紡久
気づいたら真っ白な部屋のベッドの上だった。エタノールのような香りが漂っていて、病室を彷彿とさせる空間だ。清潔な寝具は寝心地が良く、雲のような柔らかさだった。繰り返される微睡みの中で、そこが現実であろうが夢の中であろうが、構わないと思った。
手足を動かしてみると、自分の身体が確かに確認できた。なぜか素足だし、見慣れない白い寝間着のような服を身に着けてはいたけれど。
そして左腕には、透明なアクリルを削り出したようなバングルが嵌っている。これも見覚えがない。手をすぼめても外すことが出来ない具合になっている。
――なんだこれ? どうやって取り付けたんだ?
バングルをぐるぐると回しているうちに、意識がはっきりしてきた。どうやらここは、夢の世界ではなく現実であるらしい。
そんな時だ――腕に嵌った透明なバングルが薄く光り、何か鈴の音のような音を発し始めた。びっくりして思わず「わっ」と声を上げると、ピタリとその音が止んだ。そして間を開けずにして、その部屋のドアが開いた。
紡久はその時になって初めて、そこにドアがあったのだと気づいたのだった。
◆◆◆
紡久が今いる国の名前は、ヒノクニといって、自分はトコヨノクニからやってきた人間だそうだ。そういう人は珍しいけれど、前代未聞ではないという。
そしてこれから、紡久は自分同様トコヨノクニからやってきた人と対面することになるのだ。
病室を訪ねてきたエイマンという外国人風の名の男は、まるで御伽噺のような説明を繰り返した。彼の隣にいたリリーという女も時折補足するように言葉を紡いだが、奇抜な外見のせいで紡久の頭には殆ど内容が入ってこない。
ただなんとなく相槌を繰り返している間に、彼はエイマンに連れられて何やら長い距離を移動し、大きな屋敷の門をくぐっていたのだった。
◆◆◆
「本当にあの子、ユーコちゃんと同じ世界からやってきたんだよね?」
一度退室したジロウが、エイマンを廊下の端まで引っ張って行きながら小声で訊ねる。
「そうですよ……まぁ、来たばかりの頃のユーコさんより、落ち着きすぎてるというか。受け入れすぎているというか。そういうところはありますが。間違いないです。私は彼の魔力も見ましたから」
「ああ。そうか。透明な魔力な。それが一番の証拠か」
エイマンの言葉に、腑に落ちたとジロウは頷いた。
「彼は何歳だって?」
「十五歳です」
「ユーコちゃんと同じくらいか……トコヨノクニからやってくる人っていうのは、子供ばかりなのか?」
「さあ……そういうわけではないと思いますけどね。父の友人はこちらにやってきた時には成人していたそうですから。彼らの国での成人って、二十歳ですよ」
「ふうん。まあ何歳でも突然勝手が分からない世界に放り込まれちゃ、たまったもんじゃないだろうけどな。子供なら尚更だろう」
ジロウはふうと一つ息をつくと、エイマンに既に決定事項であるような調子で提案する。
「ここには既にユーコちゃんもいることだし。どうだろう。あの子もこの屋敷で俺が面倒見るってのは」
エイマンはふっと笑いながら頷いた。
「元よりそのつもりでした。リリーも彼を発見した神社関係者も、その方がいいだろうと。しかしただでさえ歳納のこの時期、手いっぱいではないでしょうか? そこだけ気がかりだったのです」
「そんな事気にするなよ。年末年始をここで過ごすのは、毎年大体同じ顔ぶれだ。家事も食事もセルフサービスみたいなものなんだし、俺とノマさんも慣れてる。ユーコちゃんも、もはやお客様ではないしな」
ジロウの言葉に、エイマンの笑みが慈愛を帯びたものに変わった。
「ユーコさんは、お客様ではないんですか?」
「そうだよ」
エイマンが何を思ってそんな表情になったのか、ジロウは分かっていた。二カっと白い歯を出して、彼は頷いてみせる。
「ユーコちゃんは家族だ」
◆◆◆
侑子は緊張した面持ちで、紡久と対面していた。
二重瞼がぱっちりと開かれたまま、瞬きを忘れたように、紡久をまっすぐ見つめている。そんな侑子の長い髪は黒髪で、目の色も黒よりだ。その色だけで、紡久は侑子が自分と同じなのだと分かった。この場所に来てから、妙な色をした人しか見てこなかったためだ。
「はじめまして」
怯えている、とも取れる表情だった。しかし声に出されたその言葉は、思いのほか大きく、はっきりと聞こえた。迷いない動きでお辞儀をされて、紡久も慌ててそれに倣った。
「どうも……」
「五十嵐侑子です」
「杉田紡久です」
しばらく沈黙が流れて、その間に紡久は侑子と共に部屋に入ってきた人物二人に、目を走らせた。
――やっぱり派手な色だ……片方の人は灰色? 銀色か? もう一人は紫……目の色も。何でなんだ?
こんなにカラフル。そしてこれまでの道中で行き交った人々の中には、奇抜な格好をしている人が沢山いた。しかし誰一人そんな人々を不自然と感じていなさそうだったのだ。そして肌の色も様々。いろいろな人種が混ざったような外見の人々が混在しているのに、話し言葉は日本語。表記も日本語。余計に頭が混乱してくる。
そんな中、目の前の侑子だけが間違いなく自分と同質の存在であることが、すんなり理解できる。身につけているのは着物だし、その色柄もやけにカラフルでおかしいのだが。
――この子だけは同じだ
仲間だと直感で分かった。
「学ラン」
突然彼女が口にした単語に、拍子抜けする。
「制服を着ていたんですか? こっちにやって来た時」
「うん」
彼女が口に出した単語に、思わず声が上ずった。学ラン。その単語を知っているのか。もう本当に間違いない。
――この子は俺と同じ世界を知っているんだ
「私もこっちに来た時、セーラー服でした。夏服だったけど」
「そうなんだ」
ふっと笑い声が漏れて、侑子が笑顔になる。つられて紡久も頬のあたりが脱力した。
「本当に同じ世界から来たんだ」
そう言いながら侑子の顔が歪んだので紡久がびっくりすると、彼女は泣くのをこらえるように小さく鼻をすすっていた。




