参拝客
◇◇◇
「扉が開きました。カギは既にそこにはありません。しかし扉が開いた場所、それは彼女の嫁ぎ先の家屋でした」
その知らせをもたらしてきたのは、参拝客の男だった。四十を超えたオリトよりも下の世代に見えたが、動作に何一つ無駄がなく隙がない。逆に不気味な印象を受けた。あからさまに驚愕の色を浮かべたオリトを見ても、その男の表情は変わらない。柔和なその顔つきからは不釣り合いに骨ばった手が大きく、男性的だと感じさせただけだった。
「良い社ですね。古い時代の建立だと分かります。本当に良い場所だ―――結界に緩みもない。あなたの腕が良いのでしょう」
彼が口にしたその言葉を聞いて、オリトは「ああ」と合点がいった。
境内に張り巡らせてある結界について言及する者は、限られている。ここがカギを守る特別な聖域だという、機密事項を知る者だけなのだ。
「王府の方ですか」
頷いた男は、僅かに微笑んだようだった。
「申し遅れました。私はモノベ・タカオミと申します。今日はあなたに、カギに関する情報と、王からの言伝を預かって参りました」
――王から?
緊張が走った。全身が硬直する前に、オリトはタカオミを本殿へと誘った。そこは屋外よりも更に強く結界が張られた場所なのだ。これから聞かされる話は、その場所で耳にするべきだろう。オリトはそう考えたのだった――そしてそんな自分の判断は間違いではなかったと確信するのは、すぐだった。
そこでオリトが得た情報は、カギやその働きについて既に知識を持っていた彼でさえも、驚くに値するものばかりだったのだから。
◇◇◆
「まずは動きのない事項の確認からいたしましょう。タイラ・ミネコさんと夫のソウイチロウさん、長男マサオさんの行方は、依然不明のまま。我々も手を尽くしていますが、気配すら掴めません」
「王府の捜索が入っても、足取りがつかめないものなのですか」
「面目ありません。しかし守役の彼女たちが我々から意図的に遠ざかるとは考えにくい。逆に王府とは何らかの形で連絡をとりたいはず。しかし何の音沙汰もないというのは、妨害されているのでしょう」
何のためらいもなくタカオミはさらりと口にしたが、その内容にオリトは動揺する。
「妨害? それはどういう意味です」
「カギを王に渡したくない一派がいるということですよ。悪用するつもりでいる」
「そんな――だって、それでは……」
オリトは動揺のあまり、うまく言葉を組み立てることが出来なかった。しかしタカオミの方は、オリトが何を言いたかったのか分かっている様子だった。
「カギがどういう神器なのか、一昔前まではごく一部の限られた者しか知り得なかったことですね。それ以外の者たちの知るところになってしまったということです」
――カギの働き
それはこの世とは別の時空に存在する、もう一つの世とを繋ぐ扉を開くことである。ヒノクニには時折、別の世から来訪する者が現れる。その者たちは皆、カギが開いた扉を通ってこちらにやってくる――これはカギの存在と、その働きについて知っている者だけが知る秘密だった。
「ミネコさん達は無事なのでしょうか」
「カギが本格的に使われた気配は、今のところありません―――王が言うのだから間違いはありませんよ。なので彼女は守役の役目を、今もしっかり務めているということです。彼女に何かあった時には、間違いなくカギは力を暴発します。だから王にはすぐ分かるはずなのです。想像したくはありませんが」
オリトは深く息を吐いた。安堵したのと、更なる不安が生まれた吐息だった。
――ミネコさん……
守役とは要するに、神器であるカギが持つ膨大な神力を抑え込める素質のある者ということなのだ。カギは何もしないままでは、その神力を常に外側に発し続ける性質を持つ。つまりカギがそこにあるだけで、扉を作り出してしまうのだ。守役がその力によってカギの神力を抑え込み、王の指示がある時のみその力を解放する。そのようにしてカギの力をコントロールしてきたのが、守役である。
「それでは先程あなたが仰ったのは、どういう意味なのですか。扉が開いた、とは? それがミネコさんの嫁ぎ先だったとは?」
オリトは声を落として、タカオミの方へ顔を近づけた。
緊張に顔が歪んだままのオリトに対して、タカオミの方は相変わらず変わらぬ表情である。まるで録音してきたかのように、淀みない口調で彼は答えた。
「カギの神力の名残です。ミネコさんがあの家でカギと共に過ごした時間、それが長い時間であればあるほど、鍵の神力はその場所に沈殿していきます。もしくは……これはあくまで私の推測ですが」
その言葉の続きを述べる時、それまで人形のようだったタカオミの瞳に、一筋の光りが現れたのをオリトは見たのだった。その瞳は澄んだ菫色をしていたのだと、オリトはその時初めて気がついた。
「ミネコさんがあえて僅かな量の神力を、あの家に残してきたとも考えられます」
「あえて?」
なぜか嬉しそうな笑みを浮かべるタカオミに、信じられないという思いがこもった口調で、オリトは返した。
「王の指示なく、ミネコさんがカギの力を使ったというのですか」
カギの守役にとって、それは禁忌のはずだ。ミネコがそんな勝手を犯すはずはないし、そもそもそんなことを仕出かす要素がある人間は、守役に選出されない。
「そうだとしても、彼女を責めることはしません。これは王の言葉です」
一回り以上年若い男になだめられながら、オリトはそれでも納得できないという視線を送った。
「むしろ……もしミネコさんが機転を利かせてカギを使ったのだとしたら。彼女が危険を冒してまで作ってくれた幸運を、台無しにすることはできません」
「幸運?」
幸運、という単語を口にしたタカオミの表情は、生き生きとしていた。彼の年齢を知らないオリトは、タカオミは実は自分が考えている以上に若いのではないだろうかと、確信を持った程だった。
「来訪者が来たのです」
「……トコヨノクニから……?」
オリトは先程よりは落ち着いた声音で訊ねた。驚きはしたが、納得しやすい報告だった為だ。カギの力が表出して、扉が開かれたからには、トコヨノクニから誰かがやってくることは必然なのだから。
「トコヨノクニからの来訪者は、この国に幸運をもたらす」
この国に住む者なら、一度は聞いたことのある言い伝えである。読み上げたような口調で呟いたタカオミは、一呼吸置いた後に、言葉を続けた。
「ミネコさんがいなくなって、五年以上が経ちます。その間扉は彼女の家にずっと存在していたのでしょう。あちらの世界にこちらの世界が必要とする資質を持った人物が現れて、ようやく扉がその人を招き入れるに至った」
オリトは無言で頷いた。宮司を引き継ぐことが決まってから、父から教え込まれた知識を思い起こす。
――トコヨノクニからこちらへやってくる人間は、無作為に選ばれるわけではない
ヒノクニにとって害をなす要素がある者や、無益な人物は選ばれない。扉が通すことを許さないのだ。神器の持ち主である王でさえ人選はできないが、扉を通ってこちらの世界にやってくることができる者が、国の安寧をもたらす素質を持っていることは確実なことだ。
「トコヨノクニからやってきた人間……それは、一人ですか?」
「そうです。平彩党幹部の息子から届け出がありました。十三歳の少女です」
オリトは息を飲んだ。
「まだ子供ではないですか」
「そうですね。しかし歴代の来訪者たちの年齢は若いことが多いのも事実。彼女の場合はとりわけ若いですが、珍しいことではありません」
「……その子は魔力を扱うことはできたのですか。あちらの世界の人々は、魔力を使うことがないと聞いています」
オリトは想像しかできないが、トコヨノクニからやってきた人間は魔法の存在を知らないのだという。初めて父から教わった時には、とても信じられなかった。
「できましたよ。そして問題なく副産物の採取もできました。彼女は既にこの国に貢献している」
「そうなのですか」
笑顔のタカオミの説明に、オリトは再び想像しかできない――――トコヨノクニからやってきた人間がこの国と国民に対して慈愛を感じた時、『副産物』と呼ばれる微量の魔法物質が排出されるという。それは王の元に集まり、それを『王が副産物を採取した』と表現される。この一連の流れも、カギの存在同様、オリト達一部の者しか知り得ない事柄だった。
そしてオリトも実際に目にしたことがないことだったが、王が採取した魔法の副産物は、この国を守るある物を構成する素材になるのだという――――王が執り行う神事で作られるそれは、『天膜』と呼ばれている。
「……彼女を二の舞いにすることは、できません」
声のトーンが下がったタカオミを見た。笑みを消した表情で、彼は祭壇の鏡を見つめていた。
「カギを誰かに悪用させることも、許してはいけない。王の知らないところで扉が開かれる……それがどのような結果に繋がるのか、王でさえ知り得ないことなのです。今までの秩序は崩れ始めています……カギの秘密が漏れた瞬間から。来訪者がいるとはいえ、彼女の存在だけで国の安定が期待できるとは言い切れません」
「彼女は保護するのですか」
「もうしていますよ。塀の中に囲い込んでいるわけではありませんが、透証を通じて王が直接彼女を結界で囲っている。本人や周りの者たちは知らないでしょうが、それで良いのです。少なくとも王の神力に守られていれば、身体的な危険は防げます。ご存知ありませんか。来訪者は市井の中で暮らすべきなのです。すぐに私達の目が届く場所、たとえば王宮や政府施設の鍵付きの部屋に保護しておけばいいわけではありません。その魔力同様に透明で無垢な思想を、特別な色に無理に染めるべきではない。一人の国民として、自由にのびのびと生きていけるように見守ることが大切です。それができなければ、来訪者から副産物を採取することは叶わないのですよ」
「知りませんでした……」
オリトは小声で呟いた。そんな彼の反応に、タカオミは鏡から視線を外して、再び彼に向き直る。
「若輩者のくせに偉そうな発言をお許しくだい。数十年前の失敗があったからこその明言なのです。それまではわざわざこんなことを言われなくたって、来訪者たちは国民の中に馴染んで、暮らしを営んできました」
「いえ……数十年前の失敗。それはあの事件ですか」
「ええ。当時私はまだ幼児ですから、オリトさんの方がその時の衝撃はよくご存知のはずですね」
やはりタカオミは自分よりも一回り以上年下だったようだ。そんな事実に軽く驚きつつ、オリトは話題にしている事件について思いを馳せた。
当時長年に渡って与党に君臨していた空彩党が来訪者たちを秘密裏に研究助手として雇い、彼らの特殊な魔力を不当に搾取していたことが露呈した事件だ。雇われた来訪者たち全員が命を落とす大惨事になった。
「あの事件の後に、来訪者がこの国にやってきたことはなかったはずですね」
「そうです。王の指示によりミネコさんが何度か扉を開けましたが、通る者はいなかった。そしてそのまま、五年前の政争が始まりました」
その場にしばしの沈黙が流れた。浜から聞こえてくる波の音だけが繰り返される。
「ミネコさんの捜索は、引き続き私共が行います」
沈黙を破ったタカオミは、少しもふらつくことなく立ち上がった。
僅かに風が起こって、オリトの鮮やかな紫色の髪を揺らした。
「来訪者の名は、イカラシ・ユウコです。彼女の平穏を祈っていただけますか」
微笑みながら口にされたその人物の名を、心の内で復唱しながら、オリトは頷く。
「ええ。空虚な社ですが……心から勤めさせていただきます」
◆◆◆
オリトは少し前の過去に馳せていた思いを振り切るように目を閉じた。集中する。
――ミネコさんの行方は分からない。だが……
トコヨノクニから来訪したという少女。彼女は王都にいるという。
――私にできることをしよう
諦めの境地なのか、覚悟が決まったのか曖昧だった。人は自分の感情すらはっきりと掴みきれないものだ。だからこそ今はできることに集中するべきで、それはオリトにとって祈ることだった。
――どうか無事であれ。その人が喜びの中にありますように……
オリトは一人静かに、来訪者の平穏を祈り続けたのだった。




