第一章
その日、デイヴィッドはエルストン子爵自慢の庭を歩いていた。
この庭を歩くのは2回目だ。以前来た時はとてつもなく不愉快な気分だったので、ろくに花も見られなかった。
結婚直前に婚約者に裏切られて3年。あの時は本当に散々だった。自分の親族と相手の家に事情を説明し、自分ではない男の子どもを宿した女との婚約を解消した。彼女は手ごわくて、最後まで彼の子どもだと言い張っていたが、それが嘘である事は彼が一番よく知っている。名誉を重んじてそのまま結婚するよう進言もされたが、彼の潔癖さがそれを許さなかった。
結局、浮気相手である子爵家の三男と話をつけ、彼らを結婚させ本当の両親の元で子どもを産ませた。生まれた子が父親そっくりな男児である事を知った時には、間違った選択をしなかったと心の底から安堵したものだ。
ただ、彼の評判はかなり落ちていて、彼はしばらく社交界から姿を消すことにした。元々社交界もあまり好きではなかったのでちょうどいいくらいだった。3年経った今でも評判は回復しきったわけではないが、ささやかな揶揄や非難に耐えられるくらいには彼も強くなったと思う。
今だって、あの時別れ話をした庭を歩いていても辛くはならない。少し感傷的な気分にはなっても、それだけだ。
そういえば、と彼は以前この庭で会った大きな犬を思い出す。あれはグレートピレニーズだった。あの時、彼は初めて自分の中の弱さを口に出した。幼いころから公爵家を継ぐ者として厳しく育てられた彼は、弱音を吐くことなど許されていなかった。けれど、人間でないあの存在の前でなら何故か弱音を吐いてもいいと、あの時はそう思えたのだ。堂々とした美しい犬は、彼の傍にいて、おとなしく抱かれながら彼の話を聞いてくれた。犬がこちらの話を理解しているとは思わなかったが、まるで慰めるかのように優しく身体を寄せてくれたあの存在に、束の間ではあれ大層心を癒された事は事実だった。
整えられたライラックの茂みに目を細め、そっと手を伸ばすと、ガサガサという音がして、大きな影が姿を現した。
その影が紛れもなく彼の思い出の犬であると気付いて、デイヴィッドは軽く目を見張ると、一気に破顔した。
「驚いた。まさか会えるとは思っていなかったよ」
声をかけながら近づき、昔と同じように頭を撫でる。見上げてくるつぶらな瞳がまるで自分を覚えているかのようで、彼は嬉しくなる。
しゃがみ込んで、手を伸ばす。犬は黙って彼に抱きしめられ、少し甘えるように身を寄せてくる。鼻を顔に寄せてきて、ペロリと舐められたのには驚いたが、不思議な事に嫌ではなかった。
大きな白い身体に賢そうなアーモンド形の瞳。歩く姿はどこか威厳に溢れている。
犬がしている美しいエメラルド色の首輪に、エルストン子爵の趣味の良さが表れていた。勇敢で従順と噂高いこの犬種は貴族の間でも人気が高かく、人に吠える事もせず、かといって無暗に愛敬を振りまく事もしない。犬種としての特徴もあるが、飼い主に影響されたところが多そうだ。以前も思ったが、賢く人に慣れた犬だ。よく躾けられていると感心する。
「覚えている…わけはないか。お前は変わらないな。相変わらず賢くてやさしい犬だ」
覗き込んだ瞳が可愛らしくて、デイヴィッドはその場に座り込むと、この3年の事をその犬に話し始めた。犬は黙って聞いている。
犬相手に真剣に話をしている自分に苦笑しつつ、デイヴィッドは久々に穏やかな時間を過ごしていた。
彼に寄り添って座っていた犬が、ふと顔を上げた。立ち上がって一声吠える。
何が起こったのか不思議に思いながら、デイヴィッドは犬が吠え尻尾を振った先を視線で追った。
水色のドレスを着た少女が、何かを探してきょろきょろと頭を動かしている。犬の鳴き声に視線を定めると、パタパタと一直線に走ってきた。
「リラ」
少女は犬を見て、素晴らしく晴れやかな笑顔を浮かべる。犬もそれに応えて彼女の方に走っていくと、彼女を押し倒さないよう気をつけた勢いで飛びついた。
13,4歳だろうか。柔らかく波打った栗色の髪を惜しげもなく垂らし、澄んだ緑色の瞳は生き生きと輝いている。少女らしくスラリとした身体つきはほっそりとして、柳の木を思わせた。華やかではないが上品な顔立ちに、人好きのする愛嬌のある表情を浮かべており、見る者を微笑ましくさせるものがある。
少女はデイヴィッドに気付くと、にっこりと笑って犬を伴って近づいてきた。いくら幼いとはいえ知らない人間に簡単に近づくのは褒められた事ではない。まして貴族の娘なら尚更だ。彼女の所作の一つ一つには貴族の娘である事を窺わせる育ちの良さが表れていた。おそらくエルストン子爵の娘であろう。確か、社交界にデビューしていない末娘がいたはずだ。
「はじめまして。えーっと…?」
可愛らしく小首を傾げる姿に、デイヴィッドは思わず頬を緩める。丁寧な礼をして、細く白い彼女の手を取る。
「はじめまして、姫君。ローランド公爵、デイヴィッド・エリック・フォントンと申します」
社交が好きでなく、堅苦しい彼にしては実に珍しく、少しおどけて挨拶をすると、少女が目を丸くした。その少女は一瞬置いて、クスクスと楽しそうな笑い声をあげて優雅に礼を返す。
「はじめまして、公爵さま。エルストン子爵の娘、マーガレット・リースエルよ。こちらはリラ。私の親友」
そう言って、隣に佇む犬を見下ろす。幼いながら慈愛に富んだ視線に、デイヴィッドは心が温かくなるのを感じた。
「親友ですか?」
「そう、親友。私が嬉しい時、悲しい時、いつでも一緒にいて私と気持ちをわけあってくれるの」
当然のように少女―――ミス・リースエルが言う。しかしその瞳の奥では自分の言葉に対する彼の反応を窺っている色があった。
犬は古来より人間の友であるが、獣くささを嫌う令嬢は少なくない。年頃の娘が好みそうな小さな愛玩犬ではなく、大型犬を愛し堂々と『親友』と呼ぶ彼女の率直さは珍しいものであった。犬がこちらの気持ちをわかっているという彼女の持論が真実かどうかデイヴィッドは知らないが、この賢い犬に敬意を払いたくなってデイヴィッドは鷹揚に頷いた。
「素晴らしい親友をお持ちですね、ミス・リースエル」
ほほ笑みながらそう告げると、令嬢は驚きながらも実に嬉しそうに笑った。白い頬が興奮に紅く上気して、活き活きとした美しさを際立たせている。
「ありがとう!ふふ、そう言ってもらえて嬉しいわ。ねえ、リラ?」
少女が傍らの犬に問いかけると、リラと呼ばれたその犬は少女を見上げ甘えるように尻尾を振った。所作がどこか人間くさくてデイヴィッドは内心愉快でたまらない。
「あなたのリラはとても賢いのですね。本当にこちらの気持ちをわかっているかのようだ。そのような親友がいるとは、貴女は幸せですね」
3年前の一時を思い出しながら彼が言うと、ミス・リースエルは再び彼に向って顔を上げ、首を傾げる。傍らのリラを見下ろしてから、今度は彼をじっと見あげる。
「…あの、勘違いだったらごめんなさい。もしかして公爵さまは以前にもリラに会った事がある?」
突然の質問にデイヴィッドが言葉を失くしていると、ミス・リースエルは少し気まずそうに言葉を続ける。
「なんとなくだけれど、そう感じたの。それに、貴方の使ってる香水に覚えがあるし…」
「私の?」
デイヴィッドの愛用している香水は所有しているバラ園で作った特注品だ。そうそうある香りではない。一体彼女はどこで彼の香りを覚えたというのだろう。
「ずっと前だけれど、リラが残り香をつけて庭から帰ってきた事があったの。とてもいい香りだから覚えていて…間違いなければ、それが公爵さまの今の香りと同じなのよね。あ、不躾な質問だったかしら?ごめんなさい」
申し訳なさそうな顔はしていても、それ以上に好奇心を前面に出した表情でミス・リースエルが告げる。これが妙齢の婦人ならともかく、まだ幼い彼女の台詞というところにデイヴィッドは差して気分も害されずに得心した。
「いえ、お気になさらずに。そうですね…実は私も、何年か前に貴女の親友にお世話になった事があるんですよ」
内緒話を打ち明けるかのようにあえて声を潜めて告げると、少女の顔がパッと明るくなった。くるくると変わる表情が見ていてとても初々しい。ミス・リースエルは朝咲きの薔薇を思わせる瑞々しい笑顔を彼に向けた。
「じゃあ、公爵さまはリラのお友達ね!」
「そうですね…彼女がそう認めてくれるなら」
デイヴィッドが手を伸ばしてその頭を撫でると、リラは嬉しそうに目を細め彼の手を舐める。その様子を見て少女は更に笑みを深めた。
「十分認められてるわ。リラの人を見る目は確かだもの」
ミス・リースエルは飼い犬の傍にしゃがみこむと、慣れた手つきでその首をかいてやる。珍しい、しかし微笑ましい雰囲気の彼女たちにデイヴィッドはこの数年で一番心が和らぐのを感じていた。
「リラのお友達なら私のお友達よ。公爵さま、お時間があれば一緒にお茶はいかが?」
いきなりの、しかも異例の申し出に、デイヴィッドは驚いてまじまじと少女を見つめる。どこか型破りな子爵令嬢は、彼のそんな態度を気にした様子もなくにこにこと笑っていた。
彼女の教育係はさぞかし手を焼いている事だろう、と思いつつ、デイヴィッドは目じりの皺を深くする。奇妙な事に、彼女の提案に惹かれてやまない。
「光栄な申し出です、ミス・リースエル」
「マーゴと呼んで。デビュー前だし、私はまだ貴婦人ではないの。ねえ、いいでしょう?」
純粋に彼の同席を望む瞳に一切媚はない。久方ぶりに異性と心安らぐ時間を過ごせそうだ。もっとも、女性というにはあまりに幼すぎる姫ではあるけれど。
いずれにせよ、彼女の父親である子爵にも挨拶をしなければならない。すっかり同席するつもりではあるけれど、一応それまで返信は先延ばしにしておこう。
彼は期待に溢れる少女にただ微笑み返し、邸に戻るためにそっと手を差し伸べた。