ドアのこちら側
ソウイチロウはこちらに背を向けて正座するミネコを、ただ見守っていた。
狭く、物の少ない空間だった。外とその部屋を区切るのは張りのある平織り生地で、それを支える支柱は歪みのない金属棒だった。その棒の先が鋭く尖り、地面に深く突き立っていることをソウイチロウは知っている。彼自身もこの空間――既に数ヶ月をそのテント式住居で過ごしている――作りに携わったのだから。普通の部屋の大きさにして六畳ほどだろうか。
広くないそのテント部屋の南端に向かって、ミネコは一心に何かを唱えていた。独り言を呟いているようにしか見えないが、その言葉は誰かと会話する者が発する丁寧語だった。
ミネコの会話相手は、彼女の手前の小さな絹布の切れ端の上に置かれている。その上には更に一枚の絹の切れ端がかけられているので、ソウイチロウが色や形を目視することはできなかった。
「ソウイチロウ」
部屋の戸口、その向こう側から名前を呼ばれて立ち上がった。
「ちょっと行ってくるな」
ミネコの背中に声をかけると、彼女が片手を上げて応じた。彼女の言葉は途切れることなく紡がれていたが、それはソウイチロウに対するものではない。しかしちっとも気に病むことなく、彼は立ち上がって外へと出ていった。それは彼ら夫婦にとって、よくある日常の一コマなのだ。
一人きりになってしばらく経つと、ミネコはようやく唇を閉ざした。人の声が止まったその空間に、彼女は風の音、外から聞こえてくる鳥の鳴き声、せせらぎの音など――数々の気配を感じ取っていた。一つ一つの気配に意識を向け、やがて静かな深呼吸とともに目の前のものに視線を集中させる。
「……どれくらい?」
再び唇から滑り出したミネコの言葉は、疑問形だった。
「どれくらいもつのかしら。私たちが残してきた力の名残は」
彼女の問いかけに、目の前の会話相手は無言だった。小さな小さな絹布の下で、白い光が瞬いた。
「あの子は元気かしら。火傷はすぐに治ったかしらね」
その言葉を最後に、ミネコはそれを大切そうに絹布ごと手の中に掬い取る。小さな子猫でも抱きしめるように、その温もりを確かめるように、胸にぎゅっと押し当てた。
◆◆◆
「あぁ、これは。線がどこかイカれてるんですよ。あまり使ってないでしょ? 他の部屋」
リリーの家の魔石ソケットは、主寝室から繋がる屋根裏にあった。
かつて両親が使っていたその部屋は、現在の家主であるリリーも魔石を交換する時にしか訪れない。たまに覗くだけの屋根裏は常に埃っぽく、マスクをするなりしないと後々面倒なことになるのだった。ソケットから伸びる複数の線に手を翳しているアミも、ご多分に漏れず手ぬぐいで口元を隠していた。
「そうね。自分の部屋と台所、お風呂くらいしか使わないわ。空調は自室だけ」
「劣化しちゃったんですよ、きっと。日常的に流れる魔力がないと、配線も劣化が早いんだ」
「そっかぁ。見てくれて助かったわ。ありがとう。業者に頼むしかないわね」
二人は全身の埃を払い落としながら、主寝室を後にした。
アミがリリーの屋敷に到着後、紡久も連れて三人で居間へと移動した。しかし空調をつけようとして、全く反応がない。故障を疑い、アミを伴って魔石ソケットを確認していたのだった。
「使わない部屋への配線を抜いてしまうのも手ですよ。そんなに難しい作業じゃない。それか、あなた一人だけなら別の場所に引っ越してもいいのでは? 屋敷や庭の手入れなら、外注でなんとかなるでしょう。ここは街に出るまで少し時間もかかるし」
アミの提案にリリーはしばらく沈黙した後、首を振った。
「考えたことあったけどね。もう慣れちゃったし、今更なのよ」
笑いながら軽い調子で答える一方、脳裏に浮かぶのは、年末に再会した兄の言葉だった。
『家を守ってくれ』
『壊れることがないように……災害で最悪壁が倒れても床が抜けても、どこか戸の一枚だけはきちんと立っているように保持しておいて欲しいんだ』
『戸、扉。どこの部屋のでも構わない……とにかく頼む。建物を守ってくれ』
――あれはどういう意味なのかしら。もう少し教えてくれたって良かったのに
兄とのあの再会の顛末は、約束通り誰にも話していない。五年もの間突然自分だけを置いて消えてしまっている家族相手に、律儀なものだとリリーは自分自身に感心する。
「仕方ないわ。三人じゃ狭いけど、私の部屋に行きましょう。冷房効かない部屋で待ってるよりマシでしょう?」
居間でうちわを片手に待っていた紡久に声をかけると、リリーは来客二人を伴って自室へと引き返していった。
◆◆◆
侑子とユウキの二人がリリーの家に到着した時、門の前には見慣れた車ともう一台、大きなワゴン車が停車しているところだった。
「エイマンさん。こんにちは」
「やあ。君たちも丁度着いたところだったんだね」
運転席から降りてきたエイマンに挨拶する。助手席からはラウトが、そして後方に停車した車から数人の男女が降車してきた。彼らは政府関係の仕事をしている人で、今回の墓参りに同行するのだ。
お互いに簡単な自己紹介を交わして、ユウキが呼び鈴を押した。しかし、いつものようにチャイムが鳴る音は聞こえない。
「どうしたんだろう。壊れてるのかな? 呼んできますね」
ユウキと侑子の二人は玄関で靴を脱ぎ、勝手知ったる廊下を通ってリリーの自室へと足を運んだ。
◆◆◆
「来たみたい。行きましょうか」
透証のユウキの呼び出しに気づいて、バッグに荷物をまとめながらリリーは立ち上がった。紡久の学生服を手渡してやる。
「ごちそうさまでした」
アミは三人分の麦茶入のグラスを盆にまとめ、小さなテーブルを軽く拭き清めた。部屋のドアがノックされ、外側からユウキと侑子の二つの声が聞こえてくる。
「リリーさん、今日もよろしく――」
ドアノブを押したのは侑子だったのだろう。
部屋の内側に向かって開かれたドアの向こう側に、紡久は確かに今朝会ったばかりの侑子の姿を見たのだから。
赤いリボンのセーラー服。三つ編みお下げの黒髪――その髪型にするのは、久しぶりだと聞いた。
侑子のすぐ後ろにユウキが立っていて、彼の表情の変化が、紡久からはよく分かった。親しい人に会う時の、普段のユウキらしい柔らかい表情――――それが困惑へ、そして驚きへ、最終的には恐怖に歪んだ。緑の瞳が大きく見開かれ、口元が一度だけピクリと大きく震えたのが分かった――その表情は、侑子が立っていれば紡久からは見えないはずだった。ユウキのTシャツに描かれた幾何学模様が、目に飛び込んでくる。
侑子の姿が、忽然と消えていた。
(第一章 終)
第一章の扉を、ここまで共に開いてくださって、ありがとうございます。
夢と現のあわいに漂う侑子の足音が、誰かの記憶と響き合いますように。
次章では、静けさの中に微かなざわめきが生まれます。
引き続きお付き合いいただけると幸いです。




