朝
ノマが整えてくれた寝具が大変柔らかく、たまらなく良い香りだったからだろうか。程良い硬さの枕に顔を埋めると、侑子はあっという間に眠りの世界に意識を沈めた。
しかし深く沈みすぎたのだろう。夢の世界を彷徨うことはなく、次に気がついたときには、すっかり明るくなっていた。サイドテーブルの時計を確認すると、短針は六と七の間にある。
――やっぱり、あっちとこっちでは時差があるんだ
昨日の段階で感づいてはいた。侑子がこの世界への入り口を開いた時、元いた世界では午後六時だった。一方こちらの世界では、日が高くなりつつある時間、つまり午前中だったのだ。幸い時差ボケすることなく、体内時計は正確に機能しているようだった。
ベッドから降り、ノマが準備してくれた服に着替えた。裾へ向かって菫色のグラデーションが美しく広がるワンピースだった。シルエットが昨日風呂上がりに用意してくれていたものと似ていたので、これもノマが魔法で出してくれたのだろう。
スリッパをはいて部屋から出ると、洗面所へ向かう。静かな空間に、侑子のたてる足音だけが響いていた。この広い屋敷を訪れる客は多いそうだが、今ここに住んでいるのは、ジロウとユウキ、ノマの三人だけなのだそうだ。
洗面を済ませると、侑子はなんとなくいつものように髪をお下げに整えた。
◆◆◆
「おはよう、ユーコちゃん!」
ダイニングルームに行くと、キッチンからジロウの声が聞こえた。
「ゆっくり眠れた?」
「はい。とてもぐっすりでした」
「それは良かった。うん、よく眠れたって顔してるな」
食卓に運ばれていく朝食は、やはり侑子にも馴染みのあるものばかりだ。白米は茶碗によそわれているし、お椀に注がれた液体は味噌汁で間違いないだろう。切り身になった魚も鮭だった。
「今朝のメニューはどう? 見たことないものはある?」
配膳を手伝う侑子は首をふった。
「びっくりするくらい、知っている献立です。とても美味しそう」
「そうかそうか。良かった。どうやら食文化に大きな違いはなさそうだな。そこが全く違ったら大問題だ。人間衣食住のどれかが欠けても苦労するものだが、中でも食は最重要だから」
四人分の朝食がテーブルに整ったところで、ジロウが左手につけた腕時計に呼びかけた。
「ユウキ、ノマさん。朝ごはんだよー」
その一連の仕草に、侑子はその腕時計がスマートフォンのようなものかと予想をたてた。魔法ばかり見てきたが、この世界にも電子機器は存在するだろう。
「それは、ええと、離れた場所にいる人と、通信するための機械ですか?」
スマートフォンという単語が通じるかは定かではなかったので、簡単な言葉に置き換えて侑子は訊いてみた。ジロウはニッと笑うと、腕時計を外して侑子に手渡してくれる。
バンド部分はよくある腕時計の革バンドだったが、フェイスは時計ではなかった。文字盤はなく、透明な平べったいレンズだったのだ。直径三センチほどで無色、向こう側は透けて見える。
「そういう使い方もできる。けどそれだけじゃないんだ。これはヒノクニの国民にとって、身分証明書の役割も果たすとても重要なもの――常に携帯しておくことが推奨されているものなんだよ。一言で言えば……そうだな、身分証に色々な便利機能がついたようなものさ。地図のように働いて、どこにいても自宅まで迷わず帰ることができる機能があったり。今みたいに物理的に離れた場所にいる人に連絡することもできる。どんな機能を使うかは、持ち主が好きに取捨選択することができるんだ」
侑子は自分の立てた予想が少なからず当たっていたことに驚いていた。見た目は異なるけれど、説明だけ聞けばまるでスマートフォンではないか。そのことを伝えると、ジロウも驚いた顔をした。
「へえ。魔法がない世界にもそんな道具があるのか。ユーコちゃんのいた世界ってのは、魔法でできないことを人の手だけで実現する、高度な科学技術の世界なんだな……」
「でも完全に同じ道具ではないですよ。あくまで私の世界にあったスマートフォンは通信機器だし、身分証として使うことはできません。持っていない人だって普通にいます。それにこんなにコンパクトじゃない」
ジロウに腕時計型のそれを返却しながら、「名称はなんて言うんですか?」と訊ねる。
「透証と言うんだ。この透明な部分だけな。形は色々あるんだよ。小さな玉っころに穴があいた形状とか――そういう形のものは紐を通して持ち歩くな。丸ごと指輪の形にして身につける人も多いよ」
◆◆◆
全員が食卓に落ち着くと、引き続き透証の話題になった。
「私はいつも首からさげていますね。服装とそぐわない時には、指にはめることもありますけど」
「俺はブレスレットに加工してる」
ノマとユウキが見せてくれたそれぞれの透証は、ジロウの物と形状が異なっていた。
ユウキのものは細い管状で、黒と青の糸を編み込んだ組紐に通してある。一方のノマの透証は細いリング状で、金のネックレスチェーンで首から下げられていた。
三人の透証に共通しているのは、無色透明であることだった。
「本当に形はバラバラなんですね」
「支給されるときは、ただの透明な四角の塊なんだよ。それを魔法で好きに変えるんだ」
「なくしてしまいがちな小さな子供は、親が代わりに持っていることもありますよ。魔法を上手くコントロールできるようになったら、自分で身につけるようになります」
ノマの説明が気になって、侑子は「それって何歳くらいなんですか?」と質問を挟む。その回答が小学校入学したての年齢だったので、思わず「すごい」と、無意識のため息とともにつぶやいた。魔法を使えない自分が、半人前以下のような気持ちになったのだ。
「この世界では私、自分を証明するものも持っていない人間なんですよね」
スーツ姿の男に追われた記憶が蘇る。この世界ではトコヨノクニの存在は一般的に認識されているようだが、明らかな異分子であることは間違いないだろう。
なんとなく心許ない気持ちになってきたが、ジロウはああ、と何かを思いついたような脳天気な声を出した。
「そのことだけど、ユーコちゃん。そんなに深刻に考えなくていいと思う。ユウキから聞いたかもしれないけど、たまにいるんだな。ユーコちゃんのように、トコヨノクニからやって来る人間が。そしてこの国では、そういう人達をちゃんと受け入れてる。透証だって発行してもらえるさ」
「そうなんですか?」
「ああ。かなり珍しいことには違いないが。今日そういうことに詳しい知り合いに会う予定がある。一緒についてくるか?」
ジロウの言葉に、眼の前の帳が開かれたように、侑子の瞳に光がさした。ぱっと表情を明るくした侑子を見て、隣に座るユウキが口を開く。
「そうか。今日はリリーが来るんだね」
「ああ。本番は夕方からだが、午前中に一度機材の確認をしたいらしい。エイマンくんも一緒だろう」
「俺も行く」
「ユウキさん、学校は?」
「もう必須科目の単位は取れてるんだ。今日は出欠取らない授業しかないし」
咎めるようなノマの視線だったが、誤魔化すように微笑んでかわすと、ユウキは付け足した。
「テストも終わってる。余裕だったよ……知ってるでしょ」
「仕方ないな」
ジロウは笑った。
「ユーコちゃんが心配か。そこはこのおじさんに任せてほしいところだが。まあ、ユーコちゃんもユウキが一緒のほうが安心かな」
「だよね?」
唐突に顔を至近距離で覗き込まれた侑子に、頷く以外の選択肢はなかった。




