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どっしりとした一木造の座卓の上に、葛城美沙が何かを置き、それを橘の方へと滑らせる。
「こちらは、誉さまのものでございます。どうぞ、お納めくださいませ」
それは、印鑑と通帳のようだった。
橘はそれを一瞥したが目を伏せ、受け取りを拒絶する。
「大巫女様からでございます。誉さまのご誕生から今まで、誉さまが受け取るべき葛城の益にございます」
自分は葛城の人間ではないと言い切った橘は、目を伏せたまま、沈黙を保つ。
受け取る気はないと、全身で告げているようだ。
「次期殿、受け取っておけ。受け取らねば、葛城は無理やり受け取る状況を作り上げようとするぞ。それこそ、次期殿の不本意な状況でな」
「……しかし!」
「手をつけるかつけぬかは、次期殿の自由だ。受け取って放置したところで、もう何も言えぬよ」
だよな? と、蘇芳兄上が葛城美沙に視線をあてて笑う。
真眼の巫女と呼ばれる美女は、苦笑を浮かべて頷いた。
「ええ。誉さまがお納めくださったという事実さえあれば、一族の者はそれ以上申し上げることは叶いませぬ」
「ですが」
「受けておけよ、橘。誰も見てないところで印鑑砕いて、通帳燃やしてもかまわないってことだぞ」
ぼそりと疾風が唆す。
「……さすがにそれは困りますけれど」
困ったようには見えない笑みで、葛城美沙は言葉を紡ぐ。
「ああ、なるほど。そういう手もあるんだ。いいね、それ」
ふわりと橘が笑う。
いや、本当にいいのだろうか、それ。
少しばかり困惑したが、本人の意思が重要だから部外者の私が口を挟むわけにもいかない。
同じ部外者の疾風と私とでは立つ位置が違うため、疾風が言えることでも私では難しいこともある。
今、私が言質を取られることになれば、家にも橘にも迷惑をかけることになりそうだ。
「それなら受け取ろう。紛失したところで、気付かないだろうけどね」
笑顔のまま、橘が答える。
そんなに嫌なのか。
ああ、でも。あることに気付いてしまった私は、沈黙を守ろうと思っていたにもかかわらず、郎女に問いかける。
「ひとつ、お尋ねしたい」
「何でございましょう?」
いきなり問いかけた私に驚きもせず、郎女は私に視線を向ける。
「大巫女は、何故、今、それをあなたから渡すように託したのだろう? 彼女ならいつでもチャンスはあったはず」
祖母として、橘に幾度となく会う機会があった葛城の大巫女が、何故直接渡すことなく郎女に託したのか。
一度気になってしまえば、あまりにも不自然すぎる展開のように感じてしまう。
私の質問に橘がわずかに表情を変え、疾風も葛城美沙に視線を向ける。
「大巫女様が先見の巫女ということは、御存知でいらっしゃいますね」
動じることなく彼女はうっすらと微笑んで告げる。
「情報の1つとして。実際にどのようにして未来を予知するのかなど、皆目見当もつかないが」
葛城一族なら、このような物言いは不快に感じるだろう。
大巫女の能力を否定しているようにも聞こえる可能性もある言い方だからだ。
郎女もさすがに笑み続けることはできずにわずかに目を眇めた。
「確かに。大巫女様も先見の宣託は一族以外の前ではなされませんもの」
ふと溜息を零して、葛城美沙は呟く。
「先見も、『必ずしも当たるとは言い難い』ということは、ご本人から伺ったことはあるが。特に血が濃いと上手く読み解けないとも」
「……そのようなことまでお話しなさっていたのですか……」
「私が偽りと言っているとは思わないのか?」
「瑞姫様の発する言葉は真ばかりですわね。疑う余地もありませんわ。わたくしも大巫女様からそのように伺ったことがございます」
溜息交じりの声は、どこか呆れたような響きを含んでいる。
「正直に申し上げましょう。大巫女様は、誉様が葛城にお戻りになられるか、そのまま橘を継がれるか、橘の家を出たまま葛城にお戻りにならず名を馳せられるのか、まったく読めなかったそうです」
静かな声音で告げた内容は意外なものだった。
「しばらくはこちらにいらっしゃるだろうということはお判りになられたそうですが、それ以上のことは……それゆえ、これをわたくしに託されました。渡すかどうかはわたくしに任せると」
「あなたは、渡すべきだと判断したということか」
「はい。大巫女様の先見は外すことがないという歴代でも類を見ないほど優れた御方なのですが、5年前、それが初めて覆されました。瑞姫様、あなたのことです」
少しばかり迷うような素振りを見せた葛城美沙は、それでも表情を改め、言葉を紡ぐ。
「巻き込まれるはずもない事件に巻き込まれ、驚いた大巫女様はあなたの先を案じられた。誉様の唯一の希望であった瑞姫様に万が一のことがあればと……そうして先見をし、後悔なさったそうです。最悪の結果など、見たくはなかったと。摘み取られた華を嘆いた者たちの報復は、それはもう恐ろしいものであったそうです。誉様も……ですが、先見の結果を覆し、瑞姫様は回復なさいました。大巫女様にとって、とても嬉しい『外れ』だったそうです。それ以来、大巫女様は進んで先見を行うことはなさらないようになりました。視えるものだけ受け止めると仰って」
彼女の言葉に、ほんの一瞬、身が強張る。
橘の表情も歪み、制止の声を上げかけ、言葉を呑みこむ。
大巫女が見た私の未来は、潰えていたのか。
瑞姫さんが居なければ、確かにそうだったのだろう。
私の死が橘に与える影響というものは、もう聞く必要のないことだ。
起こらなかったことに対して、いつまででも気にかけていては進まない。
「つまり、大巫女は、この先、誉の未来も、私の未来も視るつもりはないということか」
確認すべきことは、そこだ。
私の未来が誰かの先見だとか、予知だとかで左右されるわけにはいかない。
それが私ひとりのものではないということはさすがに理解できている。
それでも、自分の足で立って、状況を把握して、進むべき道を選び取らなければならないという自覚はある。
大巫女が予見したからと言って、それに従うつもりも道理もない。
だが、それを押し付けてくるのなら全力で抗うつもりだ。
「……おそらく、そのつもりでいらっしゃると……」
曖昧に肯定した葛城美沙は、緩やかに頷く。
「大巫女様からお渡しするよりも、わたくしからお渡しした方が誉様も受け取ってくださるとお思いになられたようですわ」
受け取るという意味合いが遥かに違うが、結果を見れば確かにそうだろう。
身内の情というよりも半ば脅迫で受け取らせたようなものだ。
「葛城の主たる我が君が、本来ならば受け得る益をお渡しできなかったことが問題だったのです」
彼女の言葉にわずかばかりの違和感を感じる。
それではまるで葛城はずっと橘と接触しようと試みてきたように思える。
「祖母君である大巫女様がお孫様である我が君にお会いになるのに、何ゆえ橘家に阻まれなければならぬのか! この屈辱、相良様にはお判りにならぬでしょう。いえ。橘ではなく、相良様の御血筋として我が君がお生まれあそばされていたのなら、そのようなことには一切ならなかったでしょう。先見の結果とはいえ、悔やまれてなりません」
その言葉に思わず蘇芳兄上と顔を見合わせる。
まあ、確かに。
嫁は大切にする家だから、嫁の実家も当然大事に扱うのが当たり前だと思っている。
子供や嫁に、その実家からの財産分与があれば、それは彼らの財産としてきちんと渡るように手配するだろう。
もちろん、実家から会いたいと言ってくるなら会うのも当然の権利だ。
阻むわけがない。
一般家庭から嫁取りしている家だから、そういう考え方をしていると言っても過言ではないのだが。
家同士の結びつきを大事にする名家の政略婚はこれとは別の対応になる。
しかも、橘誉の場合、母親の出自が橘家内部で明らかになっていなかったというのが原因だ。
由美子夫人と真季さんが姉妹であるということは知られていたが、異母姉妹であったため、その母親の出自まで橘家が把握していなかったようだ。
それゆえ、真季さんが葛城の血を引く娘であることを知らず、接触してきた者が誰かわからずに拒否したということかもしれない。
あそこの分家の質の悪さは今までのことで充分すぎるほどわかっている。
真季さんの母親がどの家の出身なのか、まったく調べなかったのだろう。
察するに、葛城家は相当屈辱的な態度を取られたのだろう、橘家を憎悪するほどに。
大巫女がそれを抑えていたから、今までは手を出さなかった。
何故なら、橘誉は次期当主として橘家で暮らしていたからだ。
その橘家を出た今となれば、大巫女が抑えていたとしても隙間を縫って橘へ報復するかもしれないということか。
蘇芳兄上と視線でやり取りしてそういう結果を導き出す。
いや、だから。『うわぁ……女って怖い』って訴えないでください、兄上。
郎女にばれちゃいますから。
「確かに、相良ではあなた方のお気持ちはわからぬでしょう。それに、葛城の姫君を我が家にお迎えすることはこれから先もありませんし」
これだけはきちんと言っておかないと、葛城の姫君たちとの縁談が舞い込んできては困る。
ある意味、葛城家は相良と似ている。
どこに嫁ごうと、自分の生れた家が一番だというところが特に。
まあ、嫁がずに独身のまま子を産む女性が多い家であると聞いたこともあるけれど。
あと母親は違うが父親が一緒という子供も意外と多いという噂もあるけれど。
これ以上は考えると怖いので、あまり深く考えてはいけないと思う。
「それは残念ですわ。こちらの皆様にちょうど釣り合う者が大勢いますのに」
にっこりと郎女が微笑む。
その郎女の視線がわずかに後ろに流れる。
ああ、そうか。
『こちら』というのは、『相良』だけではなく『岡部』も同じだということか。
微妙に疾風が緊張しているのがわかる。
かなり郎女を警戒しているようだ。
「申し訳ない。そちらと同じように我が家は少々特殊ゆえ、一般家庭の方ならほとんど問題ないが、四族であれば家との繋がりを断ち切っていただかないと馴染めないだろう」
「そのようですわね。まあ、葛城と致しましても相良様と事を構えるつもりは毛頭ございませんもの。感謝をしているというのは真実ですわ」
そう言って、葛城美沙は表情を改めて蘇芳兄上を相手に交渉を始める。
内容は橘に関することだ。
その中の1つに、橘が与えられた離れを見たいというものがあった。
橘に確認したら、別にかまわないということだったので、彼と一緒に郎女を離れに案内する。
離れの造や庭を見た郎女は、『葛城が手に入れたマンションだと見劣りするので仕方ない』と意外にあっさりと諦めて帰って行った。
葛城美沙を見送り、彼女の目的を考える。
「……やはり、ここでの誉の扱いを確かめるためかな?」
「俺は物色されたような気がしたぞ」
疾風に問えば、憮然とした表情で答えが返ってくる。
「物色……?」
何も触れなかったのに、物色?
「颯希にも気を付けるように言っておこう」
「それがいいね」
少しばかりげっそりしたように橘も頷く。
「さっちゃん? 何で?」
「兄貴たちにも言っておこう。あれは本当に怖かった」
「……俺達に近づかないように言っておく。さすがに俺も恐ろしい」
「何が?」
「瑞姫にはわからない!」
2人同時に断じられてしまった。
確かにわからなかったけど、説明してくれてもいいじゃないか。
「土蜘蛛っていうより絡新婦だぞ」
「同意するよ、心の底から」
本当に最近、疾風と橘は仲が良い。
ちょっと拗ねてもいいだろうか。