第二章
マーゴは半ば呆れて、興奮に騒ぐ目の前の母と姉を見ていた。
今日の午後、我がエルストン子爵邸にローランド公爵が来ると知らせを受けてから俄かに母と姉は浮足立っている。
ローランド公爵はここ数年社交界から離れていたが、今年はシーズンいっぱい参加するという。独身27歳、公爵という身分と財産、それから端正な顔立ちを兼ね備えた彼は社交界の女性全員にとって憧れの存在なのだ。
しかしながら、まだデビューしておらず、しかも恋愛事にはまったく興味のないマーゴことマーガレット・リースエルには関係ない。だからどうしたのだ、というくらいの勢いである。母親には嘆かれているが、小さい頃は身体が弱くて全然外で遊べなかった彼女は、丈夫になった今、思う存分身体を動かして遊ぶ事の方がよほど重要なのである。
そういうわけで、今シーズン初めて彼が邸を訪れた時も末娘は客人の存在に我関せずと父親自慢の庭に愛犬のリラと遊びに繰り出していた。まさか、そこで噂の公爵に出会うとは思わずに…
「ねえ、お母様?公爵さまはどんな色のドレスがお好みかしら?」
「そうねぇ…貴女の肌の色だと明るい色の方がいいけれど、公爵さまの雰囲気に合わせて寒色を選んでもいいわね。ほら、このブルーのドレスなんてどうかしら?」
彼のどこを見たら寒色のイメージが湧くのか疑問に思いながら、マーゴは部屋の片隅でドレス選びに熱心な母娘を見つめる。傍らではリラが優雅に伏して尻尾を揺らしていた。
「ちょっとマーゴ!その犬を近づけないで頂戴。ドレスが汚れてしまうわ!」
「…リラはそんな事しないわよ」
そもそも立ち上がってすらいないのに、と反論するも、姉は聞く耳をもたない。もともと体格のいいグレートピレニーズのリラを母とこの2番目の姉は毛嫌いしているのだ。まったく失礼もいいところである。
確かに本来なら室外犬として扱われるべきかもしれない犬種だが、気性は非常に穏やかだ。毛並みだって、多少毛の抜け落ちは激しいかもしれないがマーゴの献身的な世話で実に滑らかでうつくしい。アーモンド形の黒い瞳は実に理知的で素晴らしい。そんなリラを邪険にするなんてどうかしている。
「氷の貴公子と名高いローランド公爵さまとお会いするのに、少しでもみっともない格好はできないのよ。彼はとっても評価が厳しいんだから!」
「はあ…」
『氷の貴公子』ってなんだろう…。
マーゴは返事をしながらも心の中で首を傾げる。ここ最近気がついた事なのだが、どうも母や姉の評価と自分が知っている公爵像が一致しないのだ。
いずれにせよ、ここに長くいる事は賢明ではないだろう。マーゴは立ち上がってにっこりと母と姉に笑って見せた。
「お姉さまたちは忙しそうだから、私はもう退散するわね。リラ、いらっしゃい」
厄介ものを見る目つきには耐えられない。彼女の大事なリラを嫌う彼女たちには本当に腹が立つ。
でも、残念ながら公爵さまはリラのお友達でリラの事が大好きなのよ、と。マーゴはあえて姉たちに告げる事なくさっさと部屋を後にした。
マーゴが庭で初めてローランド公爵と会って以来、彼はちょこちょことエルストン子爵邸を訪れるようになった。
注目の独身男性が特定の家に頻繁に訪れる理由と言えば1つ。お目当ての令嬢がいるからだと世間は考える。エルストン子爵には3人の娘がいて、長女は既に嫁いでいるが、次女は社交界2シーズン目の花ざかりである。それゆえに、母も当の次女も公爵に少しでもいいところを見せようと必死なのだ。
だが、しかし。
「貴方の目当てがリラだと知ったら、お母様たちどうするのかしらねぇ…」
「どうもしなくていいんじゃないか?」
バスケットからいそいそとカボチャのパイを取り出しながら答えるのは、噂の公爵デイヴィッド・エリック・フォントンその人である。一緒に入っていた林檎を取り出すと、入っていたフルーツナイフで半分にしてからリラに与えた。
「私がここに来ているのは君とリラ、2人と過ごすためで、君の姉上に求婚する気はない。実際、ここに来たって彼女たちの相手はほとんどしていないし」
口で言うほど簡単な問題ではない事はデイヴィッド自身がよく知っているくせに、あっさりとそんな事を言う。周囲に子爵令嬢に求婚しているという噂が立とうが何だろうが彼女とリラを切り離すつもりはないであろう口ぶりがマーゴには嬉しかった。
マーゴと同じようにリラを大切にして友人として接してくれる彼は、彼女にとって貴重な友人の一人だ。リラは一見身体が大きくて怖そうだから、倦厭する人が多い。本当はとても優しくて賢くて、こんな素晴らしい犬は人にもいないと思うのに。この公爵だって、リラのそんな優しさに助けられた一人なのである。
眩い純色の金の髪に綺麗なアイスブルーの瞳。スッと通った鼻筋にまるでギリシア彫刻のように素晴らしく整った顔立ち。深緑の上着も、洒落た結びをしたクラヴァットも嫌味なくらい決まっている。距離を置きたくなるほどの美貌をもっているのだが、醸しだす大らかな雰囲気がそれを相殺している。
これのどこが『氷の貴公子』なのだろう。
柔らかく微笑む姿も寛ぎきった表情も楽しそうな会話も、どこをとっても彼の通り名にそぐわない。社交界という人たちは浮かれすぎて頭にうじが湧いているのかと思ってしまう。
その疑問を率直に聞いたら、デイヴィッドはしかめ面をして、普段はこんなに表情豊かではないのだと白状をした。それが信じられずマーゴが驚いた顔をすると、パイを口にしながら説明を続ける。
「嫌なんだよ、ああいう社交の場が。だからどうしても無愛想になる」
「…だったら出なければいいじゃない」
「私だって出たくない。けれど、礼儀っていうものがあるからね。今まではちょっと事情があって離れていられたけれど、そろそろ妻を探せって親族からも圧力をかけられたし。公爵っていう立場もある」
「……ご愁傷様」
マーゴは詳しく知らないが、デイヴィッドが極端な女性不信である事は知っていた。結婚という言葉を毛嫌いしているのも知っている。どう見たってマーゴより美人で女ざかりの姉を無視して彼女やリラと時間を過ごすのだって、彼の根深い女性不信が原因である。
「まったく、冗談じゃない。結婚なんてしたくないというのに」
マーゴはメイドが用意してくれた紅茶を手際よく注ぐと、悪態をついているデイヴィッドに手渡す。満足そうにそれを啜り愚痴を溢す公爵は、まったくもって紳士らしくないが、だからこそマーゴは好きだ。儀礼的な形だけのものは自分たちに似合わない。
「マーゴやリラとこうやってお茶をしているのが一番好きだ」
さらりと言ってくれるのはいいが、それはマーゴがおおよそ“女性”とはかけ離れていて、完全に恋愛対象外だからこそ出てくる言葉だろう。そう思うと少し複雑だ。
別にデイヴィッドに恋をしているわけではないけれど、こうも子供扱いされるのもおもしろくない。決してデビューしたいわけではないが、マーゴだって3、4年後には社交界にデビューして大人の仲間入りをするのに。
嫌味の一つでも言ってやろうかと傍らのデイヴィッドを見やると、予想外な事にそこではいい大人がリラを抱きかかえるようにしてくーすかと眠っていた。
呆気にとられて寄り添う友人たちを見つめていると、リラがマーゴに向けて視線を流し、パタリと尻尾を動かした。どうやら寝かしておいてあげなさい、と言いたいらしい。
「…まあ、しょうがないか」
おそらく、彼が言うようにデイヴィッドにとって彼女たちとの一時は数少ない穏やかな時間が過ごせる機会なのだろう。時折見せる暗い表情や、姉や母と共にいる時のすましきった顔を思うと、心ない一言や態度で希少な機会を奪ってしまう事は可哀そうに思えた。一回り年上のくせに、どこかほっとけない友人である。
リラの背を撫でながら、マーゴは自分の分のお茶に口をつけた。
もう花も終わりのライラックが、深い色の葉を重ね、影をつくりながら、さわさわと耳心地良い音を立てていた。




