121 (諏訪伊織視点)
諏訪伊織視点
めまぐるしく過ぎたこの1ヶ月。
つい先日は、本当に最悪な日だった。
またしても相良が俺に関連する事件に巻き込まれ、名前も知らない女に階段から突き落とされる羽目になった。
運よく岡部が彼女を抱き留め、事なきを得たが、あれ以来、彼女に会っていない。
会ったのは紅蓮だけだ。
相良の様子を聞けば、紅蓮は軽く笑っただけだ。
「本当に伊織は相良さんが好きなんだねー」
感心したような声音は、はっきり言って莫迦にされているような気がする。
「そんなことはどうでもいい! また、俺の……」
「大丈夫だよ。岡部君がいて、無事でないはずがないだろう? というより、あれは、わざと巻き込まれたんだから、伊織が気にする必要はないよ」
「は? それは……」
一体、どういう意味だ?
「顔、近すぎる。あんまりにじり寄らないでほしいんだけど」
厭そうに顔を顰めるな!
聞かれたことに答えろ。
俺がそう言えば、溜息交じりに紅蓮は肩を竦める。
「学園の空気が悪くなっているのを気にしたんだろうね。手っ取り早く東條さんを退学にする口実を作ってくれたんだよ。それと、彼女が東雲に在籍するような状況を作り上げ、それを良しとした理事会を排除するためにね」
「理事会?」
「……君。ホント、興味がないことは一切無視してしまうよね。情報ぐらい、手に入れておくべきだと思うけれど?」
完全に呆れた口調だった。
これは、4年近く前に嫌味たらたら言われた記憶と重なる。
ものすごく、不機嫌なときにしか出ない癖だ。
「必要ないと判断した」
「それが、この結果?」
溜息を吐かれ、目を逸らされる。
「紅蓮!」
「決定的な証拠がない限り、例え校則に反することだろうが、理事会は50位落ちどころか最下位の東條さんをさらに在籍させるつもりだったんだよ」
「何だと!?」
「前途有望な学生の未来を摘むような非人道的なことをしてよいのか、なんて理由をつけてね。でも、殺人未遂なら、庇えないよね」
助かったよと、穏やかに笑う紅蓮。
「短絡的に殺人行為を罪とも思わず選び取るような者をはたしてどこまで庇えるのか。元々、一切の資格がない者を合格とし、事あるごとにあるはずのない権力を振りかざして強引に学園側に無理強いしてきた理事会に、今回の責任がないと言えるのかな?」
にこやかな笑顔は、何処までも相良を褒め称えている。
「次の理事会は、理事のメンバー一掃ってことになりそうだな」
「まさか、相良がそこまで計算しているとは……」
「しているのかしていないのか、問題はそこじゃない。彼女が動けば、結果が出る。だから、相良さんは普段、あれだけ動こうとはしないんだ。今回、動いたからにはどんな結果が出ても受け止めるつもりだと思ったんだろうね。見事な演出だったよ。岡部君の一言で、相良さんを害そうとしたのは東條さんだけでなく裏で理事会が絡んでいたとあの場にいた生徒たちにもちゃんと伝わったしね」
「はっ!? ちょっと待て!! それって……」
「経済界も顔ぶれが一新するね。閉塞感がなくなっていいかもしれない」
だんだん、紅蓮の本質の嘘臭い笑顔に変わってきている。
これは本気で感心しているんだな。
だが、相良がここまで考えて動いているなんてまったく想像してもいなかったぞ。
本当に手が届かないほど高みにいるやつだな。
「それより、準備は終わってるのかい? そろそろ出番だろう」
俺の姿を爪先から頭までじっくりと視線を這わせた紅蓮は肩をすくめる。
「もう、そんな時間か」
「主役だろ? しっかりしろよ。相良さんが来ないからって気を抜くと、誰かが絶対に彼女に伝えるよ」
楽しげな表情で扉の向こうに視線を向ける。
「招待客の中に、彼女と親しい人物がいないとは限らないんだからね」
その言葉に納得し、背筋を伸ばす。
相良が来ないのは、当たり前だ。
祖父が止めたからだ。
いや、そうしなくても、出席しないことは明白だ。
だからといって、気が抜けた態度を取るわけにはいかない。
俺は今日、諏訪家の当主となる。
今日以降、決して恥ずべき態度を取ることは許されない。
相良に認めてもらい、隣に立てるまで、俺は立ち止まらないと決めたのだから。
そろそろ時間だと告げられ、客を迎え入れるべくエントランスへと向かう。
そこから悪夢が始まるとも知らずに。
はっきり言って、パーティやそれらに類似するイベントは大嫌いだ。
仕事と割り切ってはいるが、好んで出席しようという人間の気がしれない。
値踏みされるような視線やなれなれしく触れてくる輩をどうして機嫌よく対峙できるのか。
今回ばかりは我慢しろと、偉大なる祖父殿に言われれば従うほかはない。
じじい、覚えてろよ。
本人に向かって言ってみたが、笑い飛ばされて終わりだった。
尽きることのない挨拶。
それでようやく17歳になったのだと実感する。
相良とは半年以上、そう、8ヶ月も年上だ。
その事実に、少しばかり、いや、かなり浮かれてしまう。
俺の方が年上か。
うん、悪くない。
今度会った時に、おめでとうと言ってもらえるだろうか。
プレゼントが欲しいとは思わない。
ただ、言葉を交わせることが嬉しい。
そういう気持ちがあることを、相良は知っているのだろうか。
多分、知っているだろう。
彼女は人に好かれるからな。
名字などではなく、名前で呼んでみたい。
名前を呼ぶことを許してほしい。
そう思いつつ、乾杯の前の挨拶をし、予定通り祖父が、いや、進行上では予定外であった諏訪家当主交代を宣言する。
突然のことにざわめきが大きくなる。
知っていたのか、それとも予感がしていたのか、父は落ち着いたままだ。
しかし母は狼狽えている。
「お義父さま! 伊織はまだ子供なのですよ!?」
「それが何かな? 斗織は健在だが、移動中の事故で早世することもありえた。子供だから当主は務まらないなど、あってはならんことだろう? 諏訪の家に生まれたのであれば、いつ、当主として立ってもおかしくはないと思うべきだがね。そのように教育するのが親の務めだ」
のんびりとした口調で祖父が母を封じる。
迂闊なことを言えば、親の務めを放棄していたことを自ら暴露することになるからだ。
そのくらいのことはわかったようで、母は表面上、穏やかな笑みを湛えて祖父の言葉に同意した。
「私もそうやって代替わりしたしな。ちゃんと後を継げるという自覚と実力があれば、何歳であってもかまわないだろう」
父が小さく頷く。
先代の意思に従うと告げた父の言葉で会場は和やかな空気を取り戻した。
いや、先程よりもお祝いムードが漂い、賑やかになり始める。
皆、気付いているのだろうか。
父は一度も社長業を辞するとは言っていない。当主を交代するだけだ。
つまり、現状は何も変わらないということを。
母から向けられる厳しい眼差し。
薄々気が付いていたが、母は俺に興味がない。
表面上は取り繕っているようだが、父の息子という価値しかないようだ。
父そっくりな容姿が唯一俺の美点であるような態度を見せることもある。
これは、両親と離れてわかったことだ。
今まで普通だと思っていたことは、まったく普通ではなく、他家の方々からかけられた言葉の方が事実だったのだ。
母にとって、当主ではなくなった父というのはどういう価値があるのだろうか。
所謂大財閥の次期当主であった父と結婚し、その後、当主の妻としてさまざまに活動し、今後、前当主の妻としてどうするつもりなのか。
現当主の母という役割は、彼女の中にはないだろう。それは明白だ。
相良を引き込み、思い通りに操ろうとして悉く失敗していることは俺でも知っている。
常々比較され、俺より優秀と誰もが評価する相良を相手に子供扱いしているから、そのような目に合うんだ。
相良は、あの『相良家』が一番大事にしている子供だ。俺たちのように普通の四族の未成年者であるわけがない。
以前は革新的な当主の妻と持て囃されていた母だが、今では愚かな女と見做されているのも当然だと思う。
大体、当主よりも前に出ようとする妻などいないだろう。
当主という頭がいるからこそ、それを引き立てるため、支えるための存在が必要になる。
当主よりも目立とうとする存在は必要ない。
当主の座を脅かすのは、前当主のみだというのに、母は何を考えている。
祖父はそれを心得ていて、父に当主の座を譲った後は表舞台から消えた。
そして、祖父が今回、俺の後見につくのは、先々代当主が支えるため今代は大丈夫だと周囲に知らせるためだ。
そう。そこに、先代である両親、特に母の存在は必要ないと言っているようなものだ。
今思えば、父は、母に甘いと思っていたその考えは間違っていたのかもしれない。
疑問を抱けば、湧いてくる疑惑。
父が母を傍においていたのは、監視に近かったのではないか。
問題がなければ放置、問題があるようであれば気を逸らす。
そこで重要視されていたのは、諏訪家の利益ではないようだ。
でなければ、俺がやらかした相良への失態の時に、俺も母も放逐されていてもおかしくはないはずだ。
父は、確かに俺を庇ってくれていた。
俺の間違った考えを言葉ではなく、現実を見せることで正そうとしたように。
母は、一体何のためにいる?
祖父は相良を可愛がっているが、母にそのような視線を向けたことは一度もない。
息子の嫁なら義理の娘で可愛いだろうに。
叔父の嫁には、相良に向けるのと同じような笑顔を浮かべているのに、母にはそんな表情を向けたことはない。
バーティの最中だというのに考え込んでいる俺の耳に騒ぎが飛び込んできた。
会場と外を隔てる扉の向こうからだ。
何が起こった!?
そちらへ顔を向けたとき、父の表情が視界に映った。
騒ぎが起こっているというのに、満足そうな笑顔だった。
徐々に騒ぎが大きくなり、扉が開くと男が飛び込んできた。
手にはナイフが握られている。
それを振り回し、周囲を威嚇している。
「死にたくなければ、ここから出て行けっ!!」
脅す声は、やけっぱちのようにも聞こえる。
あちこちで悲鳴が上がり、立ち竦む女性の姿が見えた。
「速やかに避難誘導を」
ちらりと男の背後を見た祖父が、落ち着いた様子で声を掛ける。
何故だろう。
何か、違和感を覚えた。
施設の警備関係者と思われる人々が、招待客を誘導して非難させる。
この場合、見届けなければならないのが、主催者の役目なのだが、あまりにもおかしい。
この程度のことを対処できずにホールへ乱入されるなんて、普通に考えてあり得ない。
わざと入れるように指示をしたのではないかと思える不審さ。
「……あー……」
俺は侵入者の顔を見て、思わず呆れたような声を上げた。
どこかで見たような顔と思えば、諏訪の顔に似せて整形した偽デザイナーじゃないか。
普段、祖父や父の顔を見慣れていれば、作られた顔の不自然さがよくわかる。
整形の良し悪しではなく、遺伝子情報からなる自然さと、それを捻じ曲げて作り上げた不自然さというべきか。
そんな違和感があの男にはある。
「おまえのせいだ! おまえが連れてきたあのガキのせいで、俺は……全部、おまえのせいだっ!!」
ナイフの切っ先を母に向け、男がわめく。
あのガキとは、相良のことか。
無礼だな。
本物を見慣れている相良には、紛い物はすぐに見分けがついただけだろう。
それを知らずに高をくくったやつが悪いに決まっている。
そして、それを人は自業自得と呼ぶ。
同情の余地もない。
男がこちらに刃を向けている間に、招待客の殆どが避難していった。
これで問題がなくなったと考えてもいいな。
余計なギャラリーがいなくなったと共に足枷もなくなったわけだ。
これで随分と動きやすくなる。
そう判断した時だった。
「……随分と質の悪い……律子。君の趣味がこの程度だったとは、失望したよ」
淡々とした父の声が割り込んできた。
「あなたっ!?」
「遊び相手にしても、質が悪い」
「ち、違うっ! わたくしは……っ!」
母が顔色を変え、首を横に振る。
ああ、そういうことか。
母はこの男と浮気をしていたのか。
確かに趣味が悪い。
母親に裏切られたという気持ちも湧かない。
俺は、幼い頃にすでに母に捨てられていたと薄々悟っていたのかもしれない。
父と見比べて格段に落ちる男を選ぶ母の気がしれないとは思うが。
「なにカッコつけてやがんだよ! ジブンのオンナ、寝取られて口惜しいか!?」
ゲラゲラと壊れたように笑う男。
穏やかな表情を浮かべる父。
実に対照的に見えるが、共にその笑顔に悪意が見える。
「寝取られるも何も、その女は私と薔子の子を産むための胎なだけであって、それ以上の価値はない。つまり、無意味な優越感というわけだな」
「あなた!?」
母、いや。母親だったと思っていた女性から、悲鳴に似た声が上がる。
「私が知らないと思っていたのか、律子? 君が私の妻に何をしたか。警察と違って、強引に調べる手などいくらでもあることくらい知っているだろう?」
「嘘よっ! 嘘! わたくしは知らないっ!! だって、あの時、日本にいなかった!!」
「日本にいないから、それが何の理由になる? 君がやったことすべて、すでに裏が取れている。薔子を死に追いやったその原因から方法、何もかも」
父の言葉に、俺はふと八雲様も言葉を思い出す。
諏訪家は男子2人が必要だ。
その子供は、正妻にしか生ませない。
薔子という名の女性が俺の母なら、もう1人、兄弟がいるはずだ。
母、律子には、子は俺1人だが、その俺が彼女の子でないというのなら条件から外れる。
つまり、正妻ではなかったということだ。
「知らないわっ!! わたくしは、何も……穢されて、妊娠して、自殺したのは薔子が弱かったからでしょ!!」
「何故、薔子の自殺の原因を知っている? 彼女の自殺の原因は、完全に秘匿されている」
「噂が……噂になっていたわ」
「残念だったな。そんな噂はない。表向き、彼女は病死だ。それに、妊娠していたのは、私の子だ」
「…………え?」
「DNA鑑定は当然している。薔子は死してなお、我が子の命を守ってくれた。薔子が発見された時、胎児はまだ生きていたのだよ」
その言葉に、母も俺も目を瞠った。
「薔子を死に追いやった律子、君を、私は決して赦しはしない。同じ目に合わせるなど、なまぬるい。薔子が手に入れるはずのものを君に渡すはずもないだろう? 君が屈辱と感じるすべてを君に与えることにした。まず手始めは、君が欲しがっていた私を与えないことから、だな」
くつくつと暗く笑う父に、俺も母も言葉を失う。
侵入者ですら呆気にとられて父を見つめている。
「妻の座は、薔子のものだ。長男はいるから、次男を産む胎として君を傍に置いた」
「まさか、そんな……どうやって……」
「どうやって? 簡単だろう? 生体バンクに必要なものは預けておくのは四族の成人の常識だ」
その言葉に、納得する。
成人となった時に、DNAや生殖機能に関するものを生体バンクに預けるのが、四族の義務であり常識だと学んでいる。
皮膚や骨などの細胞は、未成年でも預けるべきではないかという議論があるのも知っている。
これは、相良の事故を受けてのことで、まだそれが決定にはなっていない。
皮膚移植をすれば、相良の身体に残る傷の大半を消すことができるのに、皮膚を培養するための細胞をバンクに預けることができず、培養する時間も足りなかったことの反省を込めてという理由だと記憶している。
それとは別に、成人四族は、次代に血を繋ぐことが最重要課題だ。
それゆえ、必要な細胞が若くて元気なときにそれらを預けることになっているのだ。
父はそれを利用した。
人工授精し、それを母の胎内に着床させたのだろう。
これら一連のことは、麻酔をかけて眠らせてしまえばできないことはない。
現法律では代理母は認められないが、実は、特例はある。
その条件にあてはめられれば、申請し、許可が下りると問題ないのだ。
その特例というのが、卵子提供者の死亡というものだ。
薔子という女性に関しても、死亡届を出す前に婚姻届を出し、受理された後で死亡届を出せば彼女は法律上、父の妻となる。
申請書があり、それが受理されたという証拠があれば、俺は律子の胎から生まれようとも薔子の子供として戸籍上、記載されることが可能だ。
このことを母が知らなかったのも無理はない。
戸籍は、謄本だろうが抄本だろうが、母が直接手に入れようと手続きをすることはない。
秘書や弁護士あたりに手続きを頼んでしまえば、それで終わりだからだ。
そして彼らは、知り得た情報をたとえ本人であろうと口にすることはない。
母のことはどうでもいい。
今、気になるのは別のことだ。
先程、父は、兄が生きていたと言った。
それは、今も生きているという意味なのだろうか?
生きているとしたら、今、どこにいるのだろう。
そう言えば、すっかり忘れかけていたが、あの偽デザイナーは何をやっているのだろうか。
視線を巡らせれば、醜悪な表情を浮かべた男が視界に入る。
「……道理でおかしいと思った……」
ぼそりと呟く男に、俺は首を傾げる。
「子供を産んだ女が、あんなに……なわけねぇよな」
呟いた言葉の意味がわからない。
だが、男は何かを掴んだようだった。
「莫迦にしやがってと思ったが、こいつぁいいネタ掴んだ」
ニヤリと笑った男に、父が言う。
「残念だったな。ゆすりのネタにはならんよ。証拠を掴んだ時点で警察には届けている。伊織が薔子の二番目の息子だというのも隠してはいないからな、知っている者はいる。君は己の罪から逃れる術はない」
「何だと!?」
「無駄足だったな。律子を巻き込もうとしても、諏訪に痛手はない。我々は被害者だと堂々と言えるからな」
淡々と告げる父の言葉に顔色を変える男と、そして母だと思っていた女。
「薔子の長男はどこにいるのっ!?」
彼女もまた醜悪な表情を浮かべていた。
憎悪に染まったその表情は、華やかさの欠片もなく一気に老け込んだ感がする。
「……まだ、気付いていないのか? 愚かにもほどがある。何度も会っているだろうに……ああ、見たいものしか見ないという愚者の典型か」
何度も会っているという父の言葉に、俺はまさかと思った。
おそらくは、適度な距離感を保ちつつも、その成長過程を目にすることができる位置に置いていただろう。
該当するのは、ごくわずかだ。
父は親族の中でも信頼できる相手に預けたはずだ。
「…………珂織だ」
うっすらと微笑みながら告げる父の言葉に、ああやはりかと思う。
珂織は、誰もが本家の子供であればいいと言われてきた人間だ。
温厚で優秀。
しかも、父に面差しよく似ている。
当然だろう、父子なのだから。
幼い頃から珂織は俺を可愛がってくれて、わりと仲が良い親族でもある。
彼が兄と言われて、すぐに納得できるほどに。
「珂織!?」
「君が欲しがるものはすべて、手に入れることはないと知れ。もう、君が存在する理由もなければ、価値もない。だが、死ぬことは許さない。絶望の中で生きていけ。それが薔子を苦しめた君に似合いの人生だ。贖罪などは認めないがね」
「そこまで! そこまでわたくしをっ!!」
「……当然だろう? 君という存在が相良との軋轢を大きくした。余計なことしかしない君を諏訪はとっくの昔に見放している。それすら気づかず、当主夫人のつもりでいるのは滑稽だったが」
くっと声を上げ、皮肉気に笑う父の姿に、母だった女は悲鳴を上げて崩れ落ちた。
自分が思い描いたことがすべて虚構であったことに気付いたためか、愛されていると思っていた父にここまで疎まれていたという事実を突きつけられたことか。
祖父が母を無視していたのは、このせいだったのか。
息子の嫁は別の人間だと態度で示していただけなのだ。
「諏訪の当主夫人が聞いて呆れる。全然使えねぇな。まあ、いいや。どうせ律子は利用できるだけ利用したら捨てるつもりだったし」
男がおろしていたナイフをこちらに向ける。
「なあ。俺と手を組まね? 律子よりもアンタらの方が上手くやれそうだ」
誘いに見せかけた脅しなどに誰が頷くものか。
「残念だが、当主の座は息子に譲り渡した。私はもう前当主であって権限はないのだよ」
父が嫣然と微笑む。
「へえ」
「そう。俺が、今日より諏訪家の当主というわけだ。諏訪は神に仕える一族だ。現世のことなど、本来興味はない。つまり、貴様やそこの胎など、どうなろうが知ったことではないな」
俺に流された視線に、率直に答える。
相良にできて、俺にできないなど許されることではない。
決して、一族の当主が犯罪者と手を組むなどあってはならないことだ。
「……へぇ? おまえら殺して、俺が成り代わってやってもいいんだぜ? 同じ顔だし」
「当主としての知識がない者に、四族の当主が務まるか! 同じ顔などではない。誰がどう見ても似ても似つかぬ粗悪品でしかないがな」
この程度の挑発に乗るようであれば、本当に粗悪品でしかない。
「何だとっ!?」
ああ、乗ったか。
母だと思っていた女は、本当に見る目がない愚かな人間だということか。
ふと気づけば、祖父の姿がなかった。
そのことに、俺は微笑う。
あの人が実は一番、武術に長けている。
この場から立ち去るくらいわけないだろう。
そうして、いないということが、最悪の状況を免れたということだ。
静かに開けられたイベントホールの扉。
そこに武術を得意とする警備の人間、もしくは警察の人間が気配無く雪崩れ込んでくる。
それから先は、スローモーションだった。
俺が煽るだけ煽ったことで頭に血がのぼった男は、ナイフを振りかざし、俺に迫ってくる。
それを寸前のところで辛うじて避ける。
さすがに完璧に避けることができず、切り傷が増えていくが、これは仕方がない。
切られた場所は、痛いというよりもじんじんとした疼痛を伴い熱かった。
熱を持つというのは、こういうことなのかと実感する。
逃げるふりをしながら、男の注意を惹きつける。
広いホールの中で、警備の者たちがここへ駆けつけるまでの時間稼ぎをしなくてはいけないからだ。
幸いにも、当主の座を交代しても実権は父にある。
父か祖父が無事なら、諏訪は安泰だ。
ましてや俺には兄がいる。
万が一のことがあっても、後を継ぐ人間がいれば諏訪家は後世に血を残すことができる。
そう思えば、今、目の当たりにしていることはあまり現実味に欠けていた。
恐怖心とやらを感じないのだ。
脇腹辺りにナイフが埋まる。
ざしゅりという音と共に感じたのは熱のみで、やはり痛みは感じない。
この程度では死に至らないと、冷静に判断できる自分もいる。
「伊織!!」
俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
ああ、これは、父の声だ。
「邪魔をするなっ!!」
苛立たしげな男の声。
熱がさらに上がり、脇腹から何かが零れる。
俺の前にできた黒い壁。
否、父の背中だ。
「離せっ!!」
「おまえには、後悔してもらおう」
その後に続いた父の言葉は、生憎と聞こえなかった。
何故なら、醜い悲鳴がごきりという鈍い音共にすべての音を消し去ったからだ。
あれは、おそらく骨が砕けた音だ。
砕いたのが父なのか。
急速に暗くなる視界の中で、辛うじて見えたのは、蒼白になりながらも満足げな父の笑みだった。
念の為、書き添えますが、この世界は現代ではなくゲーム設定によく似た別の世界です。
当然、法律その他手続きは現代とは異なります。
世界が異なるのですから、当たり前の話ですが。