俺が来た
神様というやつは、カードの配り方が絶望的に下手くそらしい。
後に日米の野球界を震撼させ、左右両腕から弾丸を放つ怪腕『ツイン・エクスプレス』。その男、杉谷拳士の物語を始めるにあたって、まずは彼に配られたあまりにも残酷な手札の話からせねばなるまい。
拳士にとって、世界は常に白球の縫い目を中心に回っていた。
父、茂治は広島ライジングドラゴンズの中継ぎ投手だ。スターの光は浴びない。だが拳士にとってその背中は、どんな偉大な打者よりも大きく、頼もしかった。遠征から戻る父の右手からは、常に独特の湿布の匂いがした。そのマメだらけでガサガサした掌こそ、拳士の誇りだった。
あの日、雨がすべてを塗りつぶすまでは。
母、あきが乗ったバスがスリップし、大型トラックと激突した。病院で冷たくなった母の手を握ったとき、拳士は十歳だった。隣で獣のように咆哮し、床をのたうち回る父の背中を見つめながら、拳士は思った。世界は、壊れたのだ、と。
太陽を失った茂治は、狂ったように野球にすがった。妻を失った穴を埋めるのは、マウンドの重圧だけ。だが運命は、より深く、鋭く拳士親子を抉った。その夏、茂治は右肘の靭帯を断裂した。
スタンドまで届いた鈍い音。過酷な手術とリハビリの日々。父は夜な夜な痛みに顔を歪め、それでも右腕を突き出した。その姿を見て、少年は祈り続けた。どうか、父さんの右腕に神の加護を。
そして二年後の春。完全復活をかけたマウンドで、スタジアムが揺れる。茂治が振りかぶる。打者が空を切る。
「親父は、帰ってきたんだ!」
拳士が歓喜に震えた、次の瞬間だった。
二球目のリリースとともに、茂治の右腕が力なく垂れた。膝から崩れ落ち、放心状態で自らの右手を凝視する姿。それは、野球選手としての死刑宣告に等しかった。
「引退する」
夜の自宅で、父は空っぽの目で言った。使い古されたスポーツバッグが、まるで抜け殻のようにリビングの隅で横たわっている。
「……嘘だろ。また治せばいい! 俺が……俺が、親父のボールを受けてやるから!」
「無理じゃ、拳士。投げようとするたびに、肘が引きちぎれる幻影が見える。脳が……身体が、野球を拒絶しとるんじゃ」
父の目は、完全に死んでいた。魂の火が消えた男の横顔を見て、拳士は初めて子供のように泣きじゃくった。悔しくて、悲しくて、世界が理不尽で、腹が立って仕方がなかった。
翌朝。河川敷のグラウンドには、父から誕生日に買ってもらった新品の右利き用グラブがあった。
右利きの拳士にとって、左腕はただの飾りだ。箸も持てない、力のない左手。拳士は左手にはめたグラブを力任せに引き抜き、右手に装着した。
もし。もし、この「右腕」が壊れたら、野球という人生は終わりなのか。そんなルール、誰が決めた?
(右がダメなら、左がある。──いや、そんな生易しい話じゃない)
拳士は右手から外したグラブを、迷いなく左手にはめた。
左腕の筋肉が悲鳴を上げる。関節が軋む。だが、その痛みが最高に心地よかった。神様がゲームをめちゃくちゃにするなら、俺はルールそのものを破壊してやる。父が捨てた夢の続きを、この左で、右で、両方の血を燃やして、一人で二つ分、突き抜けてやる!
河川敷のコンクリート壁に向け、左腕を極限までしならせる。握力すべてを集中させ、渾身の力を込めて白球を射出した。
パシィィン!!
乾いた爆音が響く。不格好で、制御不能の投球。しかし、放たれた球には、父の情念と、少年が背負い込んだ未来が、確かに宿っていた。
拳士は獰猛に笑う。口の中に、鉄錆のような血の味が広がった。
「見てろよ、世界。……俺が、両手で殴り込みに行く」




