第三章
その日の午後、エルストン子爵邸を訪れたデイヴィッドは、常にないほど穏やかな笑顔を浮かべて邸の主に挨拶をした。
「こんにちは、エルストン子爵」
「やあ、ローランド。3日ぶりだね」
エルストン子爵マーカス・ジャン・リースエルはからかうように笑うと、客人ににこやかに礼を返した。淡い金の髪に緑色の瞳、華はないが品のいい整った顔立ちをしていて、柳のような細い目がいかにも人を良く見せている。年は50代前半なのだが、がっちりとした身体つきのせいか見た目よりずっと若々しい。
デイヴィッドとエルストンは高祖父を同じとする遠い親戚にあたる。年こそ離れているものの、この一見温厚な、けれど実は一筋縄ではいかない年上の子爵とは気が合って小さい頃からよく相手をしてもらったものだ。そしてそれはデイヴィッドが大人になってから更にその新密度を増したように思える。
「昨日の舞踏会は有意義に過ごしたかい?」
エルストンの問いにデイヴィッドは軽く肩をすくめる。
「ダンスはともかくカードは楽しめましたね。伯母上から大量の花嫁候補を紹介されなければ、もっと快適だったのですが」
由緒正しい公爵家の主が独身では決まりが悪い。デイヴィッドには男兄弟がいないので、後継となる男子もできるだけ早くと望まれている。一度婚約破棄してから真剣に妻を探す気を全く起こしていない家長に、古傷を抉るように親戚たちは嫌味を重ね花嫁候補たちを紹介してくる。
今や社交界一の「結婚したい男」として知られているデイヴィッドなので、花嫁候補は底をつかない。
「それはそれは。ダンスホールの一番奥にいても入口にまで花嫁候補が並んでしまうな」
「勘弁してくださいよ。結婚なんて冗談じゃない。本当は今年だって社交界に顔を出す気はなかったのに、伯母や祖母に泣かれて仕方なくロンドンに来たんですよ、僕は」
玲瓏とした美貌と洗練された身のこなしからロンドン一魅力的な紳士と名高いデイヴィッドだが、本来の性格は生真面目で飾り気がなく、カードやビリヤードより領地でのんびり過ごしている方が性に合っている。
女性たちに素気ないのも、紳士たちの刹那的な享楽を共にしながらどこか冷やかなのも、すべては興味がない故の事。それが彼の完璧な外見から変な方向に転じ、一部では『氷の貴公子』と謳われ崇拝されているのだからいい迷惑な事この上ない。
「それでは、私にとっては幸運なのかな。うちのエレーナが君にキャロラインを嫁がせようと躍起なんだ」
「…勘弁してください」
心底嫌そうに頭を振るデイヴィッドに、エルストンは屈託なく笑う。その様子から察するに、彼の妻が2番目の娘を公爵に嫁がせようとしているのは事実だが、彼自身はそこまでこだわりがないようだ。
そうでなければ、こう何度も訪問しているのに婚約の話を出してこない訳がない。
しかもエルストンはデイヴィッドがここに来ている真の理由を薄々察していて、こっそり奥方やキャロラインの目を盗んで彼をご自慢の庭園へと案内してくれるのだ。
今日も女性陣への挨拶を飛ばして庭園へ続く回廊を歩きだすエルストンに、デイヴィッドは思わず笑みをこぼした。
「キャロライン嬢がどうというわけではないんですが、同じ女性ならいっそリラをくださいませんかね」
リラ。
確かに女性の名前だが、その実はグレートピレニーズという大型犬だ。よほど躾が良いらしく、人に吠える事も噛む事もしないで素直に抱かれてくれる。かなり賢い犬で、その毛並みは滑らかでいつまでも触っていたくなる手触り、瞳は純粋で穏やかでこちらを見透かしたかのようなその光は知らず心を癒してくれるのだ。
「リラに会えた事は今年一番の収穫だと思っているんですよ」
半ば本音でそう言うと、エルストンは苦笑しつつ振り返る。
「確かに、君が彼女に会うためにこんなに熱心に通うようになるとは思っていなかったよ。でも彼女は駄目だよ。リラを君に渡したりしたら、私は一生マーゴから恨まれてしまうから」
「はは、確かに。それ以前に、リラの方がマーゴから離れてくれるかどうか。彼女のマーゴへの忠誠心は絶対ですから」
苦笑交じりに告げる言葉は真実で、子爵の末娘とその飼い犬の絆は人間同士に芽生えるものより遙かに重く感じられる。賢いグレートピレニーズは幼い頃病弱だったという末娘にとって唯一の遊び相手であったようで、互いに掛け替えのない存在なのだ。
そんな事を思案していると、エルストンがさりげなくけれど明らかに意図している絶妙な間でふと独り言のように呟いた。
「まあ、マーゴを娶れば、特典としてリラも付いてくるがね」
予想もしない話の展開に、デイヴィッドは思わず噴き出した。
いつもと同じ庭園の、いつもと同じ場所で親友の毛並みを撫でていた少女は、いつもと違う様子で来訪した友人に片眉を上げた。
「どうしたの、ヴィッド?なんだか、いつにも増して様子が変だわ」
「…マーゴ、それは心配しているのか貶されているのかよくわからないよ」
「そう?でも減らず口が叩けるようなら大丈夫ね」
口に細い指をあててくすくすと笑う。そんなマーゴの姿は幼いながらも可憐で、デイヴィッドは今まで考えもしなかった将来案に頭を悩ませる。最近はマーゴも自分を『ヴィッド』と愛称で呼ぶようになり、ますます親しくなったところだったのに、妙な考えを植え付けられてしまった。
まさかエルストン子爵の思惑が彼の次女ではなく三女にあったなど、どうして考えられよう。マーゴはまだ社交界にデビューまで4年もあるのだ。幼女とまではいかないが、年端もいかぬ少女に対して一体自分に何を考えろというのだろうあの人は。
いやしかし、と。溜息を吐きながらもデイヴィッドは改めて友人である子爵家の末娘を見る。
こちらを訝しげに見つめる瞳はエメラルドのような澄んだ緑色で、モスリン地のチョコレート色のドレスがほっそりとした身体を包んでいる。防寒用かクリーム色のショールを羽織り、栗色の豊かな髪は相変わらず纏められもせずふわふわと背中に流れていた。特別美人というわけではないが、上品で可愛らしい顔立ちに、誰からも愛されるような輝きをもった表情が浮かんでいる。数年もすれば周りの者を魅了する美しさを持つのは疑いようがない。
人柄もいい。他の貴族の娘のように作法や仕来りを気にしすぎる事もなく、ドレスや化粧、家柄の自慢等のくだらない会話を振りかざす事もない。自然を愛し、親友である犬を愛し、ありのままをありのままの姿で受け止められる寛容さを幼いながらも持っており、実に魅力的な性格をしている。デイヴィッドが飾り気なく素のままで接する事のできる数少ない人物である事は確かだ。婚約者に裏切られて以来、女性に対して不信感を募らせているデイヴィッドだが、マーゴなら大丈夫だという確かな信頼をこの数カ月の間で互いの間に築き上げていた。
家柄も公爵である自分からすればやや見劣りするが、れっきとした子爵家の令嬢だ。しかもエルストン子爵家は財産なら並みの伯爵家にも劣らない。年の差も離れてはいるが貴族の結婚としては13歳差なら許容範囲内だろう。
デイヴィッドとしては認めたくないのだが、考えば考えるほど、目の前の少女が自分にとって一番理想的な花嫁像である事に気付かされる。
結婚に対しては拒否的だが、どうしてもしなければならないのならば、相手はマーゴのような女性がいいとそう思ってしまう。
問題があるとすれば…
「ヴィッド?」
「…」
「…ねえ、ヴィッドってば」
「…」
「……リラ、やってちょうだい」
主人の命を受けたリラが、呆然と思惑を巡らせているデイヴィッドに圧し掛かって尻もちをつかせる。そして止める間もない鮮やかさでその顔をベロッと大きく舐めた。
「わっ。リラ、びっくりさせるなよ」
「ヴィッドが反応してくれないからよ」
そう、憤然としてマーゴが告げると、デイヴィッドは素直に謝罪する。しかしやはり彼女の顔を見つめるのを止められず、マーゴの顔はますます不可解なものを見る目つきになった。
その表情はとても幼くて、こんな少女に大人の事情を顧みようとした自分が汚らわしく思えてデイヴィッドは反省する。
「ごめん。ちょっと色々考えさせる事があってね」
「あらあら、お疲れさま。でもせっかくここに来たんだから、今くらいは全部忘れてのほほんと過ごしたら?いつもそうしているじゃない」
にこにこと笑うマーゴが可愛らしくて、デイヴィッドはつられて笑う。
手を伸ばしてリラの頭を撫でると、リラは心地よさそうに目を細め、マーゴはそれを嬉しそうに見ていた。
気取る事のない彼女たちとの時間は、デイヴィッドにとって何より安らげるもので、陽だまりの中にまどろんでいるような心地よさがある。中毒性でもあるのか、一度味わってしまったらいつまでも浸っていたくなる空間だ。
もし彼女と結婚したのなら、数年後にはこの光景は当り前のものとなるのだろうか。
またもや脳内に浮かび上がってきたアイデアに、デイヴィッドは思案する。
2人の結婚に問題があるとすれば、まずは両者の気持ちだ。
本来なら貴族同士の結婚に本人の意思は重要ではない。あくまで家と家の繋がりであり、両家の意思が一致していればそれで良いのだ。しかし、もし彼がこの天真爛漫な少女と結婚するとするならば、その時にはきちんと彼女の意思が欲しい。
そしてもう一つの問題は、この天真爛漫で型破りな少女が、はたして貴族社会という堅苦しい世界の、それも公爵夫人という重圧に耐えられるかどうかだ。
「ねえ、マーゴ」
「なに?」
「君は、結婚についてどう思ってる?」
唐突なデイヴィッドの質問に、マーゴは大きな目をパチクリと瞬き、不思議そうに首を傾げる。
「突然なんで?ああ、また、誰かに結婚話でも勧められたのね。だから今日はちょっと様子が変なんでしょう」
実の姉も彼を夫候補として見ている事を知っている少女は、苦笑しながら彼の質問に対する答えを考えているようだった。そんな彼女の隣でリラが座りながら首を回して主人を見ている。微笑ましい光景にデイヴィッドは目を細める。
「結婚…か。正直あまり考えていないわ。だって社交界デビューまでまだ4年もあるのよ?お母様は4年しかない!て言っているけれど、やっぱりまだ4年も、だわ。遠い先の事よ」
呆れたように言ってから、マーゴは行儀悪く頬杖をついてリラの背を撫でる。
「誰かの奥さんになるなんて想像がつかないわ。もの凄く退屈そうだし」
実に彼女らしい返答にデイヴィッドは笑みを浮かべながら彼女の傍に座る。幼い頃病弱だった反動か、良家の令嬢らしくなく外で遊ぶことが大好きなこの少女にとって、女主人として慎ましく生活しろというのは苦痛を伴う退屈さなのかもしれない。
そう考えれば、マーゴに公爵夫人という大役を任せるのはやはり無謀なのだろう。思わずため息を吐いてしまった彼をマーゴが振り返る。
「なぁに?」
「いや、何でもないよ」
そうデイヴィッドは告げるが、マーゴはそれを良しとしないようだ。
「やっぱり変よ、今日のデイヴィッド。無理やり縁談でも進められているの?」
そうではないのだが、彼女に対して何といっていいのかわからず、デイヴィッドは曖昧にほほ笑む。気遣わしげな笑顔が申し訳なくて、思わずその小さな頭を撫でてしまった。
そんな彼をじっと見つめると、何を思いついたのかマーゴがいきなり手を伸ばしてデイヴィッドの首に抱きついてきた。
「…マーゴ!?」
華奢な身体が彼にぴったりくっ付いており、首元に細い腕が巻きついている。小さな背中を覆うように流れる栗色の柔らかな髪。ライラックの香りがほのかに漂う。
驚きに身体を硬直させたデイヴィッドに対して、マーゴは本当に気遣わしげに彼を抱きしめ、耳元で呟く。
「…ヴィッドは大変ね。公爵だから責任も重たいし、結婚なんてしたくないって言っても逃れさせてももらえない。いつもいつも、大変なのよね。よくわからないけど、辛いのよね?…わかってあげられなくてごめんね。でも、傍にいるから」
泣きそうな小さな声に、デイヴィッドは思わず彼女の背中を撫でる。
傍らではリラもまた気遣わしげに彼の身体にすり寄っていた。
「小さい頃、寂しい時や辛い時はいつもリラがこうして傍にいてくれたの。私はずっとリラを抱きしめていて、そうしたらいつもいつの間にか楽になってた。だから今は、私がヴィッドにこうしてあげる」
その言葉に、デイヴィッドは3年前のリラとの出会いを思い出す。そういえば、彼女もずっと彼に抱かれてくれて、気がついたら心が軽くなっていた。そして、現在のマーゴの行動に納得するのと同時に、なんだか少しだけ笑えてきてしまった。
13歳も年下の少女に、自分は『慰めるべき存在』としてあやされているのだ。なんとも奇妙で、面映ゆく、けれど不快ではないのがまた不思議だった。
腕の中にある小さな身体が思った以上に柔らかい事に驚きながらも、デイヴィッドは離れないようしっかりと腕を回した。その力強さにマーゴは少し驚いたようだが、黙って身体を預けてくる。
男女の駆け引きや艶めいた意味などない抱擁。しかしそこに含まれている優しさが、温かさが堪らなく愛おしくて、デイヴィッドはアイスブルーの瞳を堅く閉ざす。
離せない。
傍にいたい。
この腕の中の存在が、どうしようもなく愛しい。
自分の中の切なる想いを聞きながら、デイヴィッドは波打つ栗色の髪をゆっくりと手で梳いていく。
いつか、きっと。
彼女を本当の意味でこの腕に納めたい。いつも隣に、彼女とその親友を置き心地よい時間を当たり前にしたい。
腕の中の少女はきっと想像もしていない未来だろうけれど、彼としては何としてでも現実にしたい。それは夢を見るより切実な、胸が焦げつくほどの憧憬の想いだった。
そのためになら、どんな努力だって惜しむものか。数年待つ事だって厭いはしない。そうするだけの価値はあるのだから。
芽生えた想いと決意を胸に、デイヴィッドはライラックの香りを纏う乙女をもう一度しっかりと抱きしめ直した。