泥中に潜む俊足
茂治の逝去から一ヶ月。クラスメイトたちの同情の言葉は、拳士の心に乾いた砂のように通り抜けるだけだった。拳士の瞳にあるのは、おびえでも絶望でもない。世界のルールをハックするという、冷酷なまでの執念だけだった。
深尾まきとの二人暮らし。彼女は拳士の心を無理にこじ開けようとせず、黙って弁当を持たせ、泥だらけの拳士をただ笑顔で迎えた。その無言の赦しが、今の拳士にとって唯一の盾となっている。
拳士と健二は、名門『広島メープルス』の第二チームに所属していた。そこは素行不良や怪我で弾かれた者たちの吹き溜まり。部員はわずか6名。
「あと3人。……メガネ、文句のつけようがないパーツを俺たちが集めるぞ」
拳士の頭の中には、数合わせなど毛頭なかった。世界の戦術をバグらせるための、歪で尖った才能だけが必要だった。
チャンスは、昼休みに訪れた。校舎裏、どん、と鈍い音が響く。
「台湾のハーフのくせに生意気なんだよ」
いじめっ子に囲まれ、地面に這いつくばっているのは、隣のクラスの大槻だった。拳士は助けに入ろうともせず、スカウトのような冷徹な目で見つめる。
いじめっ子が缶ジュースを投げつけた、その瞬間だった。
大槻の身体が、バネのように爆発した。
──速い。
缶が背中に触れる直前、大槻は超人的な反応で砂煙を上げて校舎裏を疾走した。いじめっ子たちが呆気に取られる中、その背中は遥か彼方へと消えた。
「……見つけた」
大槻の母は台湾の山岳地帯出身だ。高地で鍛え抜かれた心肺機能と、爆発的な脚力。本人がただの「逃走」に使っていたその才能を、拳士は見抜いた。
放課後、拳士は大槻の前に立ち塞がった。
「野球をやるぞ、大槻」
「む、無理だよ……」
「関係ねえ。お前のその足は、逃げるためにあるんじゃない。世界を狂わせるためにあるんだ」
拳士は大槻の細いがしなやかな大腿部の筋肉を鋭く見据え、白球を押し付けた。
「お前をいじめた奴らの頭上を、光速で駆け抜けてみたくはないか? 塁間というルールを、お前の足でバグらせてやる」
拳士の瞳に宿る、底なしの熱量に、大槻の身体が震える。いつも向けられる「同情」でも「悪意」でもない、自分の本質を見抜く怪物の視線。
「……ぼくでも、走れるかな」
「俺が走らせてやる」
これで、7名。あと2人。




