Ep.08 順子
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※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています
朝の工房に差し込む光は、少し冷たく湿った空気の中でぼんやりと揺れる。
指先に巻き取った糸の束はまだ湿っていて、手のひらにじんわりとした重みが伝わる。
まだ乾燥が必要だな、と確認できた。
今日の予報は晴天。
午後には織りの工程に入れるだろう。
「今日も、同じことの繰り返しかあ…」
小さな声が零れる。
若い頃の情熱と、今の自分を比べるたびに、胸の奥に小さな苛立ちが生まれた。
それでも糸に触れると、どこか温かさが戻る。
湿った糸の冷たさと、微かに残る藍の匂い。
手のひらと鼻で感じるそれが、ワタシを少しだけ落ち着かせた。
工房に入ってシャトルを手に取り、織機の前に立つ。
ガシャン、ガシャン
振動が床から体に伝わり、熱と音が混ざり合う。
左右に往復する木製のシャトルが布を編み上げるたび、端にわずかに残る布の揺れや歪みに目を凝らす。
「ワタシの手は、まだ意味を持ててるのかな…」
問いかける声は織機の音にかき消された。
経年変化を楽しめるデニムが好きで、だから職人になりたくて児島に来た。
革も経年変化が楽しめるものではあるけれど、手入れの必要性がある分、デニムのほうが好きだった。
革はデニムと違って、手入れを怠るとすぐに傷んでしまう。
デニムは、時間と共に色が変わり、使い込むことで自分だけの味が出る。
その変化を見守るのが、何よりも楽しかった。
ガシャン、ガシャン
指は無意識に動くが、心は揺れている。
シャトルが折り返しを叩くたび、胸の奥で小さな嵐が立ち上がるようだ。
ガシャン、ガシャン
手は止まらない。
止める理由もないし、止めるほどの迷いでもない。
ただ、どこかが噛み合っていない感覚だけが残る。
織り上がった布を外し、指で端をなぞる。
昔なら気づかなかったような僅かな歪みが、今ははっきりと分かる。
──……分かるようになったのに
小さく息を吐く。
良くなっているはずなのに、満足には遠い。
その距離だけが、年々はっきりしてきた。
織り上がった反物を畳み、腕に抱える。
「あれ?順子ちゃん、どうした?」
「織り終わったんで染めに入ろうかと思いまして」
「ああ、なるほど。じゃあ濃紺頼むわ」
「はい」
藍の香りが、流れてくる。
その匂いに背中を押されるように、布を抱えて歩き出した。
続けることに、意味はあるのか。
問いかけながらも、手は自然に糸を浸け、空気に晒す。
繰り返すたび、色は少しずつ深くなる。
迷いと確信が交錯し、胸の中で小さな波紋が広がる。
迷いも、葛藤も。
糸に青く残っていくような気がした。
でも糸に触れる手は正直だ。
すくも藍を含んだ糸が、空気に触れて色を変えていく。
その変化は静かで、でも確かにワタシの手から生まれている。
ふと工房の扉が開き、湿った空気が一瞬だけ揺れて、隣接された店舗の光が細く差し込む。
「見学の方が入りまーす」
店舗担当の子の明るい声が響く。
入ってきたのは一眼レフをかけた男の人が一人。
特に案内などはしないため、気にせず作業に戻る。
「撮ってもいいですか?」
突然かけられた声に、振り返る。
彼の視線はワタシに向いていた。
いや、正確には糸に向いている。
シャトルでも、機械でもなく。
なぜそこを見るのかは分からない。
藍染めに興味があるのかもしれない。
ただ、その視線には妙な重さがあるような。
そんな印象を受けた。
特に断る理由もないので頷けば、彼は何故かカメラではなくスマホを構え、しばらく逡巡したあと、結局何も撮らずに手を下ろした。
すみません、と零れた言葉に内心首を傾げる。
何に謝っているのか分からない。
「変化は、目に見える前に始まってるの」
溢れた言葉に、自分でも驚いた。
口から溢れた言葉に、少し遅れて気づく。
それが誰に向けた言葉だったのか、自分でも曖昧だ。
糸の変化を注視しながら、自分自身も鮮やかに塗り替えることができればいい、と自嘲してしまう。
「青くないんですね?」
やっぱり藍染めに興味があるようだ。
口元に微笑みを浮かべ、糸をソッと持ち上げる。
「すくも藍は、空気に触れることで青く発色する」
糸を軽く揺らすことで、空気に触れさせる。
さっきまで鈍かった色が、ゆっくりと青へと変わっていく。
糸を軽く絞って、水分を落とす。
再びその糸を液へ沈める。
解説しながらも、手は止まらない。
「連続して染めると、“層”が重なる感じになる」
青の上に、青が重なり。
どんどんと深みを増していく糸。
まるで想いや願いも重なるように。
「でも芯は染まらない。だから擦れた時に色が変わるの」
使い込むうちに、擦れた部分の色が変わり、何度も繰り返すうちに、独特の風合いが生まれる。
それが、藍染めの面白いところだ。
「色が決まったら、次は形ね」
しっとりと湿り気を帯びた深い藍色の糸束を置いて、隣の部屋へと続く重い扉へ向かう。
入念に染められた糸は、織機で織られる前に乾燥工程を経て、巻き取りを行う必要がある。
織機には、巻き取りを終えた束が設置されている。
ガシャン、ガシャン
稼働している数台が、大きく鳴いている。
織りの説明を口にしながら、織り目を確認し、端を固定してシャトルを手に取り、布を編み上げる。
音と振動が、呼吸のように工房を満たす。
目線は手元のまま、シャトルを通しながら。
歪まぬようにテンションを調節する。
「キミの、それ。続けてるって言えるの?」
ビクリ、と身動ぎした影をよそに。
言葉は勝手に零れていく。
「続けるってのはね、選び続けることじゃないの?」
カメラを下げながらも構えない男の姿勢。
藍色に染まったワタシの手。
どちらかが正しい、ということではないと分かっている。
この色がワタシの選んできた時間の証だ。
織機の操作を習得するのに半年から5年、メンテナンスや修理ができるようになるまでには10年かかる。
手は染まるためネイルなどを楽しむこともままならない。
そのうえ、機動で暑いし、音もうるさいし、油や藍の匂いも混ざる。
憧れだけで続けるには、なかなか過酷な環境だろう。
この人も、いろいろあったのかもしれない。
ワタシがそれを知ることはないし、知ろうとも思わない。
けれど、続けているフリは癪に触る。
「何も捨ててないなら、それは続けてるうちに入らないんじゃない?って思っちゃうんだよね」
届いたかどうかは分からない。
織機の音にかき消されたのかもしれない。
それでもいい。
こんなのは、ただの八つ当たりになってしまう。
大きく息を吐いて視線を上げれば、彼はカメラを抱え、何かを呟いた。
かと思えば、大事そうに包んだカメラを覗き始める。
乾いた音が、織機の重たい音の隙間を縫って響いた。
軽くて、頼りない音。
重さも、確かさも違うはずなのに。
なぜか、その音のほうが強く響いた。
ワタシは手を止めないまま、ほんの少しだけ視線を上げた。
彼は、さっきまでの迷いが嘘みたいに、まっすぐこちらを見ていた。
──ああ、この人のほうが、ちゃんと見ている
それに比べて、ワタシはどうだ。
迷うこともなく、ただリズムに合わせて手を動かしていただけではないのか。
それは熟練ではなく、ただの慣れに過ぎなかったのではないか。
彼の指が、震えながらもシャッターへと沈み込んでいく。
その一瞬の葛藤。
ワタシがいつの間にか、織機の音の中に置いてきてしまった熱。
──この人は、止まってるんじゃない。迷いながらも進んでるのか
重い一歩を踏み出すために、その場所で必死に足掻いているのかもしれない。
黙々と作業を続けて、気づけば彼はいなくなっていた。
──目に見える前に、始まってる
それは、糸の話だけじゃない。
気づけるようになったこと。
歪みが分かるようになったこと。
それもきっと、同じだ。
「……だから続けてるのか」
小さく漏れた声。
でもそれは音にかき消されて、形にならない。
ワタシの手も、時間の中で少しずつ変わっていく。
手のひらの感覚、指先の感覚。
そうやって、積み重ねてきた経験が、今日もこの糸に宿っている。
黄緑がかった糸が、ゆっくりと青へと変わる。
滴る水音に耳を傾けながら、手元の青に目を奪われる。
「同じことを繰り返す…それでも、これが私の仕事」
迷いながらも、手を止めない。
糸に触れた時間は、確実に形となって布に残る。
少しずつ、少しずつ、端に藍の濃淡が生まれる。
藍に染まった手をそっと握る。
今日も手を動かし、色を重ねていこう。
他の道を選ぶこともできる。
でも、そうすれば今までやってきたことが無駄になる。
選び続ける覚悟がないなら、この仕事は続けられないと思っていた。
毎回、違う部分が見えてくる。
それを見逃すか、しっかり受け止めるかは、ワタシ次第だ。
繰り返しの中で、ようやくわかることがある。
そういうことなのかもしれない。
ご一読いただき、感謝いたします
引き続きお楽しみいただけましたら幸いです




