after Day. 21
姉妹の時間、そして茉莉が一人で数学に向き合う時間です。
「へぇ~、別荘持ってる同級生に誘われたんだ。いいじゃん、存分に遊んできな」
箸で摘んだ白飯を口に運びながら、姉は事も無げに外泊を許可した。
乃々美に別荘へ誘われたその日の、姉の八重子と二人だけの夕食の場で、わたしはお誘いの話を八重子に聞かせた。わたしが他人の家に泊まること自体初めてだし、未成年女子の外泊ともなれば、家族に黙っているわけにはいかない。しかし現状、許可をとれる年上の家族は姉しかいなかった。
「泊まることになりそうだけど、お姉ちゃんは大丈夫なの? 一人でちゃんとおとなしく留守番できる?」
「なんで泊まりを許可してもらう側に子供扱いされているのかしら……」
そりゃあ、普段の自堕落っぷりを見ていたら、妹として心配になるからだ。いつもわたしと一緒にご飯を作っているから、夕飯の心配はいらないと思うけど。ちなみに今日の夕飯は、大皿の餃子と、レタスとミニトマトのサラダだ。
「お姉ちゃんのことは気にしなくていいから、楽しんできなさい。夏休みにマス部の先輩たちと遊びに行きたいって言ってたから、ちょうどよかったじゃない」
「まあね……二人とも外で遊ぶことに後ろ向きだったから、本庄さんからのお誘いは、降って湧いた幸運だよ。しかもね、本庄さんちの別荘って、海が見渡せる丘の上にあるんだって。草木に囲まれた、静かで心地よい場所だとも言ってた」
「いいなぁ……暑い夏を過ごすにはピッタリの空間じゃないの」
「海で泳ぐ必要もないし、鬱蒼とした山に入る必要もないし、天気が悪くても快適に過ごせるから、先輩方も異論はないって」
「逆にそれらがないと異論があるって、女子高生としてどうなの?」
本当にね。マス部の先輩たちに普通の女子高生の感覚を求めても無意味だけど、わたしは夏休みに外へ遊びに行くことに全く抵抗がないから、こういうときに付き合いが悪いと心が寂しい。この姉だって、普段は家でゴロゴロしているけど、わたしのお出かけには普通に付き合ってくれるのに。
まあ、海も山も行きたくない杏里と、数学ができればどこでもいい蘭子、この二人と一緒に夏休みを外で過ごせる絶好の機会だ。この幸運をくれた乃々美には感謝しかない。
「いいなぁ……私も行きたかったなぁ、海の見える丘の上の別荘」
「超絶人見知りの本庄さんに苦労をかけるから、今回は諦めて」
「ちえっ」姉は口を尖らせる。「というか、別荘があるってすごいね。その本庄さんって子、お金持ちだったりするの? あっ、餃子もう一個もらうね」
「本人はそうでもないって言ってたけど、いくつか不動産を所有していて、アパートの家賃収入もあって、最近は株取引なんかでも収入を得ているって。野菜もしっかり食べないと駄目だよ」
「割と堅実なタイプのお金持ちだねぇ。我々庶民には縁遠い話だ」
「そうは言うけど、お姉ちゃん、大学は経済学部でしょ。この手のことはわたしより詳しいんじゃないの?」
「そりゃあ、日々お金や経営についての講義を受けているから、それなりに知識はあるよ。その上で言わせてもらうなら……」
姉は箸を広げて口元に宛てがい、不敵な笑みを浮かべてポーズをとった。
「楽して儲かる投資など、ない!」
「今までの二年半で学んだことは何だったの……?」
「あのね、もんちゃん。投資というのはそもそも儲けるためじゃなく、企業を支援して経済を活性化させるのが目的なんだからね。支援の見返りを期待するのは、率直に言えば投資家の勝手なんだから、儲からなくてもそれは完全に自己責任」
「蘭子先輩並みに身も蓋もないな……」
「実際、投資で大儲けしているのは、最初から元手の多いごく一部のお金持ちだけ。大多数にとってはギャンブル同然だから、リスクヘッジのために色んな分野に手を出して、大抵は小遣い程度の儲けしかないものよ」
「株も外貨も暗号通貨も、一晩で暴落するのが珍しくないって言うもんね……」
「元々資本主義は、経済格差があって当たり前で、金持ちがしっかり税金を払って、政府がその税金を適切に運用すれば、庶民でも特に困ることなく生活ができるってシステムなのよ。その仕組みに逆らって、投資で一発逆転してお金持ちになる、なんて目論見は基本的に実現しないと思った方がいいわね」
なんだか姉の口から、初めて経済学部らしい言葉を聞いた気がする。普段から勉強しているかどうかすら怪しかったけど、一応学生の本分は果たしているようだ。
「堅実に稼ぐのが一番だね」
「まあそういうこと。もちろん損失を最小限に抑える自信があるなら、いくら投資してもいいけど」
「とてもそんな自信はないな……」肩を落とすわたし。
「ぶっちゃけ私もない」乾いた笑い声を上げる姉。「とはいえ、投資にもある程度の鉄則はあるからね。十分な不動産収入を元手に、堅実な投資によって利益を上げているなら、投資家としてはまあまあまともな方だとは思うよ」
「なるほど……確かにわたし達とは無縁の話だね」
「一般家庭の私たちが真似をしても、ただのギャンブルにしかならないからね」
ギャンブルか……前にマス部で聞いたことがあるが、確率論の創始者であるカルダノという数学者は、ギャンブルに勝つための方法を探るために確率という概念を編み出したが、最終的には、確率を計算してもギャンブルでは役に立たないと結論づけたという。まあ、結局あれは運が全てだからなぁ。
と、ここまで会話が進んだところで、わたし達は無言になった。パリパリと、羽付きの餃子を齧る音だけが、静かな食卓に響く。
……唐突に姉が、コップのチューハイを呷って、ゴクリ、ゴクリと二回飲み込んでから、テーブルにコップを叩きつけた。
「ていうか、姉妹水入らずの食卓でするのがお金の話って、どうなってんのよ!」
「あれ、何の話してたんだっけ」
「マス部のみんなで素敵な別荘に遊びに行くって話だよ!」
自分が行けないからといってムキになるなよ……さてはこの姉、もう酔ったな。それに、その別荘が素敵かどうかは行ってみないと分からない。話を聞く限りでは素敵な感じもするけど。
ほんのり頬が赤くなった姉が、面倒くさく絡むように訊いてきた。
「というか、交通費とかはどうすんの? マス部の部費から出るとか?」
「結局お金の話になってるし……部活に関係する合宿とかじゃないから、もちろん個人の出費は自腹だよ。向こうでの食事とかは本庄さんが出してくれるそうだけど」
「そりゃそっか、数学を研究する部活の合宿なんて、全くイメージ湧かないし」
「いや、前に蘭子先輩に聞いたけど、数学をメインにした全国の研究グループが一堂に会して、研究内容について意見を交わす催しがあるらしいよ。昔はマス部もちょこっとお邪魔していたことがあるとか」
「……それ、招かれてないけど、数学を研究する部活だからと言って勝手に潜り込んだ、というふうに聞こえるんだけど」
「…………」
目を逸らす。正直、わたしも同じことを思ったけど、本人たちには言ってない。他でもない蘭子が、自分もやってみたいとか抜かしていたから。それも得意げに。
「なんか、今から不安になってきたな。あの蘭子先輩のことだから、別荘でもちょっとしたきっかけで数学の話を始めて勝手に盛り上がりそう」
「そうなったら完全に数学合宿……」
「不吉なこと言わんでよ」と、ここまで言って思い出した。「あっ、そういえば今日、またマス部で課題を出されたんだった」
「おいおい、直前に課題を出すとか、マジで数学合宿する気か?」
本当にそうなる気がしてきた。次に先輩方と会うのが、まさに乃々美の家の別荘に行く日だから、これからその課題をやってもやらなくても、別荘に行ってから話題にされるのは必至だ。そして毎回、何度も脱線しながら話が広げられていく。やることがいつものマス部と変わらないのでは、数学合宿そのものだと言われても否定できない。
尤も、わたしはそこまで不安視していない。味噌汁の高野豆腐を箸で摘んで口に運びながら、わたしは気持ち能天気に言う。
「まあ、今のうちに済ませてしまえば、合宿……もとい別荘に行ってから話題に出ても広がらないと思うけどね」
「もんちゃん、すでに予定が合宿になりかけてる」
いかん、いかん。姉に指摘されて、わたしは緩みかけた気を引き締めることにして、高野豆腐を黙々と噛む。そして噛んで含めるように頭の中で何度も念じる。別荘には遊びに行くだけ。目的はそれだけ。結果的に数学トークをする羽目になろうが知ったことじゃない。
「そもそも、当日までに終わらせられそうなの? 夏休みの課題だって普通にあるでしょ」
「別荘に行くのは数日後だし、それに、課題の内容が中学数学レベルだから、終わらせようと思えばできなくもないし」
「この間、小学生でも解ける問題に苦戦してなかったっけ」
「それは言うな」
「どんな問題を出されたの?」
姉に尋ねられて、どんな三角形にも必ず存在する代表的な五つの“中心”について、わたしはかいつまんで説明した。これで理解してくれるかは分からないけど。
果たして、わたしの解説を聞いた姉の反応は、心底呆れた表情であった。
「……数学者って暇なの? そんなものを必死こいて調べて何になるのかしら」
「それ、蘭子先輩の前では絶対言っちゃダメだからね」
「分かってるけどさ」
数学に特段興味のない人からすれば、三角形に引いた三本の直線がいつも一点で交わると言われても、だから何だ、としか思えないのだろう。理解はできる。できるけど……さすがに野暮だと思ってしまうのは、わたしがマス部に染まった証なのだろうな。
姉の共感を得られないことは想定していたので、特にがっかりはしない。わたしはふっと息を漏らして、タレをつけた餃子を一口齧ってからご飯を箸で摘んで口に運ぶ。
「まあ、不思議な話ではあるよね。あれだな、日本の中心がいくつもあるのと似ている」
「ん?」
「地理的にとか、人口分布的にとか、生活様式の違いとか、色んな視点で日本の中心を決めて、あちこちに石碑やモニュメントを作るじゃない。つまり、一口に“中心”と言っても、決め方とか基準が色々あるから、その分多種多様な中心がある、ってことでしょ?」
なるほど、その発想はなかった。姉はたまに、数学に関してわたしが思いつかないことを言ってのけるから、なかなか侮れない。
「にしても、それ本当に中学校の数学で証明できるの?」
「まだ全部は分からないけど、外心と内心と傍心に関しては、少し考えたら解けたよ」
「まじかい。凄いな、我が妹」
「順番に考えたら、そんなに難しくなかったよ。三つの直線が一点で交わることを示すには、二つの直線の交点を残りの直線が通ることを示せばいいの」
「なんじゃて?」
姉は顔をしかめた。さほど難しい話ではないと思うが……具体例を使って説明してみるか。
「まず、これは中学でも習うことだけど、線分の両端から等しい距離にある点は、必ず線分の垂直二等分線の上にあるよね。二等辺三角形の、上の頂点から底辺に垂直な線を下ろせばイメージできると思うけど」
「あー、何となく分かるかも……」
「それを踏まえて、三角形ABCの三つの辺のうち、辺ABと辺ACの垂直二等分線を引いて、その交点をOとおくと、Oは辺ABの垂直二等分線の上にあるから、Aとの距離とBとの距離は等しい。同じ理由で、Aとの距離とCとの距離も等しい」
「つまり……BとOの距離と、CとOの距離も一緒ってこと?」
「そう。三角形BCOは二等辺三角形ってことだね。だから、Oから辺BCに向かって垂直な線を下ろして、辺BCと交わる点Fは、辺BCをちょうど二等分するので、点Oは辺BCの垂直二等分線の上にもある、ってこと」
「ふーん、なるほどね……」姉はレタスを口に運びながら頷いた。
「内心があることも、中学で習ったことをそのまま応用できるよ。角の二等分線の性質だね。三角形ABCの、角Bおよび角Cの二等分線を引いて、その交点をIとおく。その点Iから、AB、BC、CAの各辺に垂直な線を下ろして、交わる点をD、E、Fとおくと、直角三角形の合同条件を使えば、三角形IDBとIEBが合同だから、対応する線分IDとIEの長さが等しくなる。同じ理由で、IEとIFも等しいよ」
「すると結局、IDとIFも等しいってことか」
「そう。点Iと頂点Aを線でつなぐと、直角三角形IDAとIFAができるけど、これも直角三角形の合同条件から合同だと分かる。つまり、対応する角IADとIAFの大きさが等しいから、直線IAは角Aを二等分する……すなわち、内心Iは角Aの二等分線の上にもある」
「なんかいいわね、内心Iって言い方。心の内に愛があるって感じで」
「……ちゃんと話聞いてた?」
変なところでニヤリと口角を上げる姉に、わたしは苦言を呈した。さてはそろそろ興味が薄れてきたな。
「傍心は内心と作り方がほぼ同じだから、同じ要領で存在を説明できるよ。重心と垂心についてはこれから考える……というわけで」
これ以上数学の話は続かないと察して、わたしは無理やり終わらせて椅子から立ち上がる。
「飲み物おかわりしてくるね」
「あっ、ついでに缶チューハイもう一本持ってきて~」
「ダメ」けんもほろろに答える。「お酒はほどほどに」
「もんちゃんのケチぃ~」
酔っぱらいになりかけている姉を放置して、わたしはキッチンの冷蔵庫に向かった。酒癖が悪い方ではないけれど、酔いすぎるとわたしへのスキンシップがより激しくなってウザいから、姉の酒量は厳しく管理することにしているのだ。
コップに烏龍茶を注いでいる間も、わたしは考えを進めていた。重心と垂心がどんな三角形にも存在することを、どうやって示せばいいか……。
残念ながら、わたしは先輩方と違い、別のことをしながら頭の中だけで数学をするなんて、器用な真似はできない。夕食の間も考えを進めたかったけど、ぐるぐる迷うだけで結局何も分からなかった。やはりわたしは、数学は机でやる方が向いている。
夕食を終えて、お風呂で温まった後、わたしはパジャマに着替えて自室の机に向かい、宿題の続きを進めることにした。まずは、重心が存在すること、つまり三つの中線が一点で交わることをどうにか示したい。
「やっぱり基本的には、二つの中線の交点を、もう一つの中線が通ると示せばいいと思うけど……とりあえず、点Bから辺ACへの中線と、点Cから辺ABへの中線を引いて、その交点Gと点Aを結ぶ直線を引こう」
この直線を伸ばして辺BCとぶつかる点Fが、辺BCを二等分すると示せればいい。
……パッと見た感じは二等分できていそうだけど、見た目や感覚は証明にならない。どんな三角形でも必ずそうなると、筋道を立てて説明する必要がある。さて、どうしたらいいだろう。
蘭子あたりが何かヒントをくれなかっただろうか。確か……。
『円周角の定理や平行線の性質を駆使して、ぜひ証明してほしい』
こんなふうに言っていた。
円周角の定理……は、普通に知っているけど、今しがた書いた図を眺めても、とても使える気がしない。あれって、平行線とか関係なく同じ大きさの角がどこかにないと、使いようがなかったような。
平行線か……確か、中点連結定理というものがあった。三角形の二つの辺の中点を結んだ線分は、残る一つの辺と平行かつ長さが半分である、というものだ。試しに、辺ABの中点Dと、辺ACの中点Eを結んでみよう。
「AGとDEの交点Hが、DEの中点なら、三角形の相似を使って、FがBCの中点ということもいえる。よし、とりあえずこの方針でやってみよう。そうだな……三角形ADHと三角形AHEの面積が同じなら、高さが等しいから底辺も等しいってことで、HがDEの中点だと示せるはず!」
方針を決めて、早速わたしは図を丹念に観察して、点HがDEの中点であることを示す方法を探した。
しかし……五分後。
「あーっ! ダメだ、ちっとも分からん!」
わたしは気持ち控えめに叫んで、乾かしたばかりの髪をくしゃくしゃに掻き乱した。
いくら試してみても、手がかりになりそうな所が見つからない。面積の等しい三角形はいくつか見つけたが、どれも目標には繋がらなかった。
考えてみれば、蘭子は平行線の性質と言っただけで、中点連結定理を使うとはひと言も言っていない。もしかしたら、この方針で証明するのはよろしくないのかも……。
「やめた。一つの方針にこだわりすぎるのもよくないよね」
わたしはさっきの図に大きくバツを書き加えて、この方針をきっぱり諦めることにした。別の方法を考えよう。
平行線の性質を使う、という考え方は恐らく間違っていない。どこかに平行線があるだけで、同じ大きさだと確定できる角がいくつも見つかるから、合同とか相似を示しやすくなる。辺BCと平行な線分として、さっきはDEを考えたが、それ以外だと何があるだろうか……。
じっと図を眺めているうちに、わたしは少し大胆な手を思いついた。
「三角形の内角の和が180°だと示したときみたいに、頂点Aを通って辺BCと平行な直線を書いて……それと、二つの中線BEとCDが交わる所を考えると……」
「なんかちょっと図が派手になったけど、合同とか相似がいくつもありそうだな。例えばすぐに分かる所だと、三角形ALDとBCDは合同だし、三角形AMEとCBEもそうだ」
AD=BD、対頂角なので∠ADL=∠BDC、平行線の錯角なので∠LAD=∠CBD、よって二角挟辺相等から、三角形ALDとBCDは合同だといえる。AMEとCBEも同様だ。
「ということは、線分ALとAMはどちらも辺BCと等しいから、線分LMの長さはBCの倍ってことになるんだ。ということは、三角形LMGとCBGは、二角相等だから相似で、その相似比は2:1になるのか。ということは……」
この事実を踏まえて、わたしはもう一度図をじっくりと見つめた。この二つの三角形の相似比が2:1ということは、つまり……。
「あーっ! 分かったぁ!」
天啓が降りてきて、わたしは机にバンと両手を突いてノートを凝視し、控えめにするのを忘れて叫んだ。
三角形LMGとCBGの相似比が2:1なのだから、対応する辺の比率ももちろん2:1だ。だから例えば、LG:CGとかMG:BGも2:1になる。
そのうえで、今度は三角形LGAとCGFに注目する。この二つの三角形も二角相等なので相似であり、相似比はLG:CG = 2:1であるから、対応するAL:FCも2:1になる。ALとBCは等しいから、FCはBCのちょうど半分、つまり点FはBCの中点ということになる。
これで、二つの中線の交点を、もう一つの中線が通る、つまり重心が必ず存在することが示された!
「うわぁ、そういうことかぁ~……確かに簡単な中学数学だけで証明できるけど、こんな大胆な補助線が必要だなんて……咄嗟に思いつかなかったらどうなったか」
ようやく謎が解けたわたしは、椅子の背もたれに寄りかかって天井を仰いだ。中学数学レベルだからと正直ナメていたけど、なかなかどうして侮れない。
さて、どんな三角形にも重心があることは示せたが、これで終わりではない。もう一つ解いておきたい問題がある。
「よし、次は垂心の存在を証明してみよう。これまでと同じ要領で、頂点Bから辺ACに、頂点Cから辺ABに垂線を下ろして、その交点Hと頂点Aを直線で結ぶ……」
「あとは、この直線が辺BCと直角に交わると示せば、三つの垂線が一点で交わる、つまり垂心が存在すると示せる。けど、こんなのどうやって示したらいいんだろ……」
机に頬杖を突いて、ノートに書いた図を指先でコツコツと軽く叩きながら、わたしはぼんやりと呟く。
何か平行線を書き入れたら、直角に交わっている部分を活かせるかと一瞬考えたけど、なんか違う気がする。例えば点Cを通って直線AHと平行な直線を引いて、相似な三角形を探そうとしたけれど、AHとBCがどんな角度で交わっているか分からない以上、あまり意味がなかった。
うーん、何かヒントはないだろうか。
腕組みしてわたしは思案する。
そういえば、蘭子が言っていたヒントの中に円周角の定理があったけど、重心の存在を示す時には使わなかったな。蘭子がああ言った以上、どこかに使い道があるはず。わたしはもう一度図をじっくり眺め、定理の使い所を探った。
円周角の定理は円から始まる図形の性質だけど、この図にはまだ円がない。そうなるとまず使うのは、円周角の定理の逆かもしれない。
『円周角の定理』
同一の円において、同じ長さの弧に対する円周角は常に等しく、中心角の半分である。
『円周角の定理の逆』
四つの点A,B,C,Dは、二点A,Bを結ぶ線から見て残りの二点C,Dが同じ側にあって、∠ACB=∠ADBであるとき、同一円周上に存在する。
「……ああ、そうか。∠BECと∠BDCはどちらも直角で等しいから、BとCとDとEは同じ円周の上にあるのか」
「すると例えば、∠EBDと∠ECDが、どちらも弧EDに対する円周角だから等しいわけだ。……ああいや、それは円周角の定理を使うまでもなく分かることか」
三角形EBHとDCHは、∠BEHと∠CDHがどちらも直角で等しく、∠BHEと∠CHDは対頂角なので等しいため、残りの∠EBHと∠DCHも等しい。三角形の相似性だけで示せることだから、円周角の定理は関係なかった。
しかしそうなると、円周角の定理から他にどんな相等しい角が見つかるのだろう。
「……ああ、そうか。DとEを結ぶ線分を引けば、例えば∠DECと∠DBCが、どちらも弧DCに対する円周角で等しくなるんだ。そこから何かヒントが見つかればいいけど……例えば、こことここが等しかったら、すぐにでもAHとBCが直交すると示せるよね」
わたしは自分で書いた図の、∠DBCと∠CAHをシャーペンの先でつつきながら呟いた。この二つの角が等しいことは、直接的に示せそうにない。だけど、∠DECを介せば、あるいは……。
待てよ。∠DECと∠CAHの位置関係は、まるでDHに対する円周角みたいだ。もしや、A,E,H,Dの4点も、同じ円周の上にあったりするのだろうか……。
「ああ、あるじゃん!」
急に思い出した。円周角の定理を応用した図形の性質の一つに、四角形に外接円が存在する必要十分条件があったはずだ。
『四角形の対角の和が180°であるとき、またその時に限り、四角形に外接円が存在する』
「よく見ると、∠AEHと∠ADHはどちらも直角だから、四角形AEHDは対角の和が180°、つまり外接円があるんだから、4つの点は同じ円周上にあるといえる。だから結局、円周角の定理によって、∠DEH(=∠DEC)と∠DAH(=∠CAH)は等しい!」
ここまで分かれば、後は簡単だ。∠DBCと∠DECが等しく、∠DECと∠CAHも等しいから、AHとBCの交点をFとおけば、∠DBCと∠CAFが等しいといえる。すると、二つの三角形CDBとCFAは、二つの角がそれぞれ等しいので、もう一つの角も相等しい……つまり∠AFC=∠BDC=90゜だといえる。
よって、直線AHは頂点Aから辺BCに下ろした垂線であるので、三つの垂線は一点Hで全て交わることが証明された。
「なるほどなぁ……分かってみれば確かに、中学数学の知識だけで解ける。こういうのも、図形問題を解くための訓練になるんだろうな……」
すでに教科書を先まで読んでいるので、数学Aの教科書でも引き続き図形の性質を扱うことは知っていた。ざっと見た感じでは、円周角の定理の応用も沢山ありそうだし、こういう形で中学数学の内容を思い出しながら問題を解くことで、いい復習になった気がする。
尤も、蘭子は別に今後の授業のために中学の復習を促したつもりはさらさらなくて、単に自力でも解けそうな問題を思いつきで宿題にしただけだろうけど。
よし、この調子で次は、五心同士の密接な関係を証明……したいところだけど、机の置き時計を見るともう深夜0時になりそうだった。色々と試行錯誤をしていたら、こんなに遅くなっていたらしい。そろそろ寝る時間だと気づいた途端、急に眠気が襲ってきた。
「ふあぁぁ……まあ、続きはまた今度でいいか。明日は夏休みの宿題を、少しでも進めたいし……よし、寝よう」
すっかり脳を休めたい気分になったわたしは、机の照明を消してノートを閉じ、布団の中に潜り込んだ。部屋の照明はリモコンで操作して暗くする。
こういうとき、大の数学好きだったら、布団に入ってからも数学のことで頭が働いて、なかなか寝付けなかったりするのかな。わたしはそこまででもないので、特に何か考えを進めることもなく、じわじわと意識が沈んでいくのを待つ。五心の性質に関しては、きっと明日のわたしが何とかしてくれると、そう信じている。
夢を見た。夢の中でもわたしは眠っていた。
遠大な宇宙のように、真っ暗でふわふわした空間の中で、わたしはその揺らぎに身を任せながら眠っている。
そんなわたしを、杏里は包み込むように腕に抱いている。柔らかく、温かく、心地いい……慈しみの笑みを浮かべる杏里は、まるで羽毛の布団のようだ。
そしてわたしの頭を、蘭子は優しく撫でている。何も言わないけど、わたしがここにいてよかったと思われたみたいで、その手の感触はくすぐったくて快い。
とにかく、とても……幸せな夢だった。
……と思う。毎度のことだけど、わたしは起きたら夢の中身を綺麗に忘れる。よほど寝つきがいいらしい。
でも今回はなぜだか、夢の中身を思い出せないことが、ことさら残念に思えた。何も覚えていないのに、とてもいい夢だったという感覚だけが残っている。布団のおかげだと思うけど、妙に全身が温かくて心地いい。そしてなぜか、頭の感触に物足りなさを覚えていた。
ふと、夢うつつでわたしは小さく呟いた。
「……二人と遊ぶの、楽しみだな」
ちと複雑な話になりそうなので、五心の性質の証明はここでは扱いません。自力で考えるのもよし、ネットで調べるのもよし、続きは皆さんで取り組んでみましょう。
とはいえ、せっかくだから何かの形で世に出せたらいいな……と思いつつ、手段を考えているところです。まあ、とっくにネット世界の片隅に存在しているとは思いますけどね!
次回、いよいよ、この夏最初で最後の(泣)夏休みイベントが始まります。もちろん、数学の話がメインです……。




