トコヨノクニ――帰還
一瞬だけの幻覚かと思った。
リリーの部屋に入ることは今までも何回かあって、その度に侑子は考えたものだ。
――このドアを抜けたら、自分の部屋に戻っているんじゃないか
そんな妄想は毎度のことだ。無理もないと思う。自分はこのドアからヒノクニへやってきたのだから。
だから、今回もいつもの無意識の妄想だと思った。少し妄想が過ぎて、本当に目の前に以前自分が暮らしていた部屋の光景が映し出されたのだと。これは自分の心の奥の記憶を、脳が見せている錯覚なのだと考えたのだ。
しかし、錯覚でも幻覚でもなさそうだ。
侑子がそのことに気づくのに、あまり時間はかからなかった。
「私……」
一歩踏み出すと、フローリングの床に敷いた丸いピンクのラグの感触があった。更に数歩前へ進むと、パイン材のシングルベッドの足にぶつかる。ベッドの上の布団は綺麗に整えられていて、敷布団の上には見慣れたぬいぐるみたちが横たわっている。クマやうさぎのプラスチックの瞳が、侑子のことを不思議そうに見つめていた。
「まさかね」
左手をベッドの上に伸ばして、侑子ははっとする。手首についているのは、銀糸で編んだブレスレット。とんぼ玉状の透証が目に入った。紐先の六つの硝子の鱗が揺れながら燦めいて、困惑した思考を正気に引き戻していた。
途端にブルブルと身震いが止まらなくなる。左腕のブレスレットを右手でぎゅっと胸に押し付け、口で呼吸を繰り返した。
「こんなことって――ある?」
呟いた声は夢の中とは違う。現実のものとして侑子自身の耳がとらえた。
「戻ってきたの……?」
その呟きと同時に、侑子の背後で息を呑む誰かの声が聞こえた。心臓が止まりそうになった。
「侑子?」
振り返った侑子は、驚愕という二文字をそのまま顔に貼り付けたような表情で立ち尽くす、兄の姿を見たのだった。




