トコヨノクニ
侑子は時折言葉に詰まりながら説明した。自分の身に起こった不可解な出来事について。
学校から帰った後、自室へと続くはずのドアを開けたら、知らない女の部屋へ繋がっていたこと。再びドアの外へ出たら、そこは知らない家の廊下で、逃げるように走り去ったこと。途中でスーツ姿の男に追われ、がむしゃらに逃げてきたことを。
「……これも夢なんだと思ったけど。違うみたい」
硝子の鱗を見つめながら締め括った。
ユウキはその間、なにも言葉を挟むことなく侑子の声に耳を傾けていた。
「ユーコちゃんは、魔法を見たことはなかった?」
侑子の話が終わったと分かる程の沈黙の後、ユウキが静かに質問した。侑子は頷く。
「ないよ。本当にびっくりした。魔法どころか、目の中に虹が飛んでいる人も、カラフルな髪の色した人が沢山いるのも、見たことなかった。家も道も違う。見覚えないものばかり……ユウキちゃんみたいな目の人だって……見たことなかった」
その言葉に、今度はユウキが驚く番だった。
「ユーコちゃんの周りには、黒い髪の人しかいなかったの?」
「そういう訳じゃないよ。茶色や金髪の人は沢山いるし、カラフルに染める人もいる。けど少数派っていうか……大体みんな黒とか茶色。もとから違う色の髪の人もいるけど、それも限られた色だけ」
「ふうん……。色々な普通が違うんだね、こっちとは」
顎に手を添えて、興味深いな、とユウキが呟いた。
「こっち?」
「今のユーコちゃんの話を聞いて、確信しちゃったんだけど……多分君は、『トコヨノクニ』から来たんじゃないのかなあ」
「はあ……?」
聞きなれない単語が、また出てきた。侑子はそろそろ脳のヒューズが飛ぶのではと思った。
「ユーコちゃんのいた、『魔法のない世界』と、今俺達のいる、『魔法のある世界』。この二つの世界は普段は繋がりを持たず、お互いの存在を認識することもなく存在している。けれどたまに二つの世界は繋がって、『魔法のない世界』から、『魔法のある世界』にやってくる人がいるんだよ」
ユウキは言葉を選びながらゆっくりとした口調で語った。
「滅多にないことだよ。あっちの世界から来た人を実際に知ってるという人は、とても少ない。けれどそういうことがあるってことは、こっちの世界で生きる人にとって、普通に認識していることなんだ」
言い終えたユウキは、肩を竦めて付け加える。
「……本当に珍しいんだよ。お伽噺と思ってる人も多いし。俺だってこう見えても、驚いてる」
お互いにどこか困ったような視線を交わしていた。
ふっと、侑子が諦めたというように、声を出して短く笑った。
「もう、分かんないことばっかり。考えたってどうしようもない気がしてきた。トコヨノクニ……か。それって、こっちの世界では並行世界みたいな扱いなのかな」
先程のユウキのように、夜空を仰ぎ見る。星が出ていることに、その時初めて気がついた。
――こちらの世界の夜空も、むこうと同じなのかな
トコヨノクニという単語には馴染みがないが、並行世界という言葉なら、知ってはいる。
学校の七不思議をはじめとするホラーやオカルト話は、主に女子の間で盛り上がる、定番の話題だった。侑子だって例外ではない。
放課後に友人と読んだ子供向け雑誌に、パラレルワールドについて特集するページがあったことを思い出す――――パラレルワールド。それは自分が今存在している世界と同時に、別の時空の中で存在しているとされる世界のこと……そんな説明だったはずだ。
その雑誌には、午前零時ぴったりに大きな鏡で合わせ鏡をしながらある呪文を繰り返し唱えると、今いる世界とは別のパラレルワールドへ行くことができるという、胡散臭いコラムも載っていた。当時の侑子は、間違えても絶対に夜中の洗面所で合わせ鏡をしないようにと、心に誓ったものだった。異世界に突然迷い混むなんて、そんな恐ろしいこと絶対やらない。この雑誌を書いた大人は、一体どういう神経でこんな危険な情報を載せたのだろうとまで思った。
――午前零時に合わせ鏡で呪文を唱える……ね。そんなことしなくても、来れたってわけだ
小学生の自分の判断――うっかりパラレルワールドに迷いこまないように、気を付けること。それは間違っていなかった。
侑子は皮肉めいた考えを巡らせた。不本意にも迷いこんだ挙げ句、確かにものすごく怖い思いをしたし、何年分の寿命が縮んだのか分からない。それ程に驚くことのオンパレードだ。
「ユーコちゃん、大丈夫?」
投げやりな笑みを浮かべて黙りこんだ侑子の隣から、心配そうな緑の目が覗き込んできた。視線を合わせて、侑子は頷いた。
「大丈夫。ちょっと色々思い出したの。そういえば普段は繋がりのないはずの別の世界があるって話、聞いたことあったなって」
「へえ。ユーコちゃんの世界でも、こっちのことって認知されてるんだ?」
ユウキの意外そうな反応に、侑子は首を振った。
「多分ユウキちゃんが思ってるような知られ方とは、大分違うよ。並行世界って単語だけならあるけど、トコヨノクニなんて名前とは結びついてないし……実態なんて誰も知らない。本気で信じている人なんてほぼいないし、信じていたとしたら頭がおかしいと思われるから、黙ってる人しかいない……そんな感じ」
侑子は続けた。
「魔法も存在しないもん。手のひらに水を出す人もいないし、一秒で髪の毛を伸ばす人もいない」
「それはとても不便そうだね」
真面目に目を見開くユウキに、思わず「あはは」と笑い声をあげてしまった。深刻に思い詰めるのが嫌になっていた。そんな気分になっていたところに、ユウキのまっすぐ通る声が、明るく響いたのだ。
「なんでも作らないといけない世界だよ。靴も。服も。宝石なんて鉱脈を探し当てて掘り出して、ひたすら磨かなきゃいけない」
「……俺は作るの好きって言ったけど、さすがにそこまで自分でやるのは、大変そうだね」
ユウキは眉根を下げて笑った。




