宮司の悩み
オリトは悩んでいた。
早起きの習慣は、子供の頃からだ。先代の宮司を務めた父が亡くなって、まだ日は浅い。しかし彼は日々の仕事については随分前から把握していたし、既にその務めに身体も慣れていた――そもそも、仕事といえるほどの業務量が、この小さな社にはないのだが。
普通これほどの小ささであれば、一人の宮司が近隣いくつかの社をまとめて管理するものだ。そうしてこなかった理由が、この神社にはあったのだ。
朝起きて境内をくまなく掃き清め、本殿と拝殿を整える。一人きりの朝拝を済ませると、定められた年間祭事と地域からの依頼がなければ、そこでしばらく時間を持て余すこととなる。今日はそんな日だったが――――
――祈りを捧げなければ。彼女たちの無事と平穏を……
しばし目を瞑り、祈りの言葉を詠唱する。そしてオリトは、先程整えたばかりの榊の葉を見た。青々とした葉から視線を僅かに上にずらすと、そこには丸い鏡があり、真剣な表情を浮かべた自分が此方を見つめている。
歳を重ねる程父親の面影に近づくその顔には、父のものと同じ色の瞳が二つならんでそこにある。しかし輝きはなく、まるで魂が抜け落ちたようだった。
――空っぽ。空っぽだ。この小さな社とおんなじだな
心の中で自嘲すると、自然とため息が漏れる。
――祈りは捧げたが、果たして力になれるのだろうか。今この社は空だ……
そう、この神社は確かに神社の形は残っているが、最も重要なものが長らく不在だった。オリトはその形すら知らない。見たことがなかったのだ。彼が代替わりした時には、既に失われていたのだから。
◆◆◆
オリトが宮司を努めるこの小さな社は、ヒノクニ中北部に位置する。小さな漁村の中にあり、社殿は小さく、境内も広くはない。しかし大切に管理され、こまめに修繕を行ってきた美しい社である。
浜と家々を見渡せる、小高い丘の上。その場所に定められたのは、国の始まりとほぼ同時期であると社伝は伝える。人々の信仰の対象となり、地域の暮らしの中に根ざしてきた。
しかしただ一点、他の神社と異なる点がある。それは代々の宮司と、ごく一部の者しか知ることがない機密事項だった。
―――この社で祀られているものは、神ではない
それは物であり、手で触れ、持ち上げることのできる物質である。
しかし神の依代というわけではなく、そのモノ自体が特別に祀られる対象であり、守られる対象なのだ。
オリトも見たことがないそれは、『カギ』と呼ばれていた。
彼が知っているのは、その名称及び役割。それがこの国の神器の一つであるということ。そしてこの神社の宮司の代替わりの際に、それが必要になるということだけだった。
王の祖先が建国の際に用いた三つの神器の存在は、誰もが知る一般常識である。しかしそのうちの一つが祀られている場所が、観光客すらやってこない片田舎の小さな神社であろうとは、誰も考えもしないだろう。教科書上では、三つの神器は王の側近くに祀られているとされているのだから。
しかし神器の一つが自分の祖先たちが守ってきた社にあるということを知っているオリトでさえ、カギという名前のそれが、読みの通り鍵の形をしているのかは分らない。見ることが許されるのは、宮司とカギの守役に任命された者たちだけだからだ。
カギは国の成り立ちに大きな影響を及ぼしたと伝えられる、三つの聖なる神器のうちの一つである。残りの二つの神器、『カガミ』と『ウツワ』は、王の住まう王宮に安置されている。しかしこのカギだけは、王から離れた場所で守る必要があるのだという。
それを預かる役割に任じられたのが、オリトが宮司を努めるこの社の初代の宮司であった。それから代々、この場所がカギを管理する役目を果たしてきた。
ところが、オリトの先代(オリトの父)の時代に、ある事件が起きた。それから現在に至るまで、カギは行方が分らない。オリトは事実上の現宮司でありながら、歴代宮司の中で唯一カギの姿を見ないまま今に至っているのである。それが、彼の悩みの一つであった。
――どこへ行ってしまったのだろう。ミネコさんは……
ミネコというのは、先代からカギの守役を任じられた女だった。この村で生まれ育ち、カギを持って王都の豪農の家へ嫁いで行った。
そして彼女は、カギと共に行方知れずとなってしまい、今だ見つかっていない。
『カギは社の中で守ってはいけない』
そのような掟があった。神器の悪用を狙った輩の目を欺くため、或いは常に一箇所に留まることを好まないカギの性質のためとも伝えられている。真偽は分らない。ただ、この掟に逆らうことはできなかった。
そしてカギの守役に任じられる者には、三つの条件がある。
社のある土地に縁ある者。
その地を離れていく者。
カギが触れることを許した者。
この三つの条件を満たした者が守役の任に就き、宮司からカギを預かるのだ。そして守役は、この漁村から離れた別の土地でカギを守る。そして次の宮司に代替わりする際、カギを社に返し、代替わりした宮司が取り仕切りを行う元で新たな守役を選出するのだ。
――千年を超える長い間、ずっと繰り返されてきた習わしだった
オリトの高齢の父は、息を引き取るその瞬間まで、カギの行方と守役のミネコ一家のことを案じていた。
五年前に突然失踪したミネコ。何に巻き込まれたのか、それは説明されなくとも何となく分かった。
だからこそ自分たちは、何も言ってはいけない――カギの単語も、守役という言葉も。王とカギとこの社の関係を、誰にも聰られてはいけなかった。
オリトはあれから月日が経った今も、カギとミネコという音を、共に発音することはなかった。
――ただの片田舎の小さな社を管理する、冴えない中年神主
外からそう見えるように勤めてきたのだ。
しかし、こんな日は考え込んでしまう……数日前にある知らせが、秘密裏に届けられたのだから余計にだ。




