ヒノクニ――絵の具
「この色を表現するには、何色の絵の具が必要かな」
紡久の部屋に顔を出したのは、ユウキだった。
戸口に長身を寄りかからせるように立ち、片腕には一枚の大判の布を抱えている。
紡久は窓際に座り、スケッチブックを広げていた。
窓の外に見える、大通りの様子を描いていたところだった。
半年前と比べると、その風景は随分と色褪せて見えた。
春から秋へ、季節が移ったからではない。
行き交う人々から感じられる生気も、魔力も、以前より薄くなっていた。
「その布」
「俺のステージ衣装だよ」
紡久にも見覚えがあった。
歌う時、ユウキが腰に巻いている布だ。その表面を隙間なく覆っているのは、青い硝子の鱗だった。
「この鱗を描くの?」
受け取った布を広げる。
光を受けた無数の鱗が、水面のように煌めいた。布を動かすたび、サリサリと涼やかな音がする。
「ツムグくんみたいに上手には描けないだろうからさ。とりあえず色だけでもいいんだ。同じように、紙の上で表現したくて」
「紙の上?」
紡久は顔を上げ、ユウキを見た。
舞台の前後でこまめに髪色を変えていたユウキは、少し前からそれをやめていた。
魔力を節約するためだ。
ステージに上がる時にも、髪を染め直さなくなった。
伸びた根元には、本来の灰色が覗いている。
「侑子ちゃんに送るの?」
「そう。贈り物」
ユウキは布の鱗を指先で撫でた。
「最近ずっと、鱗を贈れずにいたから」
鱗、と呼んでいるのは、本物の魚の鱗ではない。ユウキが魔法で作る、硝子の小さな装飾品だ。
けれどユウキと侑子にとって、それはただの飾りではないらしい。
紡久も一度、その意味を目の当たりにしている。
侑子がいた、あの曙祝の日。
彼女の純白のワンピースが、ユウキの衣装と同じ青い硝子の鱗で覆われていく様子を。
「いつも手紙に入れてたよね」
「うん。魔力を節約するようになってから、やめてた」
ユウキは少し黙った。
「……後悔してる」
「後悔?」
「ほんの少しの魔力で作れるんだ。だったらケチらずに、いつも通り贈っておけばよかったのかもしれない」
「侑子ちゃん、何かあったの?」
心配そうな紡久の声に、ユウキは一瞬だけ目を伏せた。
けれど、すぐに笑った。
「病み上がりだから。元気が出るように、ね」
「そっか」
紡久はそれ以上訊かなかった。
画材を収納している棚を開け、同系色ごとに分けた引き出しから、寒色の絵の具を取り出していく。
迷いなく動くその指を、ユウキは興味深そうに眺めていた。
ふと、視線が横へ逸れる。
飴色のロッキングチェアに、大きなあみぐるみが座っていた。
紡久によく懐いていた、大きなクマだ。
椅子の上へ投げ出された足。
傾いた身体。
侑子が消えた日から、他のあみぐるみたちと同じように、このクマも一度も動いていない。
ユウキは背もたれからずり落ちかけていた身体を、そっと起こしてやった。
「落ちるなよ」
物言わぬクマは、何も返さない。
「こんなもんかな」
紡久の声に、ユウキは振り返った。
テーブルの上には、片手では持ちきれないほどの絵の具が並べられている。
「こんなに使うの?」
青。
水色。
紫。
それだけではない。
黄色や赤、桃色まで混じっている。
ユウキには、どう見ても青い鱗を描くための色とは思えなかった。
「絶対使わなそうな色まであるけど」
紡久は笑った。
「見てて」
画用紙を一枚取り出し、その隣に鱗で覆われた布を広げる。
パレットへいくつかの絵の具を出し、水を含ませながら濃淡を調整していった。
一本の筆が、大胆に色を伸ばす。
次に、色を含ませていない水筆で、その一部を拭い取るように逃がしていく。
別の色を重ねる。
細かな点を散らす。
――魔法みたいだ
ユウキは、思わず見入った。
絵筆が踊る。
色と色が混ざる。
反発するように際立ったかと思えば、次の瞬間には境目が滲み、どちらとも呼べない色へ変わっていく。
ユウキは、その様子から目を離せなかった。
魔法なら、欲しい色を思い描けばいい。
けれど紡久は、いくつもの色を重ね、混ぜ、時には拭い取りながら、そこにない色を作り出している。
小さな紙の上に、新しい色が生まれていった。
「すごいな」
「はい」
差し出された画用紙を受け取り、ユウキは息を呑んだ。
そこにあるのは、間違いなく自分の知っている色だった。
長い間、何度も作ってきた青い硝子の鱗。
それなのに。
「黄色とか桃色なんて、絶対使わないと思ってた」
「本当は、使わない色なんて一つもないのかもしれないよ」
紡久は鱗の布を持ち上げ、窓際まで運んだ。
窓を開け放つ。
秋の風と一緒に、金木犀の香りが流れ込んできた。
風を受けた布がはためく。
柔らかな秋の光を浴びて、青い鱗が一斉に煌めいた。
「ほら」
紡久が指差す。
「ここから見ると、黄色っぽく光ってる。それに、床に落ちてる光は薄紅色に近いでしょ?」
ユウキはしゃがみ込み、床の上を揺れる光を目で追った。
青い鱗からこぼれたはずなのに、そこには青だけではない色がある。
「本当だ」
「光が変われば、色も変わるんだよ」
紡久は布を持ち上げた。
「変わったように見えても、同じものだけどね」
ユウキは、もう一度その鱗を見た。
「ライブハウスのステージの上なら、また違う色に見えるはずだよ。スポットライトが当たるから」
布を畳んでユウキへ返すと、紡久は先ほど使った絵の具を籠へ入れた。
さらに収納棚から何色か取り出し、それも加える。
「持っていって」
「こんなに?」
「場所によって、見える色が違うから」
紡久は笑った。
「そこで見える鱗の色が、きっと侑子ちゃんを元気にする色だよ」
差し出された籠を受け取り、ユウキは深く頷いた。




