127
離れを用意する間、橘には母屋の子供部屋で寛いでもらうことになった。
私が暮らす離れに来てもらってもよかったのだが、姉たちが先にそう言ったので決定事項となったのだ。
長期滞在と姉たちは言ったが、実際にそんなに橘が長く滞在することはないだろう。
四十九日まで七日ごとに法要があるからだ。
三月掛かっての四十九日はよしとされないので、その時は五七日で三十五日の法要で取り上げて納骨する。
宗派によってそれらは異なるので定かではないが、今まで一週間おきに午前中を休んで午後から登校していたので七日法要は行われていたようだし。
うちの場合は武家なので禅の教えをと思われやすいが実は密教系だ。
宗教もまた政治の一端を担っていた時代があったのだから、経緯は推して図るべしと言われたが。
嫁いできた人の影響も多少はあったのではないかと推測はできる。
子供部屋と呼ばれる奥の間の襖を開けて固まった。
「……兄上方、お仕事は?」
兄妹全員揃うなんて、正月以来のことだ。
何がと考えれば、まあ答えは諏訪の見舞いと橘家の暴走のどちらかしかない。
「ん? 作戦会議。仕事といえば、大事な仕事だね」
八雲兄上がにっこり笑って答える。
一緒になって固まっていた橘が、背筋を伸ばした。
「あ。橘君は謝罪しなくていいから。君は被害者だってことをそろそろ自覚した方がいい。君がしっかりしすぎているから、当主が腑抜けのままなんだよ」
「ですが」
「君は重荷をもう背負う必要はない」
出鼻を挫かれ、橘は首を横に振るが、兄たちもそこは強引に押し切ってしまう。
「瑞姫の友人であり、当主の長男である君を軽んじるような者たちに容赦するつもりはないし、君がそれでも彼らを守る気なら、申し訳ないが君を彼らから切り離すよ」
「俺がどういう生まれであろうと、彼らがどういう者であろうとも、俺は橘当主の息子です。事の発端が俺にあるというのなら、責任は取るべきでしょう」
「橘家の御家騒動なんて、僕たちにはどうでもいいことなんだけどね。巻き込まれるのも嫌だけれど、君に何かあって瑞姫が哀しい思いをするのはもっと嫌なんだよ。だったら、君を確保した方が話は簡単だよね」
にこやかに笑う八雲兄上の言葉に、こちらもすでに決定事項であったことを悟る。
最初から、橘の行動を読んで確保するつもりだったんだな。
「兄上方、私は誉の意思を尊重したい」
最低限釘は刺さねばならないだろう。
兄たちが考えていることは相良にとって正しいことかもしれないが、それが橘の為になるというわけではない。
ならば、私が橘の味方になることが兄たちの足を乱すことに繋がるだろう。
「だけど瑞姫」
蘇芳兄上が真っ直ぐに私を見る。
まさに武人といった感じの大柄な兄が視線を据えるだけでかなりの迫力がある。
中身を知っていれば、その迫力は獅子から猫に転落するけれど。
「どれだけその子が優れた人間だとしても、それを父親が気付かない、親族が軽んじるならば、そんな一族はいらないだろう?」
「それでも、です。本人が決める事であって、他家の私たちが決めることではない」
きっぱりと言い切れば、蘇芳兄上が一瞬固まる。
そうして、口許を手で覆い、ぷるぷると震える。
「蘇芳」
咎めるように八雲兄上が肘で蘇芳兄上を小突く。
いくら八雲兄上でも年長者に対してそれはどうかと思うのだが。
「うあ、やばい。うちの妹って、何でこんなに可愛いんだろう?」
蘇芳兄上が意味不明なことを口走った瞬間、八雲兄上と柾兄上の拳が、そして茉莉姉上と菊花姉上の足が見事に蘇芳兄上に落とされた。
「まあ、蘇芳ったら! いくつになってもお馬鹿さんだこと。瑞姫が可愛いのは瑞姫だからよ! 当たり前のことじゃないの」
見事な脚線美を惜しげもなく披露した茉莉姉上が、畳の上に沈んだ蘇芳兄上の脇腹を踏み躙り、嫣然と言い切った。
とりあえずいつものことなので私としてはこの光景に何ら思うことはないのだが、客人の前であるということは少しばかり気にかかる。
見れば、橘の顔色も少しばかり悪い。
内面を察するに、これはうちの日常なので気にしてはいけないと自分に言い聞かせているのだろう。
ちょっと申し訳ないことをしてしまったかもしれない。
話題を変えた方がいいだろう。
気を取り直した私は、橘に中に入り、座るように促す。
「あらいやだ。お客様を立たせたままだなんて失礼なことを。蘇芳兄さんがおバカなせいね」
ぐりっと踵で蘇芳兄上の鳩尾を踏み躙った菊花姉上が笑みを湛えてさらに兄上を踏み抜いて、後ろへ蹴り倒すと橘に座るように坐を示す。
「失礼いたします」
蘇芳兄上を気にしながらも、とりあえず座った橘の向かいに私も座る。
「誉、先程の、見せてもらってもいいか?」
そう声を掛ければ、橘の顔に笑顔が戻る。
「ああ。気に入ってもらえるといいけれど」
小さな天鵞絨の箱を取り出して、座卓の上に置くと蓋を開けてくれる。
「あら、可愛らしい。カラーサファイアかしら?」
一緒に覗き込んだ茉莉姉上が目を瞠る。
そこには小花を模したピンブローチが鎮座していた。
花弁は色とりどりの色石。
軽やかな色合いだが、その照り具合から茉莉姉上が仰るようにカラーサファイアだろう。
花弁を留める雄蕊は黄金だ。
「ピンブローチというところが心得ているわね」
菊花姉上が感心したように呟く。
「ちょうど今の時期、瑞姫はストールを使っていますから」
橘が言い添える。
「よく見ているわね。デザインも可愛らしいけれどあっさりしていて瑞姫の好みに合っているわ。石も、硬度と色を考えての選択でしょ?」
「ええ。どんなストールでも合うようにと」
「うん、合格。君は瑞姫の事を本当によく見ているのね。安心したわ」
どうやら菊花姉上は橘のことを気に入ったらしい。
「ちょっ!! 菊!! そんな簡単に……っ!」
蘇芳兄上が声を上げ、また茉莉姉上に踏まれた。
「うるさいわよ、蘇芳。瑞姫のお友達に失礼でしょう!? 瑞姫が人を見る目は確かよ」
「……ともだち……」
茉莉姉上の言葉に蘇芳兄上が瞬きを繰り返し、呆然と呟く。
「友達? 友達か!」
がばっと跳ね起きて、橘を見る。
「すまんっ! 勘違いしてた!!」
「あ、いえ。気になさらず」
蘇芳兄上の迫力に仰け反り気味に橘が応じる。
「蘇芳、情報収集が甘いぞ」
呆れたように柾兄上が告げ、蘇芳兄上の襟首をつかむと後ろへ引き摺る。
「すまないね、橘誉君。君が宝飾デザイナーの有望株な卵だということも、その道に進むために橘を出たいと思っていることも理解している。実家の力を頼らずに、自分の才能と努力だけでどこまでやれるか、きちんと考えているということも。うちとしては、その考え方を尊重したいと思っているし、それだけの力が君にあるとも思っている。そのピンブローチを見て、決めた。スポンサーとして君を支援しよう。友禅作家としての瑞姫の名前を利用してもいい。2人でコラボするのも面白いだろう?」
「そのために、橘を俺から切り離すと?」
「君は、橘の名前を必要としていない。むしろ邪魔にしか思っていないだろう? 家を出たいと思っているのであれば、私がスポンサーになるのは有益だろう?」
柾兄上がそこまで言うのであれば、宝飾デザイナーとしての橘の才能はかなりのものだろう。
こういったモノは感性の問題だけれど、デザイナーとして成功するかどうかは売れるモノが作れるかどうかという即物的な側面から見られがちになってしまうのが残念なのだけれど。
「誉。このデザイン、私はとても気に入った」
言ってなかったことを思い出し、私は正直に告げる。
その言葉に橘はとても嬉しそうな笑みを浮かべる。
「よかった」
「それで。この石をトルマリンや合成石に変えたら、かなり手頃な値段に抑えられるよね?」
「ああ、そうだね」
「これ、カラーバリエーションも揃えて、ピンブローチだけじゃなくコームとかペンダントもシリーズにしてデザインすると売れると思う」
「そうか。考えてみる」
素直に頷いた橘の表情は、すごく真剣なものだった。
本当に、自分で選んだ『したいこと』なんだな。
人の意見を素直に聞き入れる柔軟な姿勢は、橘にとってすごく重要な武器になる。
きっと彼は成功するだろう。
そう思ってピンブローチを摘まみ上げた私と、橘の視線が絡む。
「瑞姫のところは、本当に兄弟仲がいいな」
どこか嬉しそうな表情の橘の言葉には羨ましげな響きは一切ない。
微笑ましいものとして認識されているようだ。
さっきのアレを見てこの言葉というのもなかなか神経が太いのかもしれない。
「そうか?」
「うん。瑞姫に恋人が出来たら、どうなるんだろうね」
くすっと笑った橘の表情には珍しく好奇心が浮かんでいる。
完全に面白がっているのだろう。
「君は立候補する気はあるのかな? 橘誉君」
にこやかな笑みを湛えて八雲兄上が問う。
「もしかしたら名乗り上げる時が来るかもしれませんが、今は瑞姫の友人であることが嬉しいですから」
「そう? まあ、君ならいいかもね。その時になったら認めてあげるかもしれないよ? 疾風もだけど」
そう言った八雲兄上は笑顔の種類を変える。
それは大層イイ笑顔であった。
「瑞姫の恋人になるのなら、まず、兄である僕を倒してからだね」
「あ! 俺とも勝負しないとな!!」
八雲兄上に引き続き、蘇芳兄上も名乗り出る。
「それから、お約束としては交換日記から始めてもらおう。僕を交えてね」
「ああっ!! それいいっ!! 俺もやる! 邪魔してやる!!」
「あら、それ、面白そうね。私もやるわ、交換日記」
「私もーっ!!」
面白いおもちゃを見つけたような表情で、蘇芳兄上どころか、茉莉姉上と菊花姉上も便乗する。
「……何のカオスですか……」
呆れたように疾風が呟くが、彼らはそんな呟きを意に介すはずもない。
「兄上、姉上、申し訳ありませんが、私は交換日記などいたしません」
目的がない限り日記など書く気がしない身としては、ここはきっぱり否定をさせていただこう。
「えーっ!?」
「用があれば、メールで充分です。誰に読まれるかもわからない日記を持ち歩く趣味はありません」
「ま、そうよねぇ」
あっさり認めたのは茉莉姉上だ。
「えーっ!! やろうよ、瑞姫。面白そうよ?」
ノリのいい菊花姉上は不満そうに声を上げている。
「そこのボードが交換日記のようなものでしょう? いいじゃないですか、あれで」
スケジュールを書きこむボードを指さし、そう告げれば、瞬きを繰り返してボードを眺めた菊花姉上はあっさり納得してしまった。
「そうね。あれも一種の日記よね。ま、いいか」
「それでいいのか!?」
姉と妹が手を引いたことに驚いた蘇芳兄上が声を上げる。
「数日おきに日記を書くなんてまどろっこしいこと、誰がやろうと思うんですか?」
「え? 普通、やらない?」
「やりません! 八雲兄上の冗談ですよ」
「半分本気なんだけど?」
「ほら?」
にこにこと笑う八雲兄上の言葉に裏付けされ、先程の発言が冗談だと悟った蘇芳兄上はがっくりと肩を落とす。
「……おまえたち。目的を見失ってやしないかな?」
それまで沈黙を守っていた柾兄上が穏やかに話を制する。
怒った素振りは全くないが、兄姉たちがぴっと背筋を伸ばして座り直す。
さすがだな。
「瑞姫、離れの用意ができたようだ。彼を案内して差し上げなさい。疾風も瑞姫と一緒に世話をしてあげて」
「承知いたしました」
軽く頭を下げ、了承の意を表した疾風は立ち上がると、廊下へと向かう。
「じゃあ、誉、離れに案内するよ」
私も立ち上がり、橘を促して子供部屋を後にする。
それが柾兄上の意図するところであるというのはわかっていた。
私があの部屋にいては話せないことがあるのだろうと。
突き止めるのは後でいいと考えて、離れへと向かって歩き出した。