鎧の外側
ユウキと二人連れ立って街の中を散歩するのは、侑子の日課だった。早朝だったり昼間だったり、時には夕食後のこともあったが、二人は時間を見つけては必ず日に一度は散歩に出かける。遊園地の中を縦横無尽に歩き回って遊んだ夢の記憶と重なって、二人の歩みは自然と弾むように楽しげになるのだった。
しかしこの日の侑子は、どうしても足取りが重たいままだった。エイマンから聞いた一連の話が、ずっと頭から離れない。
――金のバッジをつけた、たくさんの人の顔。こちらに向かって親しげに笑う人々
侑子と同じ世界を知っている人たち。写真に写っていた彼らの多くが、あの事件で命を落としたのだという。
そして、その事件の後も国の中では争いが燻り続け、五年前には平空政争と呼ばれる大きな争いにまで発展した。どこに目を向けても、平和な日常の時間しか流れていないように見えるヒノクニ。しかしこの国は、ほんの数年前まで争いの中にあったのだ。
――今私が踏みしめる地面に、誰かの血や涙が散ったのかもしれない。耳に入る人々の日常の喧騒は、悲鳴や慟哭だったのかもしれない
そんな想像で頭がいっぱいになってしまう。
「ユーコちゃん。大丈夫?」
足を止めたユウキが、覗き込んできた。今日のことをかいつまんで話していた侑子は、続きをどういう言葉で説明しようかと考えて、沈黙していたのだ。侑子の説明は、研究施設への来訪者解放事件で多くの来訪者が犠牲になったところで途切れていた。
「この公園、覚えてる? ちょっとそこで座っていこうよ」
ユウキが示したのは、侑子が初めて変身館で歌う彼を見た夜、二人で話をした小さな公園だった。侑子とユウキは、あの日と同じように、丸太の遊具の上に並んで腰を下ろした。
「エイマンさんはきっと、今日ユーコちゃんに説明するために色々準備したんだろうね。お父さんに当時のことを突っ込んで質問しただろうなぁ。……知らなかったよ。トコヨノクニからやってきた人が、そんなにたくさんいただなんて」
「ジロウさんも同じこと言ってた」
侑子の左腕には銀のブレスレットが光っていた。二人の視線は自然とその魔道具へ注がれた。
「それにしても酷い皮肉だ。彼らを護るための道具だったはずなのに」
金のバッジのことだろう。ユウキの表情は険しく、その指先がブレスレットに触れる。
「……政権が変わったからって、政治家なんて信用できない。あの政争は空彩党の人間だけが起こしたものじゃない。今この国の政治を動かしている平彩党の人間だって、大勢あの争いに関わっていたんだ」
ほんの一瞬侑子を捉えたユウキの視線は、真っ直ぐ前へ向いた。その声は、侑子が久しぶりに耳にする魔法を使った声だった。
「この才」
その声は侑子のものだった。確かに自分の声だと分かるのに、普段は内側から聞いているため、どこか違って聞こえる。
「珍しいんだ。才と呼ばれる魔法はどれも珍しいものだけど、人間の肉体や身体の組織を意図的に変化させる種類の才は、特に珍しいと言われてる。一般的な魔法では再現するのが難しいから。俺の才は、人の身体の機能の一つである声を、自在に他人のものへ変えられる。誰が名付けたのか知らないけど、『玉虫色の声』って呼ばれる才なんだよ」
説明の途中から、声はユウキ自身のものへ戻っていた。薄く笑ったその表情には、どこか冷めたような哀しさが浮かんでいる。
「五年前の政争のさなか、俺の才の噂を聞きつけた連中が、何人も協力を求めてきた。その時の俺は、今のユーコちゃんと同じくらいだよ? そんな子供に平然と『諜報活動に参加しないか』って誘いをかけてくるんだ」
「諜報活動……」
「声を他人に変えられるんだ。そりゃあ利用できる場面は多いだろうね。当時の俺にだって簡単に想像できた。空彩党のやつらも、奴らに敵対してた側のやつらもいた。他にも、政争を仲裁するためだって言うやつらもいた。全部ジロウさんが追い払ってくれたけど」
ジロウが『子供相手になんて話を持ちかけやがる!』と怒鳴り散らした話をした時だけ、ユウキは優しい表情に戻った。
「政争がなんとか収束を迎えた後も、度々誘いが来た。今年は学校を卒業する年だったから、なおさら多かったね。王府からも来たよ。うちの職員にならないかって。しかも、どれもかなり条件が良いんだ。給料だって申し分ない。けど全部断った」
淡々と語るユウキの口調は落ち着いていて、表情から読み取れる感情もほとんどなかった。時折侑子のブレスレットに目を落としながら、彼の言葉は続く。
「ユーコちゃんはよく知ってるだろう。俺がそもそも才を使うことに、良い感情を持っていなかったこと。それなのに、そんな魔法を使うことを生業にしてしまったら、きっと俺はおかしくなる。だから才を使う仕事に就くつもりはないんだ。ましてや政治に関わるなんて、まっぴらごめんだ」
夜の公園には深まった秋の空気が立ち込めており、わずかに肌寒い。前回この場所に座った時は夏だった。季節が移ろったことを侑子に感じさせた。
「……あの政争で、この街はあまり被害を受けなかった。王都が戦場になることはなかったから。だけど皆、誰もが心を痛めた。無関係でいられた人間なんて、きっと一人もいない。ノマさんは家族を亡くしているし、リリーの家族は今も行方不明。ジロウさんも変身館の営業がずっとできないでいた」
侑子は、どんな言葉を発して良いものかすっかり分からなくなってしまった。ノマとリリーという身近な人たちが味わった悲惨な出来事を、今まで知りもしなかった。そのことへの罪悪感と羞恥心が、胸の奥で疼くのをただ感じていた。
「毎日誰かが近くで泣いていて、ニュースでは何人死んだって一日中報道してる。そんな日々が、終わりも見えずに続いていた。なのに時々、俺の才をぜひ有効利用させてくれって連中が、ニコニコしながらやってくる。嫌になるんだ……絶対に、俺は、こんな争いに俺たちを巻き込んだやつらのために働かない。そんな気持ちばかり強くなった」
唐突にぎゅっと手を握られて、侑子はユウキを見た。街灯の光の下では、緑の瞳は暗く、色がよく分からない。
「利用させない。俺のこの声も、君も」
ふつふつと湧き上がる怒りを抑えた声だった。ユウキのこの顔と声の調子に、侑子は覚えがあった。この公園に前回来たあの夜も、彼はこんな表情でステージに立っていたのだ。
「ユーコちゃんが魔法を使えるようになった夜に、すぐに駆けつけてあげることができなかった。あんなふうに遅れを取らないように気をつけるから。だから少しでも変なことに巻き込まれそうになったら、すぐに俺を呼んで」
握った手と真剣な声はそのままに、ユウキの顔が曇った。侑子は慌てて頷いて、「約束する」と言った。吸い込んだ空気はとても冷たかった。
「ごめん」
手を離したユウキが、ようやく相好を崩し、少しだけ気まずそうに笑った。
「五年前のことを思い出すと、腹が立ってくるんだ。俺は母親とはずっと縁が切れてて、身近な大切な人たちは皆無事だったけど、その人たちの大切な人や家族は、死んでしまったり酷い目に遭ったりしてた。ただ悲しんでいる彼らを見ていることしかできなかった。その上、大嫌いな才を使って、あの争いに加担するくらいしか自分にできることはないように思えた。悲しむ人に寄り添いたかったけど、そうする資格が自分にあるのか自信がなくて、そんな自分が腹立たしかった。そんな自分に仕立てている、この才が憎かった」
おもむろに宙へ何かを描くように両手を動かしたユウキの顔を、光の粒が明るく照らした。その表情が、いつものユウキの優しい顔であると侑子が認めるのと同時に、粒は弾け飛ぶ。彼の手の中に、白い布がふんわりと落ちてきた。
魔法であっという間に現れたそれをユウキが大きく広げると、温かそうな毛織物であることが分かる。ショールにちょうど良さそうな大きさの布を侑子の肩に羽織らせると、ユウキは再び口を開いた。
「ユーコちゃんはトコヨノクニからやってきた人。この国にとって、それだけで特別な存在であるのは確かだよ。だけどそれ以前に、俺にとって君は、ずっと同じ夢を共有してきた大切な人だ」
白い布は柔らかく、繊細な布目の間で温められた空気が、優しい熱で侑子を包み込んでいる。見上げたユウキの顔にも、この柔らかな熱が伝わればいいのにと侑子は思った。
「そんな君を利用されてたまるか。政治家も、国も、王さえも。俺は信用できない」
そこまで言ってから、ユウキは自嘲するように呟いた。
「……俺だって、自分の願望のために君が来たんじゃないかって思わないでもなかったけどね。でも、ユーコちゃんが楽しそうに笑って、この場所で暮らしていけるなら、それが一番良いって思うんだ。そのためにできることがあるのなら、なんだってしてあげたい」
「ユウキちゃん」
丸太から立ち上がり、向き合うようにして侑子は口を開いた。
「私、ユウキちゃんのことをこの世界で一番信頼してる。本当だよ。だってユウキちゃんは、ずっと前から本当の私を知っていたんだから」
今度は侑子の方から、ユウキの手を取った。自分の手よりもずっと大きなその手を、侑子の両手では包み込むことができない。それでもぎゅっと両手で握り、自分のぬくもりがユウキの冷たい手にも伝わるように力を込めた。
「ユウキちゃんに会えなかったら、この世界のことをこんなに好きになってなかった。だってユウキちゃんが歌おうって言ってくれたから、歌えるようになった。歌えるようになったから、毎日がこんなに楽しいんだもん」
以前の世界での自分よりも、今の自分の方が色々なことを無理していない。侑子はそう感じていた。
兄と二人で家庭を回していく自分。親戚の中で手のかからないいい子でいる自分。学校の中で程よくやり過ごす自分。そのどれもが、今のこの世界には必要のないものだった。
以前ユウキは、自分の才のことを『便利な鎧』と呼んだ。侑子にとっての、かつての他人のための自分も、きっと鎧だったのだ。
身体の内に流れる魔力を外へ放出させたのと呼応するように、内側に隠れてきた本来の自分も表へ出てきた。侑子はそう確信していた。
「ありがとう」
二人の声が重なって、思わず笑い出す。
立ち上がったユウキが横に並ぶと、薄暗い夜の闇の中で、侑子はあの夢の景色とそっくりだと思った。
「どうせこの才を使って金を稼ぐのなら、ついでに誰かを……できれば街中で普通に生活している人たちを、手っ取り早く笑顔にできることがいい。そう考えて曲芸をすることを思いついたんだ。小さい頃にジロウさんが連れて行ってくれたサーカスを思い出したんだよ。マリオネットを操って、歌や踊りを見せる芸人がいてさ。すごく印象に残ってた。歌うことは好きだったし、あれなら俺の才も活かせるかもって思ったんだ」
公園を後にして、再び歩き出しながらユウキは続けた。
「……まあ結局、才の歌声が称賛されればされるほど、苦しくなっちゃったわけだけど。だけど、そんな苦しみからも、もうすぐ解放されるのかな」
明日は噴水広場で歌う日だった。ユウキが素の歌声だけで歌うと決めた日。侑子も隣で歌うと決めていた。提案された時の自分からは考えられないことだったが、侑子はあの広場でユウキと並んで歌う自分の姿を、とても鮮明に想像できる。
「私も一緒に歌いたい」
頭上には星空が広がっている。瞬く星の光と月明かりに照らされた道を進みながら、侑子は確信を胸に抱いた。
「一緒に歌ったら、きっととても楽しいよ」




