渓流
「ユウコ!」
豪快に尻もちをついたのと、後ろからコルの焦った声が聞こえたのは同時だった。
転ぶのは今日何度目だろう。
特別ぬかるんでいるわけでも、足場が狭いわけでもない。少々下り坂だが、少しずつ山歩きに慣れてきた侑子にとって、尻込みするほどの悪路ではないはずだった。
「大丈夫?」
「うん、平気」
立ち上がって身体についた草を払い落としながら、侑子は笑った。
(ごめん、ユウコ。私の寝相のせいで……)
眉をハの字にしたヤチヨが、タブレットを見せてくる。今朝、彼女は兄から聞かされていたのだ。昨夜侑子がヤチヨの寝相のせいで、だいぶ眠り損なったことを。
「ヤチヨちゃんのせいじゃないよ。あの後すぐに眠ろうとしなかったの、私だし」
ヤヒコとの会話に夢中になった上、その内容で気持ちが高ぶったせいだろう。侑子はすっかり目が冴え、話し終えて再び寝床に横になった後も、結局寝付けなかったのだ。
「睡眠不足は甘く見ないほうがいい。ユウコ、この先で長めの休憩を取ろう。一眠りしときな」
先頭を行くヤヒコが、勝手知ったる様子で道を切り開いていく。
一行が足を止めたのは、細い渓流が流れる水場だった。漬物石にちょうど良さそうな大きさの丸石が、水の流れを整えるように並んでいる。草は茂っていたが、すぐにメムの鎌によって取り除かれた。
「この辺を通る時の、休憩ポイントの一つだよ」
ヤヒコの説明通り、草がなくなったその場所は、テントを広げるのに十分な広さがあった。
「ユウコ! ハンモック吊ってあげる」
コルが跳ねるような足取りで、自分のザックから取り出したロープを近くの大木にくくり始めた。
「揺られながら眠るの、すっごく気持ちいいんだ」
「へえ。ハンモックかぁ。乗ったことないなぁ」
興味深そうに侑子が見つめる前で、コルの小さな手が慣れた手つきでロープを結んでいく。ヤチヨが仕上げに結び目を固く締め直すと、あっという間に設置は完了した。
「初めに横座りするんだよ。腰を乗せて、脚を入れたらそのまま身体をずらす」
「わあ! すごーい! 面白い!」
初めてのハンモック体験に、侑子はくすぐられたような笑い声を上げた。ゆらゆら揺れる不思議な浮遊感と、一枚の布がぴったりと全身を包み込む安心感。そのアンバランスさが癖になる。
「いいリアクションするなぁ」
侑子の反応がよほど面白かったのか、ヤヒコとヤチヨまでハンモックを揺らしてくる。きゃあきゃあと声を上げていると、自分の置かれた状況をつい忘れそうになった。まるで友人たちとキャンプにでも来たような気分だ。
ひとしきり笑い倒すと、侑子を乗せたハンモックの揺れもゆったりとしたものに変わった。
「そのまま目を瞑ってなよ。きっとすぐに眠っちゃうよ」
上から覗き込みながらコルが言った。
「気持ちいいでしょ?」
「うん。最高。ゆりかごに乗せられた赤ちゃんって、こんな気分なのかな」
深呼吸すると、清らかな水の匂いを含んだ森の空気が身体いっぱいに入ってくる。
コルの言葉通り瞼を閉じると、規則的な揺れが侑子の意識を遠くへ誘い始めた。あっという間に眠りへ引き込まれそうになる。やはり自分は眠かったのだと、侑子は今さら気づいた。
「おやすみ。静かにしとくから」
「うん。お言葉に甘えるね。ありがとう……」
ヤヒコの声を最後に、メムの三人の気配が遠ざかっていく。
静寂が訪れた。
木の葉がほどよく陽の光を遮っているおかげで、アイマスクは必要なさそうだ。渓流が穏やかに流れる音と鳥の声が聞こえる。自然の音しか耳に入ってこないので、ヤチヨたちは一体どこに行ったのだろうと少しだけ不安になった。子供のコルでさえ、気配を隠すのがうまかった。
しかし、そんな雑念もすぐに薄れていく。
心地よい浮遊感に揺られながら、侑子は深い眠りへ落ちていった。
◆◆◆
ユウキの魔力は、渓流を思わせる青だった。
夢と現の狭間で、侑子はそんなことを思い出していた。
――勢いよく流れて、岩肌にぶつかって散らばる。小さな水滴まで思い出せる……
初めて彼の魔力を見た時、脳裏に浮かんだ清らかな渓流の風景は、今自分が休んでいる場所よりもずっと激しい流れだった。
――だけど、近いな。近くに感じる。まるでユウキちゃんの魔力が、すぐ近くにあるみたい
まだ完全には眠りに落ちていないのかもしれない。流れる水の気配を感じる。青い色まで瞼の裏に見えるような気がした。
――これも夢なのかな……だとしたら、いい夢だ……本当にユウキちゃんが、すぐ近くにいるみたい
微睡みが感じさせる架空の揺れなのか、ハンモックが本当に揺れているのかは定かではない。
侑子はその揺れに身を任せたまま、もう少しだけこの幸せな感覚に浸っていたいと願った。
◆◆◆
あみぐるみたちは綺麗な一列になって、その道を進んでいた。
今まで通ってきた場所とは異なり、獣道のように草木が取り除かれたそこは、道と呼ぶのに十分だった。
「猟師が通るのかな」
紡久が言った。魔法で草木を薙ぎ倒す手間が省け、口数も多くなっていた。
「こんな山奥を? 人里からだいぶ離れていそうだけど」
訝しむ声はユウキだ。
「けどこの感じは、明らかに人が切り開いた跡に見える。しかもまだ新しい」
淡々と観察しているのはアミだった。その言葉に、紡久は後ろの二人を振り返った。
「近くに人がいるってこと?」
「どこかで鉢合わせるかもね」
「まずくないか」
ユウキが立ち止まると、前方のあみぐるみたちもなぜか足を止めた。行進がぴたりと止まる。
「こいつらを他人に見られるのはまずい」
あみぐるみを指しながら、ユウキは思案した。
明らかに魔力によって動いていると分かるあみぐるみたちは、この世情では人目に晒したくない代物だった。誰もが魔力不足に喘いでいる。魔法による現象を目にしなくなって、もう久しい。
説明に窮する動くあみぐるみの姿を隠す上でも、人目につく心配のないこれまでの経路は好都合だったのだ。
「人の気配を察知したら、すぐに動きを止めてもらうとか? 俺が魔法ですぐに回収するよ。万が一見られても、動きが止まっていればただの玩具にしか見えないし」
紡久の提案に、とりあえずそれでいこうと決まった。獣道程度に整っているとはいえ周囲には草木が迫っているので、小さなあみぐるみ程度なら簡単に隠せるだろう。
「ぴぃぴぃ」
先頭の白クマが、先を急ごうと促すように小さく鳴いた。
頭頂に青い硝子を飾ったこのクマは、侑子がこの世界で一番最初に編み上げたものだった。
行進は再開した。




