第四十三話 濃霧
阿波国・大西城
長宗我部盛親率いる四国方面軍は土佐から讃岐に程近い大西城で讃岐入りの準備をしていた。
「木村殿、そろそろ池田が瀬戸内を渡ったか?」
「もうじきでごさいましょう。そろそろ毛利が出てくる頃でしょうが。」
「殿!早馬からの知らせにございます。」
「これは…」
その書状では備後で毛利と吉川の内輪揉めが起こったことが記されていた。
「これは少々まずいことになりましたな。」
「伊予の大名たちの兵を合わせても我が方は5万、このまま池田の大軍が海を渡れば兵の数は豊臣を越える…」
盛親は勤続疲労の溜まっている四国方面軍に池田の大軍とまともにぶつかれる程の体力は残っていないと見ていた。
「まずは急ぎ援軍の書状を近江に送りましょう。」
「そういたそう。大坂にも早馬を出せ。」
「はっ。」
近江国・長浜
「ついに動いたか!」
四国方面の波乱とは別に、天下分け目の戦の匂いが漂いつつあった。
「家康・秀忠は江戸を発ち、東国の親藩・譜代も出陣の支度をしているということにございます。」
「どこで集結しそうじゃ?」
「岡崎かと。」
「備前はどう見る?」
「まあ十中八九、家康も関ヶ原の辺りを戦の目星につけているのでしょうな。」
「やはりそう思うか。左衛門佐はどう思う?」
「某の見立てですが、野戦での決着は避けられないでしょう。だからこそ、まだ敵方が集結していない間に美濃に入り、大垣など、いくつかの城を落としておくことが肝要かと。」
「又兵衛はどう思う?」
「某はもちろん、野戦で決着をすべきかと存じまする。敵方の兵は戦を経験していないものもいるでしょう。今の豊臣軍であれば、十分に蹴散らせるかと。」
「それは甘いな、後藤殿。」
全登が口を開く。
「相手は徳川家康じゃ。あの男はどんな手を使ってでも勝ちにくる。まともにぶつかろうとして誘い込まれるなぞ、関ヶ原と全く同じことじゃ。」
「そのようなこと、明石殿に言われずとも分かっておるわ。」
「なんじゃと!」
「やめよお主ら。今内輪で揉めておる暇はない!」
近江国・長浜
「儂は何をしておるのだろうか。」
後藤又兵衛は一人、自陣で酒を飲んでいた。
「黒田の家を飛び出し、死に場所を求めてここに来た。だが、目立った武功もあげられず、死んでも死にきれん。儂は…どうすればよいのじゃ!」
又兵衛は不意に人の気配を感じた。
「何奴じゃ! 」
又兵衛には姿が見えない。しかし、どこからともなく声が聞こえてきた。
「某は大御所様からの命を受けて参りました。」
「忍びの者か。よくここに来たな、豊臣の忍びの網を潜り抜けて来たのか。」
「後藤様、我が主が会いたいと申しておりまする。」
又兵衛はニヤリと笑う。
「儂もなめられたものじゃ。今や儂は殿より重職を与えられている身じゃ。そう易々と豊臣を裏切るように見えるか?儂が。」
「恐れながら、某にはそう見えまする。」
又兵衛の顔が紅潮する。
「ふざけるな!その様な話を次にしに来たらな、叩き斬ってやる!」
又兵衛は怒って踵を返そうとした。
「播磨一国、いや、但馬も入れて二国でどうかと主は申しておりまする。」
又兵衛は何だと、と言いかけたところで正気を取り戻した。
「黙れ!その様な話、誰が信じられるか!」
「長浜の市中に信濃屋という商家がございます。店主に『扇子を頼む』と伝えてくださいませ。後藤様自ら参られなくても構いませぬ。」
翌日
又兵衛は昨日の事が忘れられず、用件を詳しく言うことなく息子の基則を『信濃屋』に行かせたのだった。
「父上、信濃屋で筒を持って参りましたが…」
「そうか、ご苦労であった。」
「その筒、何が入っているのですか?」
「お主には関係のないことじゃ。下がってよいぞ。」
「はあ。承知致しました。」
又兵衛は周りに人がいないことを入念に確認した後、筒を開けた。
「これは、家康の花押…」
「『後藤殿は豊臣には宝の持ち腐れ、徳川ならもっとよい条件でそなたを遇する。播磨、但馬で足りぬなら丹波も足そう。もうじきまた儂の使者が参る。その時に決心していただきたい』だと。」
又兵衛は、揺れ動くその気持ちを抑えきれずにいた。
美濃国・関ヶ原
周りの人間すら見えないほどの濃霧が立ち込めるこの地を、豊臣軍は通過しようとしていた。
「もうすぐ、関ヶ原か?」
「はっ。関ヶ原に入りましてございます。」
「備前、あの日もこのような濃霧であったか?」
「この地だけは、あの日と何も変わっておりませぬ。」
「そうか。少し、降りてもよいか?」
「はっ。全軍止まれ!休息じゃ!」
「治部や刑部は、ここで散っていったのだな。」
「彼らは真に殿の事だけを思って死んでいきました。とにかく、家康が憎い。」
「何としても、家康に勝ち、ここで散っていったものたちへの手向けとせねばな。」
決戦までの時間がないことを、双方が徐々に認識しつつあった。




