葉は、彼に届いたのかどうかわからない。曹操はかすかにうなずくしぐさを見せ、幕舎を出て行った。




