15.競技会前夜
その夜、天牌閣の広間にはいつもより多くの灯りがともっていた。
明日の競技会に出る見習いや準将士たちが、最後の稽古をしている。牌を打つ音、役を確認する声、点数を読み上げる声。昼間よりも空気が張りつめていた。
基将は広間の隅で、玄庵から渡された牌譜を読んでいた。
第三卓。
沈月白。
雷豪。
蘇芳。
同卓者のうち、牌譜が残っているのは沈月白と雷豪だけだった。蘇芳については記録が少なく、所属も小さな閣らしい。
「雷豪は分かりやすいな」
基将は低く呟いた。
雷豪の牌譜には、鳴きが多い。
碰碰和。
混一色。
箭刻。
時には全求人。
門前でじっくり構えるより、早い段階で役の方向を決め、相手に圧力をかける。特に字牌の対子を持った時の仕掛けが速い。
(發や中を鳴かせると、一気に八点が見える。混一色六点、碰碰和六点、箭刻二点。組み合わせ方が単純だからこそ速い)
単純な相手は弱い、とは限らない。
むしろ、やることがはっきりしている打ち手は強い。迷いが少なく、相手に選択を迫る。
基将は次の牌譜に目を移した。
沈月白。
こちらは対照的だった。
鳴きは少ない。
打点も極端に高いわけではない。
だが、相手の和了が不自然に減っている。
牌譜だけを見ても、はっきりした理由は分からない。沈月白自身は小さく八点、十点、十二点を重ねている。その一方で、同卓者は終盤に手を崩され、錯和寸前の形になったり、八点に届かない手で止まったりしている。
(相手の構想を崩す、か)
翠蘭が言っていた。
同卓した者は「待ちが見えなくなる」と。
魔技の影響だとすれば、厄介だ。
《魔将の眼》で相手の役の方向を見る基将にとって、読みを曇らせる魔技は相性が悪い。
いや、相性が悪いからこそ、試す価値がある。
「難しい顔をしていますね」
声をかけられ、基将は顔を上げた。
翠蘭が盆を持って立っていた。湯気の立つ茶碗が二つ乗っている。
「差し入れか」
「眠気覚ましです。飲みすぎると眠れなくなりますが」
「明日試合なのに、それは困るな」
「半分だけどうぞ」
基将は茶碗を受け取り、一口飲んだ。
苦い。
だが、頭が少し冴える。
「沈月白の牌譜ですか」
翠蘭が隣に座る。
「ああ。牌譜だけだと気持ち悪いな」
「気持ち悪い?」
「和了の形は普通だ。だが、周りの手が妙に崩れてる。押すべきところで止まり、行けるところで迷ってる」
「私もそう思いました」
翠蘭は牌譜を覗き込んだ。
「沈月白は、自分が高い手を作るより、相手の判断を遅らせるのが上手いのだと思います」
「魔技か」
「おそらく。ただ、魔技だけではありません。河の作り方も丁寧です」
「河の作り方」
「不要牌を切っているように見えて、相手の役の候補を消す牌を残す。逆に、危険に見える牌を早めに処理して、終盤に相手へ誤解させる」
基将は牌譜を見直した。
言われてみれば、沈月白の河は静かだ。
派手な仕掛けはない。
だが、相手が欲しがる牌を簡単には出していない。特定の色や字牌を絞るタイミングが自然で、気づけば相手の手が細くなっている。
(守備型、というより制御型か)
日本麻雀にも、相手の手を進ませない打ち手はいる。
ただベタオリするのではなく、相手の速度を落とし、自分だけが間に合う局面を作る。沈月白はそれに近いのかもしれない。
「翠蘭ならどう打つ」
基将が尋ねると、翠蘭は少し驚いたように瞬きした。
「私ですか」
「ああ。沈月白相手に」
翠蘭は牌譜を見つめ、しばらく考えた。
「役を決めすぎないようにします」
「理由は」
「一つの役に寄せると、必要牌を止められた時に動けなくなるからです。花竜だけ、混一色だけ、碰碰和だけ、と決めると沈月白の河に絡め取られる気がします」
「なら、複数の八点ルートを残す」
「はい。遅くなりますが、相手に止められにくい」
基将は頷いた。
それは今の自分にとっても重要な考え方だった。
第9話の稽古で学んだことと繋がる。配牌から役を一つに決めすぎない。ツモと相手の気配を見て、複数の道を残す。
「雷豪相手なら?」
「逆です」
翠蘭は即答した。
「迷っていると先に鳴かれます。雷豪相手には、自分の八点ルートを早く決め、危険な字牌を鳴かせるか絞るかも早めに判断するべきです」
「相手によって逆になるわけか」
「はい」
基将は茶を飲んだ。
苦味が舌に残る。
だが、思考は少し澄んできた。
「助かった」
「少しでも役に立ったなら」
「かなりな」
翠蘭は目を伏せた。
「私は明日、第二卓です」
「出るのか」
「はい」
「そうか。じゃあ、そっちも頑張れ」
「ありがとうございます」
少し沈黙が落ちた。
広間の中央では、雷豪が金鳴楼の仲間と練習卓を囲んでいた。遠くからでも声が大きい。
「ポン!」
まるで本番のような発声だ。
陸青が近くで耳を塞いでいる。
「本当にうるさいな」
基将が言うと、翠蘭が小さく笑った。
「でも、あれで相手を呑み込むんです。声、速度、仕掛け。雷豪の卓は空気が速くなる」
「空気が速くなる、か」
良い表現だと思った。
麻雀には、場の速度がある。
実際の巡目だけではない。誰かが強く仕掛け、誰かが焦り、誰かが押し返す。その感情の速度が卓を変える。
基将は、その速度に巻き込まれてはいけない。
沈月白には遅らされる。
雷豪には速められる。
蘇芳は未知。
その中で、自分の速度を保てるか。
「老師は何か言っていましたか」
翠蘭が尋ねた。
「勝てとは言われた」
「老師が?」
「いや、俺が勝つと言ったら、勝つために何をするか聞かれた」
「老師らしいです」
「俺は、相手の八点到達を見ると答えた」
翠蘭は頷いた。
「良いと思います。基将さんは《魔将の眼》がありますから、相手の役の方向を早く見られる。でも、八点に届くかどうかを判断できなければ意味がない」
「そこだな」
基将は牌譜を閉じた。
「役名が見えるだけじゃ勝てない。点に届く道が見えないと駄目だ」
「明日は、それが試されます」
「分かってる」
その時、広間の隅から声がした。
「異国の人」
振り向くと、陸青が立っていた。
手には小さな布袋を持っている。
「これ、貸してあげる」
「何だ」
「予備の筆と小さな点数表。試合中は使えないけど、直前の確認には便利」
基将は布袋を受け取った。
中には折りたたまれた薄い紙と、短い筆が入っている。紙には、よく出る役と点数が小さな字で書かれていた。
「いいのか」
「僕は覚えてるから」
「本当か?」
「だいたい」
翠蘭が横から言う。
「陸青は自分用に三枚持っています」
「言わないでよ」
陸青が慌てる。
基将は笑い、布袋を懐にしまった。
「助かる。ありがとう」
「負けないでね」
「勝つとは言わないのか」
「勝ってほしいけど、まずは変な負け方しないで」
「現実的だな」
「老師に似てきたかも」
「それは重症だ」
三人で少し笑った。
その笑いが、基将にはありがたかった。
異世界に来て、まだ数日。
死んだはずの自分が、知らない国で見習いになり、明日は若手競技会に出る。
普通なら、心が追いつかなくてもおかしくない。
だが、今ここには、茶を持ってきてくれる者がいる。点数表を貸してくれる者がいる。厳しくも道を示す師がいる。
それだけで、卓に向かう足は軽くなる。
夜が更けていく。
広間の灯りが一つ、また一つと落とされ、稽古卓も片づけられていく。
基将は最後にもう一度、第三卓の組み合わせを頭の中でなぞった。
沈月白。
雷豪。
蘇芳。
そして、麻基将。
日本の最強位だった男ではない。
大将国、天牌閣の見習い将士として。
明日、初めての競技会に挑む。
「寝るか」
基将は立ち上がった。
勝負の前に、眠る。
それもまた、勝つための準備だ。
窓の外には、異世界の月が静かに浮かんでいた。




