第一話 追放された修理師
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「リネア。お前、もうパーティを抜けてくれないか」
その言葉を聞いたとき、リネア・ギアライトは、最初、自分が何を言われているのか分からなかった。
王都グランベルの冒険者ギルド。
昼下がりの酒場は、依頼を終えた冒険者たちの笑い声と、木杯を打ち合わせる音で満ちている。
壁際には討伐依頼の羊皮紙が何枚も貼られ、受付の奥では職員たちが忙しなく報告書を仕分けていた。
その喧噪の中で、リネアだけが音を失っていた。
目の前にいるのは、故郷の村から一緒に出てきた幼馴染たちだった。
剣士のレオン。火魔導士のミーナ。神官のエリス。斥候のカイル。
五人で村を出た。
五人で冒険者になると誓った。
いつか王都で名を上げて、故郷に胸を張って帰ろうと笑い合った。
けれど今、レオンは申し訳なさそうな顔をしている。
ミーナは目を逸らしている。
エリスは祈るように指を組んでいる。
カイルだけが、面倒くさそうに椅子の背もたれへ体重を預けていた。
「……どうして?」
リネアはようやくそれだけを口にした。
答えに詰まったレオンの代わりに、カイルが鼻で笑う。
「どうしてって、分かるだろ。俺たちはもう銅級じゃない。今度から銀級依頼も受けられる。魔獣討伐も、護衛任務も、遺跡探索もある。なのにお前は何だ?修理師だぞ、修理師」
修理師。
その言葉が、胸の奥に小さく刺さった。
ジョブ覚醒の儀式で、リネアに授けられた職業。
壊れた道具を直し、欠けた刃を整え、歪んだ金具を戻す地味な職。
レオンは剣士に。
ミーナは火魔導士に。
エリスは神官に。
カイルは斥候に。
みんな、冒険者として分かりやすく役に立つジョブだった。
しかしリネアだけが違った。
「でも、武器の手入れはしてきたよ。鎧の留め具も、ミーナの杖の魔石台座も、エリスの聖印も……」
「それは助かってる」
レオンが苦しげに言った。
「助かってるけど、それだけなんだ」
それだけ。
リネアは唇を閉じた。
言い返したかった。
自分だって頑張っていると。
戦えなくても、みんなの役に立とうとしてきたと。
夜中まで武器を磨いて、破れた革帯を縫い直して、罠で歪んだ短剣を直して、誰よりも早く起きて荷物をまとめてきたと。
けれど、それは冒険者としての手柄にはならなかった。
魔獣を倒したのはレオン。
炎で群れを焼いたのはミーナ。
傷を癒やしたのはエリス。
罠を見抜いたのはカイル。
リネアが直した剣で戦ったことも、リネアが整えた鎧で命を拾ったことも、誰の目にも見えない。
「ごめん、リネア」
エリスが小さく言った。
「あなたのこと、嫌いになったわけじゃないの。でも、これから先は危険な依頼が増えるから」
優しい声だ。だからこそ、残酷だった。
「危険だから、私を守れないってこと?」
「違う」
レオンが即座に否定した。
けれどその後に続く言葉はなかった。
違わないのだと、リネアは悟った。
守る余裕がない。
分ける報酬が惜しい。
荷物を減らしたい。
もっと強い仲間がほしい。
その全部を、彼らは「危険だから」という言葉で包んでいるだけだった。
カイルが机の上に小さな革袋を置いた。
硬貨の音がした。
「今月分の取り分だ。あと、宿代三日分くらいは入ってる。俺たちも鬼じゃない」
鬼じゃない。
リネアはその革袋を見つめた。
たったそれだけで、五年間の約束が終わるのかと思った。
村を出た日の朝、みんなで交わした誓いも。
雨の中で一緒に逃げた夜も。
初めてゴブリンを倒して泣きながら笑った日も。
全部、革袋ひとつで終わるのかと思った。
「……分かった」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
レオンが顔を上げる。
「リネア」
「分かった。抜ける」
泣きたくはなかった。
ここで泣けば、本当に惨めになる気がした。
リネアは革袋を受け取らなかった。
代わりに、自分の工具鞄だけを掴んだ。
それは冒険用の荷物よりもずっと小さい。
使い込まれた革鞄。中には、父から譲られた古い工具と、自分で買い足したやすりや小槌、魔力測定用の細い針が入っている。
冒険者として得たものの中で、最後に残ったのはそれだけだった。
「お金はいい。今までありがとう」
そう言って、リネアは席を立った。
誰も引き止めなかった。
ギルドの扉を開けると、王都グランベルの空はよく晴れていた。
白い城壁の向こうで、魔導鐘が午後三時を告げている。大通りには馬車が行き交い、露店の呼び声が重なり、冒険者たちは今日も明日の栄光を語っていた。
リネアはその中を一人で歩いた。
泣かなかった。
走りもしなかった。
ただ、工具鞄の持ち手を強く握っていた。
その日、リネア・ギアライトは冒険者パーティ《暁の剣》から追放された。
そしてその三年後。
彼女は王都外縁部の職人街で、小さな修理店を営んでいた。
店の名は、ギアライト修理店。
看板は少し傾いている。
窓枠は古く、扉の蝶番は油を差してもすぐに鳴る。
店内に並ぶのは、冒険者が憧れる魔剣でも、貴族が持つ高価な魔道具でもない。
底の抜けた鍋。
欠けた包丁。
動かなくなった懐中時計。
火のつきにくいランタン。
子どもが壊した木馬。
農夫が持ち込んだ草刈り鎌。
リネアはそれらを直して暮らしていた。
夢見た冒険者としての活躍は、ついに訪れなかった。
危険な遺跡探索の依頼が舞い込むこともなかった。
修理師として冒険者パーティに誘われることもなかった。
かつての仲間たちが銀級から金級へ上がったという噂だけが、風のように店先を通り過ぎていった。
それでも、リネアは毎日店を開けた。
壊れたものを前にすると、どうしても放っておけなかったからだ。
「リネアちゃん、いるかい?」
その日の夕暮れ、扉の鈴が小さく鳴った。
顔を上げると、常連の老婆が立っていた。
名をマルタという。近くの路地裏で一人暮らしをしている、背の小さな老婆だった。
「マルタさん。いらっしゃい。時計なら、ちょうど直ったところです」
リネアは作業台の上から、小さな懐中時計を両手で持ち上げた。
銀の蓋には、若い男女の姿が刻まれている。
もう何十年も前に亡くなった夫の形見だと、マルタは言っていた。
歯車は摩耗し、芯棒は曲がり、魔力を受ける小さな水晶片には細いひびが入っていた。
普通の修理店なら、買い替えた方が安いと言っただろう。
けれどリネアは、そうしなかった。
部品を削り、歪みを戻し、ひび割れた水晶片に細い銀線を通して補強した。
新品には戻せない。けれど、もう一度時を刻ませることならできた。
マルタは震える手で時計を受け取った。
そしてゆっくりと蓋を開ける。
ち、ち、ち、と小さな音が店内に響いた。
老婆の目に、みるみる涙が浮かんだ。
「……動いてる」
「はい。少し遅れやすいので、三日に一度は巻き直してください。あと、水晶片は完全には戻せていないので、強い魔力の近くには置かない方がいいです」
「ありがとうねえ」
マルタは時計を胸に抱いた。
「本当に、ありがとう。あの人の声が、また聞こえるみたいだよ」
リネアは少し照れくさくなって、頬をかいた。
「そんな、大げさです」
「大げさなもんかい」
マルタは首を横に振った。
「壊れたものを、壊れたからって捨てない。あんたはそういう子だ」
その言葉に、リネアは何も返せなかった。
マルタは懐から布に包まれたものを取り出した。
古い鍵だった。
よく見ると、ただの鍵ではない。
黒ずんだ金属でできており、柄の部分には歯車と星を組み合わせたような紋様が刻まれている。
表面には薄い青い線が走っていて、まるで眠っている魔力が脈打っているようだった。
「これはね、うちの人が若い頃に持ち帰ったものだよ」
「鍵……ですか?」
「ああ。王都の北、旧街道の先に、誰も入れない遺跡があるだろう。封鎖されたまま、ギルドも調査を諦めた場所さ」
リネアは息を呑んだ。
王都北方未開拓遺跡。
冒険者たちの間では、そう呼ばれている。
入り口は見つかっている。
けれど扉が開かない。
魔法でも、爆薬でも、聖印でも開かない。
内部構造も不明。出土品もなし。危険度判定すらできず、今ではほとんど忘れられている遺跡だった。
「どうして、これを私に?」
「礼だよ」
マルタは静かに笑った。
「それに、あんたに持っていてほしいと思ったんだ」
「私に?」
「うちの人はね、死ぬ前に言っていた。あの遺跡は、力の強い者を待っているんじゃない。壊れたものを直せる者を待っているんだ、って」
リネアの指先が、鍵に触れた。
その瞬間、鍵の青い線が一度だけ淡く光った。
リネアは思わず手を引く。
「今……」
「やっぱりね」
マルタは驚かなかった。
「その鍵は、あんたを選んだんだよ」
そんなはずがない。
そう言おうとして、リネアは言葉を飲み込んだ。
選ばれたことなど、一度もなかった。
冒険者としても。
仲間としても。
修理師としても。
いつも、自分は残される側だった。
必要とされない側だった。
壊れたものを直しても、直した自分は誰にも見られなかった。
そのリネアの手の中で、古い鍵だけが静かに碧く光っている。
「リネアちゃん」
マルタが言った。
「あんた、店を畳むつもりだったろう」
リネアは黙った。
図星だったからだ。
家賃は二か月分滞納している。工具の手入れに使う魔鉱油も残り少ない。
依頼は減り、修理代をまけることばかり増えた。もうそろそろ限界だった。
故郷に帰ろうかと、何度も思った。
けれど帰ったところで、何と言えばいいのか分からなかった。
冒険者になれませんでした。
仲間に捨てられました。
王都でも駄目でした。
そんな報告を、父と母の墓前に持っていく勇気はなかった。
「最後に一度だけ、行っておいで」
マルタは優しく言った。
「それで駄目なら、帰ればいい。けれど、何もしないで諦めるには、あんたはまだ若すぎるよ」
リネアは鍵を見つめた。
正直怖かった。
遺跡探索など、もう何年もしていない。
戦う力もなければ、頼れる仲間もいない。
もし中に魔物がいれば、それだけで終わりだ。
それでも、胸の奥で何かが小さく鳴っていた。
ち、ち、ち。
直したばかりの時計の音に似ていた。
止まっていた時間が、もう一度動き出す音だった。
「……行きます」
リネアは鍵を握りしめた。
「私、行ってみます」
その夜、リネアは店の奥に古い外套と工具鞄を用意した。
護身用の短剣。小さなランタン。干し肉と水袋。魔力測定針。修理用の細工工具。包帯。古びた地図。
冒険者だった頃に使っていた装備は、ほとんど残っていない。
けれど工具だけは、今でも手元にあった。
翌朝。
王都グランベルの北門が開くと同時に、リネアは一人で旧街道へ向かった。
空は薄い灰色だった。
風は冷たく、草は朝露に濡れている。
遠くに見える森の奥、朽ちた石柱が並ぶ場所に、その遺跡は眠っていた。
誰にも期待されなかった修理師が、誰にも開けられなかった扉の前に立つ。
リネアは深く息を吸った。
そして、黒い鍵を差し込んだ。
扉の奥で、何百年も止まっていた歯車が、ゆっくりと回り始めた。
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