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ヒノクニ――静物

 夢を見ずに目覚める朝は、何だか味気ない。熟睡できていることは間違いないのに、大きく気合を入れないと寝床から起き上がれなかった。


――あの子がいなくなってしまってからは、尚の事だ


 洗面を済ませようと鏡の前に立つと、酷い寝癖のついた髪が目に入った。その奥でぶっきらぼうな寝起き顔を浮かべているのは、緑の瞳をした男だった。


――酷い顔だな


 寝起きはいつも良かったはずだ。就寝前に酒を飲んだわけでもない。靄がかかったように調子が上がらない気持ちを切り替えるために、洗面台の上に屈み込んで頭から冷水をかぶった。


「おはよう」


 リビングに行くと、ユウキ以外の全員が既にテーブルを囲んでいた。コーヒーとバターの香り。いつもの朝食の風景だった。

 ただ、そこについ最近までいたはずの少女の姿だけが見当たらない。


「ユウキ、俺今日のステージの前に用事ができた。打ち合わせまでに間に合うと思うけど、遅れるようだったら連絡するから」


 隣の席につくなりアミが声をかけてきた。ユウキは「わかった」と頷く。


「さっきエイマンくんから連絡があったぞ」


 今度はジロウだ。ユウキは彼の口から出た人物の名前に、思わず顔を上げる。


「何か分かったの?」


 期待を込めたことを隠そうともしないその視線に、ジロウはバツが悪そうに眉根を落とす。こんな表情をするユウキを、ここ一ヶ月の間に何度目にしたことだろう。その度に胸が締め付けられるような気分になるのだった。


「いや……。進展は相変わらずないみたいだな。今日もリリーのとこに調査に行くそうだから、お前も一緒にどうかって」

「行くよ」


 コーヒーカップを唇から離しながら、ユウキはただそう答えたのだった。



◆◆◆



「ユウキくん」


 廊下で紡久から声をかけられる。そろそろリリーの家へ出発しようと、玄関へ向かっていたところだった。

 紡久は日課のスケッチから戻ってきたところなのだろう。片手に画材道具を提げていた。そんな彼の反対の手で抱き抱えられている物を見て、ユウキは「あ」と声を出した。


「また見つかったの」

「梅の木の根元に。丁度木と木の影になるところで、半分くらい土に隠れてて目立たなかったんだ」


 紡久の手からユウキが両手で受け取ったそれは、クマのあみぐるみだった。白い毛糸で編まれていたはずのその全身は、泥にまみれてあちこち茶色に染まっていた。数日前の雨に打たれてしまったのだろう。水分を含んで、本来の重さよりもずっしりと湿っている。そんなクマの耳元には、このあみぐるみが完成した日にユウキが付けてやった硝子の鱗が光っていた。鱗にだけは汚れが着いていなくて、廊下の照明を浴び、そこだけ時間が止まっていないかのように煌めいている。

 クマは、ピクリとも動かない。


「土に隠れててって……こいつ一体、動きが止まる直前まで何してたんだろう」


 ユウキはクスリと笑ったが、その声が悲しげに響くのを紡久は苦い表情で受け止めた。


「他のあみぐるみと遊んでいたのかも。スケッチしてる時にたまに見かけてたんだ。土の中にちょっと体を隠して。かくれんぼだな、あれは。汚れたらちゃんと自分たちで洗って、乾かすところまでやってたんだよ。初めて見た時はびっくりした」


 その説明にユウキは更に笑みを浮かべたが、その目線が紡久の方を向くことはなかった。薄汚れて彼の手の上に横たわるだけのクマを、ずっと見つめているのだった。


「今きれいにしてやるからな」


 褐色の左右の手の中に、水が集まる。それは大きな水滴で、丸ごとあみぐるみを包み込んでしまう。そして数秒の後に弾けるように水分だけが消滅したかと思うと、ユウキの手を中心に柔らかな温風が生じ、傍らに立つ紡久の頬を撫でていった。


「見違えたね」

「こんなに白かったんだなぁ、お前」


 二人はしばらくの間、ただ動かないあみぐるみを見ていた。クマの顔に刺繍された口は大きな逆三角形で、二穴ボタンで垂れ目のように表現されたまん丸の目も相まって、微笑んでいるように見えた。魂が抜けてしまったかのように動かなくなったそれの、唯一以前と同じ様に生命を感じる箇所だった。


「他の仲間のところに連れて行ってやるよ」


 ユウキはクマにそう告げると、紡久に向かって「見つけてくれてありがとう」と微笑んだ。

 再び階段を登っていく長身のその背中を見送りながら、紡久はその場に佇んでいた。




◆◆◆




 自室に戻ってきたユウキは、真っ直ぐ部屋を横切って広縁に出た。

 日の当たるその場所には、柳で編まれた大きな行李(こうり)が蓋を開けて置かれており、その中に大小様々な大きさのあみぐるみの動物たちが収まっていた。ひっくり返した蓋の中にも鎮座しており、皆窓の方へ顔を向けている――――そのように入れてやったのはユウキだった。

 侑子が消えてから、ジロウの屋敷の中や庭のあちこちで、動かなくなったあみぐるみが次々発見されたのだ。リビングのソファの上、東屋の片隅、食品庫の中やノマやジロウのベッドの中など。

 どのあみぐるみたちも自由気ままに動き回って、彼らの日常を過ごしていたのだろう。そうと分かる様子のまま、ただ動きを止めた一つの静物と化していた。


「ほら、また仲間が見つかったぞ」


 同じ位の大きさのウサギとネコの間に、白いクマをいれてやろうとして、ユウキはふと手を止めた。そのクマのあみぐるみには、防視効果付のボタンが見当たらなかった。どこかで取れてしまったのだろうか。

 ユウキは無言でクマを凝視して、そして静かにため息をついた。唇を引き結び、クマを仲間たちの間に入れてやる。


――やっぱり見えない。ユーコちゃんの魔力


 ほんの一ヶ月前まで彼らから感じられた透明の魔力は、今はその名残すらユウキの目に映らなかった。 

 侑子が消えてしまったあの日に、一番はじめに見つけた倒れたあみぐるみを発見した後、ユウキは防視効果付のボタンをあみぐるみから外してみた。命を失ったように動かないあみぐるみから、侑子の魔力はすっかり消え失せてしまっていた。酷く狼狽したものだ。その時と同様、この白いクマから侑子の気配を感じることはかなわなかった。

 それはこの世に侑子が存在していないことの証明のようで、ユウキの心を凍りつかせる。

 涙すら出なかった。泣くとはどういう感情なのか。そんなことが分からなくなるほどの喪失感がこの世に存在していることに、ユウキは初めて気づいてしまったのだった。

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