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side A & R

afterシリーズのような短めのおまけエピソードにするつもりが、思った以上に長くなったので、番外編として出すことにしました。前回の話と同日に、主人公の知らない所で起きた出来事を書いているので、今回、主人公の茉莉は出てきません。

二組の、AさんとRさんにまつわる屈託が、少しずつ明かされます。


「ふーむ……ここがデートの終着点か」


 その場所をぼうっと見上げながら、私は独り言のように呟く。今日一日、杏里に色々な所へ連れられて回っていたが、まさかね……最後に待っていたのがこことは、予想外ではあった。

 その場所とはどこかというと……。


「杏里の(うち)じゃないか」

「来るの久しぶりでしょ? 今日はこのまま朝までお家デートでーす」

「それはお泊まりというべきでは……?」


 いわゆる武家屋敷を彷彿とさせる、厳かで古式ゆかしい邸宅の、大きな門の前に私たちはいる。両側には広い邸宅をぐるりと囲む木製の塀があって、門の向こうは外からだと見えない。

 そもそも杏里はまだ実家暮らしで、普段からこの家には他の家族もいる。仲のいい二人で行くいい感じのお出かけが広義のデートなら、家族のいる実家に泊まることは広義でもデートに相当しないのでは……?


「蘭子ちゃん、何か面倒くさいこと考えているでしょ」


 腕組みしてこの状況を分析していたら、杏里にやんわりと怒られた。納得のいかないことは徹底的に考えるのが私だと、杏里も知っているだろうに。

 杏里の実家、軽部家は由緒ある旧家であり、市内に大きな日本家屋と庭園のある敷地を構えている。同じ区域にある五豊(ごほう)神社と昔から繋がりが深く、地元の神事や伝統行事を取り仕切る役目を、代々請け負ってきたことで、この地域で名のある家柄となっている。尤も、杏里は特に軽部の名跡を継ぐことを強制されておらず、まあまあ自由を許されているが。

 幼馴染みである私は、何度かこの広い屋敷に来たことがあり、その度に杏里の家族から歓待を受けている。最近はあまり来ていなかったが、広くても迷わないくらいには見慣れている。

 杏里と一緒に、庭に面した廊下を歩きながら、杏里に訊いた。


「今日は家族は?」

「お母さんとお兄ちゃんと、お手伝いさんが二人いるよ」


 杏里にとっては家政婦も家族扱いなのか。よほど大事に育てられたに違いない。

 廊下を進んでいくと、向こうから若い男性がやってきて、杏里に向かってひらひらと手を振った。


「やあ、杏里。帰ってたのか」

「あっ、お兄ちゃん。お勤め、おつかれ」

「いいなぁ、杏里はまだ気ままな高校生活を送れて……おっ、蘭子ちゃんも久しぶり」


 杏里と同じく目鼻立ちの整った、この長身で袴姿の男性は、杏里の兄の軽部駿河(するが)。杏里の四歳上の大学生であり、軽部の跡取りとして、大学では神事と地域振興を学んでいる。幼馴染みの私のことも当然知っているが、顔を合わせるのは何年ぶりだろうか。

 今夜はお世話になりそうだし、挨拶くらいちゃんとしておくか。胸に手を当てて、恭しい振る舞いを駿河に見せる。


「お久しぶりです、駿河お兄様。不躾ながら今夜はお世話になります」


 特に変な挨拶ではないはずだが、横にいる杏里は感情の消えた顔で私を見ている。何だか目も口も一本線で描けそうな表情だ。そんなつもりはないのだが、どうも私は社交辞令的に挨拶しようとすると、無駄に淑やかでキラキラした雰囲気を纏うらしい。

 そんな私の挨拶は、駿河にまあまあの好印象を与えたようだ。


「いやぁ、相変わらず淑女然とした振る舞いが板についているね。さすが杏里の友人だ。これで超が付くほどの数学オタクでなければなぁ……」

「でなければ何だって言うんですか」


 心底残念そうな表情に急落した駿河に、私は不満を滲ませて訊いた。返答次第では私の数学好きに対する侮辱と見なすが。


「前にも話しただろう? 僕が軽部家の唯一の跡取りだから、軽部家のお役目を絶やさないように、いずれはどこかの女性を嫁に迎えて、跡継ぎを産まなければならない」

「そういえば私がその候補に挙がったこともありましたね……即刻お断りしましたけど」

「でも親族の中には、器量もよく杏里とも上手くやっていける蘭子ちゃんを、未だに嫁候補に推している人がいるんだよ。みんな君の外面に騙されすぎだよねぇ」


 駿河は呆れたように肩を竦め、手のひらを上に向けて広げた。

 おっ、何だ。喧嘩を売られているのか? 言い値で買ってやるから表に出るか?


「じゃあ、蘭子ちゃんが外面のままの性格だったら、お嫁にもらうことも考えたの?」

「どうかなぁ……子供の時からこんな性格だったし、こうじゃない蘭子ちゃんは想像がつかないからなぁ」


 さっきから指示代名詞ばかりで具体性に欠けるが、数学好きというだけで悪しざまに言われているみたいで気に食わないな。嫁入りは私も興味がないし御免蒙りたいけど、数学好きを断る理由にされるのは業腹だし、どうせ誰かと結婚するなら、私の好みに理解を示し、なおかつ数学の魅力を共有できる人がいい。

 そう、例えば……。


「どっちにしても駄目だよ」


 杏里はそう言って、肩を引き寄せるように、急に横から私に抱きついてきた。

 まるで、自分の物だと主張するみたいに。


「蘭子ちゃんはわたしのだから」


 あっ、本当に自分の物だと主張してきた。

 私相手には滅多にしないスキンシップと思いがけない発言で、内心パニックになって固まっている私を、片手で抱き寄せながら、杏里はしかめ面で兄に牙を剥いた。


「誰に何と言われようと、蘭子ちゃんをお兄ちゃんには渡さないから」

「あー、はいはい。お兄ちゃんは蘭子ちゃん取らないから、心配すんな」


 駄々をこねる妹を宥めるような口調で駿河は言った。誰に言われようと、駿河も私を娶るつもりはないらしい。

 杏里は固まっている私を引きずりながら、駿河の横を抜けて廊下を進んでいく。その前に、駿河にきっちりと釘を刺した。


「じゃあ、夕飯の時間までわたし達は部屋にいるから、勝手に入ってこないでね」

「はいはい、逢瀬の邪魔はしませんよ」


 杏里が私とデートに行くことを、どうやら駿河はすでに聞かされていたようだ。特に口を挟むことなく、杏里の部屋へ向かう私たちを見送った。

 内心でこんなことを考えながら。


(杏里は昔から蘭子ちゃんにご執心だったけど、最近は独占欲を隠さなくなったな……)


 同性の友達への執着を不思議に思っても、本人の前で指摘したり言いふらしたり、そんなことをするつもりは駿河に微塵もない。妹の“好き”に兄が口出しするなど、野暮もいいところだ。

 さて、格式の高い日本家屋ゆえに、軽部家の部屋はほとんどが畳の和室だが、杏里の自室は少し違っている。本来は他の部屋と同様に畳が敷かれているが、ベッドや重い本棚で畳を傷つけないよう、裸足で歩いても心地よいカーペットを上に敷いている。たったそれだけで、和室らしさはほとんど消え失せ、女子高生らしい部屋にカスタマイズされた。

 まあ、元々かなり広い部屋なので、ベッドと勉強机と本棚とこたつテーブルを置いてもなお、圧迫感もなく広々と感じるのだが。


「よし、夕飯までのんびりしてようか」

「いよいよデートらしくなくなってきたな……部屋の中でゴロゴロするだけなんて」


 何とか正気を取り戻した私がそう言うと、杏里は不機嫌そうに頬を膨らませた。


「もう、そこは楽しい会話に花を咲かせて、いい雰囲気にするところだよ。デートは場所に関係なく、お互いを楽しませるものなんだから」

「楽しい会話……複素数からハミルトン四元数へ自然に拡張するケイリー・ディクソンの構成法とか?」

「……知ってるけど、何で今それ?」

「いや、なんかパッと思いついただけ」

「蘭子ちゃんにとっては充分楽しめる話なんだろうなぁ……ついていけてしまうわたしも大概だけど」


 よく分からないが、どうやらデートにおける楽しい会話としては、及第点ですらないらしい。やはりこういう事に慣れていないと難しいものだな。

 他には何かないだろうか。杏里がベッドに腰かけて退屈そうに両脚をブラブラと振っているし、何か退屈を凌げる話題があればいいのだが……。

 あっ、一応あった。デートに相応しい、楽しい話ではないかもしれないが。


「杏里、今のうちに言っておこうと思うんだが……」

「うん?」


 前置きをしてから、私は杏里の隣に腰を下ろして話し始める。


「実は先日、というかあの発表会の日の帰りに……巴さんのお見舞いに行ってきたんだ」

「えっ……」

「尤も、未だ昏睡状態のままで、何も話しかけず顔を見てきただけだが」


 真横に座って少し下を向いているせいで、杏里の表情は見えない。だけど、内心穏やかでないことは想像できる。


「巴さんのお見舞いって……なんでわたしを誘ってくれなかったの?」

「仕方ないだろう。あの場には茉莉もいたから、思い立っても誘いにくかったんだ。茉莉にはまだ、私の体のことを知られたくなかったからな……」


 入院している巴さんとの関係を説明する流れになったら、私の体のことを、茉莉に話さざるを得なくなる。今はそれを避けたい。どんな方法で杏里を誘うにしても、すぐそばに茉莉がいる間は難しかったのだ。

 今思えば、すぐには病院に行かず、帰宅してから杏里を誘って、日を改めてお見舞いに行けばよかったのだ。要するに、あのお見舞いはその場の思いつきで決めたことで、衝動的な行動だったと言わざるを得ない。あの日の私は、色んな意味で調子が狂っていた。


「……愛鐘先輩と久しぶりに会ったから、巴さんのことも思い出してね。なんだか無性に顔を見たくなったのさ」

「その気持ちは分かるけど、どうせならデートのお誘いをした時に話してほしかったな。デートの計画に、改めて巴さんのお見舞いに行くことも盛り込めたのに」

「昏睡状態の患者を見舞っても、楽しいお出かけにはならないだろう?」

「そうかもしれないけどぉ……」


 杏里はどうやら、自分の知らないところで私が単独行動をとったことが不満らしい。杏里にも無関係なことではないから、なおさらなのだろう。


「でも……いつかは茉莉ちゃんにも、巴さんのことをきちんと話したいね。わたしと蘭子ちゃんがマス部に入った、きっかけをくれた人だもの」

「ああ。あの人が教えてくれたんだよな。つばき学園高校に、数学を研究する部活があることを……」


 あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。私も、きっと杏里も。


 あれは三年前のことだ。私がちょっとある病気に罹患して、市立の中央病院に数日ほど入院していて、その日は杏里が母親と一緒にお見舞いに来ていた。尤も、私はすでに病状が快方に向かっていて、もうすぐ退院できそうだったので、元気そのものではあったが。

 入院患者用のフリースペースで、杏里と一緒に丸テーブルの席に座って、私はいつものように数学の話を繰り広げていた。


「つまり、この2×2の数の塊を、1つの数みたいなものだと見なすと、連立方程式がまるで普通の一次方程式みたいになるでしょ? それでね、この数の塊にもし、逆数に相当する別の塊をかけられるとしたら、どう?」

「逆数に相当する塊って、どうやって定義するの?」

「連立方程式って、最終的にはxとyの単独の式に持っていきたいじゃない? これ、それぞれ片方の項の係数が0だと思えば、こんなふうに書き換えられるんだよ」

挿絵(By みてみん)

「ということは、この塊がいわば、1と同じ役割と見なせるわけ?」

「そう。あとは、塊同士のかけ算をどうにか定義できたら、かけ合わせて1の役割の塊になるもの、として逆数を決められるんだけど……」

「塊同士の自然なかけ算かぁ。どう定義したらいいかな……」


 はたから見たら全く中学生らしからぬ話題で、私と杏里は揃って考え込んだ。うーん、と唸りながら私は瞑目して腕を組む。

 その時、私の背後からすっと、ペンを持つ手が伸びてきて、丸テーブルの上に広げたノートに数式を書き始めた。


「こう考えたらどうかな。連立方程式の通常の解き方を、文字のままでやってみるの」

挿絵(By みてみん)

「こうすると、左辺がxおよびyだけになる代わりに、右辺がmとnの一次式になるでしょう? その後に、同じように係数の塊を作れば……」

「ああ、そうか。逆数の役割の塊は両辺にかけるから、方程式を解いた後の右辺に現れる塊こそが、かけられた逆数になるのか」

「なるほどなぁ……」感心する杏里。「塊同士のかけ算を定義しなくても、逆数を導けるんですね」

「かけ算も定義できるよ」

「あ、そうなんですね」


 再び誰かのペンを持つ手が、ノートにさらさらと式を書き連ねていく。


「二変数の一次多項式二つ分から、係数の塊を左から(x,y)にかけた形を作ったのと同じ要領で、二つの塊の積を左から(x,y)にかけた形を考えてみましょうか」

挿絵(By みてみん)

「こうするとほら、二つの塊の積がどんな形になるか、すぐに分かるでしょう?」

「確かに分かりますけど……このままだとちょっと複雑で頭に残りにくいですね。こうすれば、かけ算の仕組みを覚えやすいかと」


 私はペンと二色のマーカーを使って、文字を黒い線で囲んだり色をつけたりして、どの文字をどこで使っているか図示してみた。

挿絵(By みてみん)

「いいわね、とても覚えやすいと思うわ」

「あのー、ところで……」杏里が恐る恐る手を挙げて尋ねる。「お姉さんはどこの何者ですか?」

「ん?」


 しれっと私と杏里の会話に混ざってきて、的確なアドバイスをしてきた、色白でショートヘア、入院着姿の年上らしい女性は、杏里に訊かれて笑顔のまま振り向いた。


「蘭子ちゃんの知ってる人?」

「…………」後ろの女性を見上げる。「……いや?」

「知らない人にずいぶん心許してたね!?」

「数学ができる人に悪い人はいない!」

「……まあ、いるとしたら悪者というより変わり者だろうしね」


 私が力強く断言したら、杏里は呆れたような表情になった。数学ができない奴にろくでもない奴はいくらでもいるけど、逆はそれほど聞かないと思っただけなのだが。

 入院着の女性はにっこりと微笑んで、私の座っている椅子の背もたれの上に両腕を置いて、猫背になって告げた。


「ごめんねぇ。君たちが独力でどこまでこの概念を広げられるか、見守っていようと思ったんだけど、面白そうだから話に加わっちゃった」

「加わっちゃったって……」

「私は巴留実。見ての通り、ここの患者。君たちは、蘭子ちゃんと杏里ちゃんだよね」

「なんで名前知って……一体いつから聞き耳を立てていたんですか」

「連立方程式を普通の一次方程式みたいに表す方法を考えてみた、って声が聞こえてきたから、思わず引き寄せられたの」

「つまり最初から聞いてたんですね……」


 このフリースペースに杏里と一緒にやって来て、思いついた数学の話を始めた時から、こちらの巴留実なる女性は私たちの会話を聞いていたのだ。

 巴さんは楽しみでウキウキするように体を弾ませ揺らしている。


「そんなことより、早く続きをしましょう? 退屈な入院生活の中で、こんなにディープな数学の話ができる機会なんてそうそうないんだし」

「そんなに言うほどディープですか?」

「そうよぉ。だって君たちが今考えていることって……大学に入ってから本格的に習う内容なんだもの」


 当時まだ中学生で、教科書の数学から抜け切れていなかった私と杏里にとって、巴さんのその発言がいかに衝撃的だったか、想像できるだろうか。単なる手慰み程度だと思っていた着想が、そこまで重要なものだとは考えもしなかったのだ。

 あまりの衝撃にピシャーンと電撃が走った後、私と杏里は震えながら巴さんに訊いた。


「「ま、マジですか……?」」

「マジだよ。というか君ら、息ぴったりだね。君たちが言うところの、数を長方形に並べた塊は、正式には“行列”と呼ぶんだ。英語だとmatrix……“母体”とか“基盤”を意味する言葉だね。ひと昔前は高校の数学の教科書にも載っていたんだけど、ほとんどはこの行列を、数の表を一纏めにしたものとしか説明していなかったみたいね」


 今思うと不思議だが、なんで巴さんは、ひと昔前の教科書の内容を知っていたのだろう……まあ、家族とか親戚がとっていた教科書を覗いたとか、そんなところだろう。もしくは、昔の学習指導要領をネットで調べたのかもしれない。


「だけど行列は、平行移動に拡大・縮小や回転など、座標空間での基本的な変換を表現する道具になるから、コンピュータ上の画像処理にも応用されるくらい、重要な概念なの」

「そんなに重要なのに、なんで今は高校の教科書に載ってないんですか」


 私からの問いに、巴さんはすっと、ハイライトの消えた目を背けた。


「それは……文部科学省のお役人さんたちに聞いてくれるかなぁ……」

「理解しました。お役人さんが行列の重要性を理解できなかったんですね」

「うわぁ、言っちゃったよ、この子」

「とんだあんぽんたんですね」

「お役人さーん、中学生くらいの子どもにいいように言われてますよ〜」


 私の暴言を止めようとしない辺り、巴さんも文科省の決定を遺憾に思っていたようだ。実を言えば今でも、私は高校の教科書に行列を掲載していないことを、不服に思っているし、弁護の余地もないと思っている。


「話を戻すけど、行列は今見てきたように、連立一次方程式から生まれた概念なの。だから行列同士のかけ算も、連立方程式を意識した形になっているのね。ちなみに君たちが、1と同じ役割の塊と呼んでいたものは“単位行列”、逆数と同じ役割の塊と呼んでいたものは、“逆行列”と呼ぶのよ」

「へぇ、意外とそのままの言葉ですね」


「それじゃあ、さっき見つけた逆行列が、本当に元の行列とかけ合わせたら単位行列になるのか、実際にかけ算して確かめてみましょうか」

「それならもう出来てます」

挿絵(By みてみん)

「いつの間に……」

「巴さんが色々説明している間にさらっと」

「なかなかの猛者ね、あなた……」


「あの、一つ気になったのですが……」杏里が控えめに手を挙げる。「連立方程式を行列の計算に置き換えることって、そんなに大事なんですか? 連立方程式のままでも、やる事は変わらないと思いますが……」

「確かに、連立方程式を解く道具と見るだけだと、あまり重要とは言えないわね。行列は方程式を『解く』というより、むしろ『調べる』とか『利用する』ために使うことが多いかも」

「方程式を調べる……?」

「ああ、なるほど」


 私はこれまで書いた数式を眺めているうちに、巴さんの発言の意図を読み取った。たぶんそれは、行列を用いる利点の一部なのだろうけど。


「私たちはさっき、逆行列がどんな形なのか求めて、それを両辺にかければ連立方程式の解を導けると考えた。だけど、行列の種類によっては、逆行列を作れないこともある」

「そっか! 逆行列の式の中にあるad-bcが0だったら、計算できなくなるから……」

「つまり、連立方程式が“解ける”かどうかを、係数だけで判定できる……いわば、“判別式”のようなものがあるんですね」

「…………」


 なぜか巴さんは表情が固まっていた。


「……君たち、何年生なの?」

「中二ですけど」

「なんで中二が判別式のことを知っているのかしら……?」

「私たち、去年までに中学校の数学は三年分マスターしてますから」

「わぁ、神童だぁ……」


 私が事もなげに言ったら、巴さんは呆気にとられていた。ちなみに私と一緒に中学数学をマスターした杏里は、誇らしげにVサインをしてみせた。


「まあ、そうね……もしad-bcが0なら、逆行列は存在しないから、したがって、該当する連立方程式は解が一つに定まらないことになるわね」

「0割りの結果として出てくる、不能や不定みたいになるんですね」

「うん、まさに連立方程式でも、解がなければ“不能”、解が無数にあれば“不定”と呼ぶよ。ちなみに、逆行列が存在するかどうかを判定する、ad-bcのような式を“行列式”と呼んで、逆行列が存在する行列は特別に“正則行列”と呼んでいるわ」

「当然、ad-bcは、2×2の行列だけのものですよね?」

「ええ。行列式は正方行列……つまり縦と横の個数が等しい行列のみに定義されるけど、もちろん行列のサイズによって行列式の形は変わってくるわ。例えば、3×3や4×4の行列の行列式は、こんなふうになるよ」


 巴さんはノートに長い数式を、いとも容易くさらさらと書いていった。

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

「ちなみにdetは、determinant……行列式を意味する英語の略だよ」

「わあ、何となく予想はしてたけど、すごく複雑になるねぇ……」

「でも、どことなく法則性があるような……ちょっと確認してみるか」


 私はこの複雑な式を見ているうちに、行列式の導き方に見当がついた。巴さんの書いた数式の隣に、同じ3×3の行列を三個書いて、二色のマーカーで大事な箇所を塗った。


「添字に注目すると、どの項でも、添字の左側の数字は1,2,3の順に並んでいて、右側に関しては、1,2,3の並べ替えの全パターンが網羅されている……項の順番は、1,2,3の並べ替えを辞書順に並べていますね。意図的に」

「まあ、ね……」

「問題は足すか引くかの符号だけど、最初の2項に注目すると、先頭の因子のa11で括った残りが、元の行列でa11を含む縦と横の列を取り除いた後に残る、2×2の行列の行列式と一致している」

挿絵(By みてみん)

※正確には、縦の並びを“列”、横の並びを“行”と呼んで区別するのが一般的です。


「本当ね。真ん中の、a12を含む2項は符号が反転しているけど、最後の、a13を含む2項は、a13で括ると2×2の場合の行列式が出てくるわね」

「つまり、3×3の場合の行列式は、こういう構造になっているんだ」


 (3×3の行列の行列式)

 = a11 × (a11を含む縦と横の列を除いた2×2行列の行列式)

  -a12 × (a12を含む 〃 )

  +a13 × (a13を含む 〃 )


「そして、4×4の行列でも同様に、3×3の行列式を使っているのでは?」

「すごいわね、初見で行列式の法則を看破するなんて……いま蘭子ちゃんが言った、a(ij)を含む行と列を取り除いてできる、縦と横の個数が1つ減った行列の行列式に、-1をi+j回かけた値を、専門的には“余因子”と言うの」

挿絵(By みてみん)

「a12を含む部分だけ符号が入れ替わるのは、1+2=3が奇数だからなんですね」

「この余因子は、行列式を計算するだけでなく、実際に逆行列を求める時にも使われるの。ただ……余因子を使った逆行列の式は、逆行列の性質を探る時は便利だけど、具体的に逆行列の数値を計算するのに使うのは、クソが付くほどめんどくさいから、あんまりお勧めしないわね」

「爽やかな笑顔でクソとか言ったよ、この人……」


 後で私も、余因子を使った逆行列の計算法を調べたが、確かに巴さんがクソめんどくさいと言いたくなるほど手間がかかる。2×2の行列の逆行列を求めた時と同様、連立方程式の解き方をトレースした、“掃き出し法”を使った方がよほど簡単だ。

 ちなみに数学で“トレース”と言えば、行列の左上から右下への対角線上にある要素の合計を指す言葉だ。どうでもいいが。


「それにしても、どうしてこの方法で求めた行列式が、逆行列が存在するか判定するのに使えるのでしょうか……」

「その辺りの証明にも、まさに余因子が役に立つのよ。線形代数に関する本を探して調べてみて。ちょっと難しくなるけど、君たちならきっと理解できると思うよ」

「線形代数かぁ……帰りに本屋さんで探してみようかな」

「杏里、先に買うのはずるいぞ。入院している私の分も買ってくるんだ」

「一緒に読めばいいのに……」


 そんなやり取りを、たぶん巴さんは微笑ましく見守っていたと思う。

 その巴さんを、離れた所から呼ぶ声が聞こえてきた。


「あっ! 留実さん、こんな所にいた!」

「どうしたの、愛鐘?」

「どうした、じゃないよ。もうすぐ検査の時間なのに、全然散歩から戻ってこないんだから、心配で探してたんだよ」


 ブレザーの制服に身を包んだ、巴さんと同じくらいの背丈の女学生が、腰に手を当てて仁王立ちしながら憤慨していた。言うまでもないが、彼女が、まだつばき学園高校の生徒だった頃の元杉愛鐘である。

 愛鐘先輩を心配させて、叱られているというのに、巴さんは少しも悪びれずへらへらと笑うばかりだ。


「あれ、もうそんな時間かぁ。この子たちと行列の話をしていたら夢中になっちゃって」

「行列の話って……そんな子どもを相手にして話すことじゃなくない?」

「いやいや、全く侮れないよ、この子たち。連立方程式から行列の考え方を思いついて、逆行列の概念も余因子も、自力で辿り着けるほどだし。中二なのに信じられる?」

「…………」


 巴さんの信じがたい一言に、愛鐘先輩はしばし呆然として無言になっていたが、急に恍惚の表情でニヤリと口角を上げて、気味の悪い笑い声を漏らし始めた。


「え〜、何それ、天才の所業じゃない。たまらんわぁ〜……うへへ」


 紛うことなく変質者だ、と思った。どうやら巴さんはこの反応に慣れているらしく、平然としながら私たちに言った。


「よかったねぇ、愛鐘に認められて」

「絶妙に嬉しくありません……」


 杏里は青ざめた顔で言う。まあ、変質者に目をつけられて喜ぶ人もそうはいるまい。

 幸い、愛鐘先輩はすぐに変質者の表情をやめて、私たちの元へ歩み寄ってきた。警戒心を抱かれた自覚はあるらしく、怖がらせないよう慎重な足取りで。


「ごめんね、驚かせて。賢くて見込みがありそうだと思うと、つい嬉しくなって……」

「なんというか、個性的な喜び方ですね」

「あっ、私は元杉愛鐘。一応、この人の同級生で、同じ部活の部員同士なの」

「こらこら、一応は余計だし、人を指差すのもやめんしゃい」


 なぜ博多弁?


「同じ部活、ですか?」杏里が尋ねる。

「そうだよ。あっ、君たちならきっと興味を持つんじゃないかな、私たちの部活」

「興味?」

「そう。私たちが入っているのは、私立つばき学園高校の数学研究クラブ……“マス部”という愛称を持つ、数学の研究に特化した部活動なのよ」

「数学の……」

「研究……」


 その時確かに、私と杏里はその部活に心惹かれた。小さい頃から大好きな数学を、高校で思う存分極めることができる。これほど理想的な部活があるだろうか。

 たぶん揃って目を輝かせていただろう、私と杏里に、巴さんは期待の眼差しを込めて微笑んだ。


「二人はまだ二年生だけど、興味があるなら部室に来てみる? つばき学園を受験するなら、いい体験ができるかもよ」

「「いいんですかっ!?」」

「二人とも本当に息ぴったりだねぇ」

「いや、部室に来てみるって……うちの高校は基本的に部外者は入れないでしょ」


 愛鐘先輩は肩を竦めて呆れていたが、巴さんはまるで気にしていなかった。


「今度の学園祭なら、部外者でも自由に出入りできるじゃない。この子たちのために目一杯のおもてなしをしてあげなさい。もちろん数学絡みで」

「自分はしばらく入院するからって、私と沼倉先輩に全部押し付けるつもりか」

「いいじゃない。愛鐘ならいいおもてなしができると信頼して言ってるのよ」巴さんはウィンクしながら愛鐘先輩に告げた。「未来の後輩になるかもしれないんだから、思い切り楽しませてあげて」

「…………」


 無茶な頼み事でも、信頼していると言われて悪い気はしないのか、隠しきれない照れを滲ませながら、愛鐘先輩は閉口した。すぐに口を開いて、ため息をついたけど。


「はあ……そこまで言われたら、なんとかやるしかないかぁ」

「うんうん、愛鐘なら引き受けてくれると思ってたよ」

「こいつ抜け抜けと……」

「学園祭か……楽しみだな、杏里」

「そうだね、蘭子ちゃん」


 つばき学園高校の学園祭は十月の開催なので、もう少し先のことではあったが、それでも私と杏里はワクワクと胸を躍らせていた。高校の学園祭は、中学のそれとはきっと一味違うだろうと、中学生は憧れと期待を抱くものなのだ。

 しかし、全ての高校生が学園祭に青春を捧げるとは限らない。どうやら愛鐘先輩もその類いだったようで、心底面倒くさそうに肩を落としてため息をつく。


「あーあ、どうせ学園祭でもマス部には誰も来ないから、みんながワイワイやっている横でダラダラしていたかったのに」

「学校行事への意欲が低すぎませんか」

「私は留実さんに誘われて、マス部に入るためだけにつばき学園を受験したからね」

「あそこって、伝統と格式を重んじるお嬢様学校では?」

「そんなのずいぶん昔に廃れたよ。淑女を育てる学校なんて、今どき流行らないし。挙げ句にこんな人が入れるくらいだから」

「こらこら、恩人を指差してこんな人とか言うのはやめんしゃい」


 だから、なぜ博多弁?

 愛鐘先輩に色々と悪しざまに言われても、笑顔で受け流す巴さんは、その笑顔のまま私たちに向き直って、改めて誘い文句を投げかける。


「まあそういうわけだから、別につばき学園に入るのにお嬢様らしくいる必要なんてないし、受験も気楽にやればいいよ」

「そもそもつばき学園を受けると決めたわけでもないでしょうに……」

「いえ、極めて強い興味が湧きました」

「蘭子ちゃん、気が早い……」


 ……そんなふうに、私と杏里は、巴さんと愛鐘先輩の二人と出会った。当時まだ中学二年生で、受験のことはほとんど意識していなかったが、あの出会いをきっかけに、私たちはマス部目当てにつばき学園を受けると決めたのだ。……私が一人で勝手に決めて、杏里はついてきただけのような気もするが。


「あの時は家の人にずいぶん驚かれたな。同じ市内とはいえ、私立の女子校を受験すると言い出したものだから……しかもまだ受験生ですらなかったのに」

「マス部目当てで受験するって話したら秒で納得されたけどね」

「なんであんなすぐに納得したんだろうな」

「…………」


 私は今でも分からない。自分の体の問題もあって、通常どおりの受験ができるかすら怪しかったから、馴染みのない私立を目指すことに、周囲の人たちが難色を示すのは理解できる。だが、マス部の名前を持ち出しただけで、全員があっさり応援に回った。私はそれまで存在を知らなかったが、マス部はそれほど信頼のおける部活として有名だったのだろうか。

 杏里はその理由に心当たりがあるのか、なぜか苦笑いをしている。


「まあとにかく、早い段階で進路を決められたのはよかったな。おかげで受験勉強も難なく進められた」

「蘭子ちゃんなら直前で進路を決めても、普通にどこでも合格したと思うけどね」

「そういう杏里だって、特に受験勉強に苦労していた印象はなかったが?」

「こう見えてもわたしは、蘭子ちゃんと並び立てるように結構努力したんだよ?」


 杏里は朗らかな笑みを崩すことなく言う。その努力をほとんど表に出さず、こうして不言実行を成し遂げるのだから、杏里も大した人物である。


「無事につばき学園に入学して、念願のマス部にも入部して、愛鐘先輩や純先輩にも歓迎されたよね。今でも思い出すなぁ」

「ああ、沼倉先輩がお近づきの印にと、関数電卓の表示限界を利用したトリックで私たちを驚かせたりしてね……とっくにマス部の正式な部員じゃなかったのに」


 一部の10桁表示の関数電卓を使って、e^(π√43)を計算すると、なぜか答えは整数になる。もちろん厳密には整数じゃないが、あまりにも整数に近い実数であるため、電卓によっては小数表示ができなくて、整数を表示してしまうという。

 ちなみにe^(π√67)やe^(π√163)も、極めて整数に近い実数となる。特に後者は、数学系パズル作家のマーティン・ガードナーが、エイプリルフールのネタに使ったことでも有名だ。

 まあ、そんな感じで手荒い歓迎を受けて、私と杏里はマス部の部員となった。しかし……。


「でも、巴さんはもういなかったね……」

「そうだな……私たちが入学した時には、意思疎通すらできなくなっていたらしいし」


 あの時のことを思い出して、私も杏里も声色が重くなった。

 私たちが入学する少し前に、巴さんの病状が急激に悪化して長期入院になったと、沼倉先輩は話していた。すでに体力もかなり落ちていて手術もままならず、昏睡状態に陥っているという。

 入部歓迎会の最中に、私が巴さんのことを尋ねたら、途端に場の雰囲気が暗く沈んで、歓迎ムードは霧消してしまった。愛鐘先輩も悲痛な表情を浮かべていたことを、今でも覚えている。あの時は知らなかったとはいえ、申し訳ないことをしてしまった。

 以来、去年までのマス部の関係者の間で、巴さんのことは大きな屈託となっている。そのことをまだ知らないのは、茉莉だけだ。


「……巴さんはあれから一年以上、意識の混濁した状態が続いていると、担当医の先生が言っていた。もしかしたら、来年まで持たないかもしれないらしい」

「…………」


 杏里は無言で私を観察するように見つめてから、静かに口を開く。


「ねえ、蘭子ちゃん……どうして、巴さんが入院している場所を、愛鐘先輩に教えてあげないの?」


 ……私は返答に詰まった。このことは杏里も知らないことだから、いつか投げかけられる疑問だと予想してはいたのだが。

 単純な答えだけで済むのなら簡単だ。巴さんが今の病院に転院する前、私は一人で巴さんを見舞ったことがあり、その時に転院先のことを愛鐘先輩には内緒にしてほしいと、本人に頼まれた。それだけだ。

 ただ、その頼み事の意図は決して単純じゃない。


 どこに転院したのか、巴さんは私にも教えてくれなかった。よく分からないまま私はマス部に入り、そこで、巴さんの病状がかなり悪化していることを知った。愛鐘先輩も沼倉先輩も、その事実は人づてに聞いただけで、現在の入院先がどこなのかは把握していなかった。

 その後、ふとした偶然で、愛鐘先輩が部室に置き忘れていた手帳を見つけた私は、最後に書かれていた短い数列に気づいた。


 13 → … → 321 → ? → 1091 → 2369 →


 何らかの予感を覚えた私は、数列を記憶して、素知らぬ顔で愛鐘先輩に手帳を返した。そして杏里にだけ事情を打ち明け、二人でこっそりこの数列クイズを解いた。数字の書き癖から、恐らく巴さんが残したものだと推察した私たちは、クイズの答えを頼りに、巴さんが入院している場所を突き止めた。

 そして、ここから先は杏里にも話していないことだが、私は巴さんの病室に辿り着いたことで、巴さんが自分の居場所を愛鐘先輩に内緒にするよう頼んだ、その真意を悟った。

 最初は、弱った自分の姿を親友に見られたくないだけだと思っていた。だがそれなら、自分の居場所に到達するためのヒントを、愛鐘先輩の手帳に書き残すはずがない。しかもあの数列クイズは、愛鐘先輩が研究していたゼッケンドルフの定理を序盤で使う。誰よりも早く解ける可能性が高いクイズを、ヒントとして愛鐘先輩の手帳に残したのだから、解いてほしいという意思が巴さんにあったのは明らかだ。

 きっと巴さんは、日に日に悪化していく自分の病状を、愛鐘先輩に見せたくないと思いつつも、一緒にいてほしい、という気持ちも強く、二律背反の心境にあったのだ。

 そしてもう一つ……愛鐘先輩は恐らく、もう手帳に書き残されたクイズの存在に気づいていて、実はもう解けていたのではないか。答えの数字は607で、それが病室の番号を示しているとしたら、その番号の病室があるのは志山記念病院だけだと、愛鐘先輩もとっくに気づいていたのでは? いつも持ち歩いている手帳に、書いた覚えのない数列クイズがあれば、書いたのは巴さんだと愛鐘先輩ならすぐに気づく。そして、真っ先にゼッケンドルフの定理を利用することを思いつき、答えに辿り着いてもおかしくない。

 それでも愛鐘先輩は、一度としてあの病室を訪ねなかった。もしかしたら、行く勇気がなかったのではないか。人に聞いた話だけでも、巴さんの状態が芳しくないことは容易に想像できる。もし、想像よりも酷い状態になっていたら……巴さんのその姿を、自分はまともに直視できるだろうか。


 ……何の根拠もない、ただの妄想だ。巴さんや愛鐘先輩が何を思っているのか、正確に推察するすべを私は持ち合わせていない。

 だが、否定することもできない。だから私は何もできずにいる。

 巴さんは言わないように頼んだ。だが内心では愛鐘先輩に来てほしいみたいだから、話した方がいいのか。しかし愛鐘先輩は答えを知りながら行くことができずにいるから、打ち明けると逆に愛鐘先輩を追い詰めることにならないか。

 そんな二律背反が私にもあって、どうすればいいか分からずにいる。私が事実を愛鐘先輩に伝えないのは、それが理由だ。


 だけどこのことを、杏里に告げるつもりはない。巴さんに頼まれたから、と答えただけで、杏里がそのまま納得するとは思えない。何しろ杏里は、手帳の数列クイズの存在を知っている。この事実も絡めれば、もっと深い理由があるのだと察してしまう。

 例えば、どうして私一人で巴さんを見舞ったことを秘密にするのか、と疑問を抱かれたら、きっと私は答えられない。


『……君ならきっと、分かるはずだよ』


 転院先のことを愛鐘先輩に伝えない理由を尋ねた私に、巴さんはそう告げた。数学以外では察しがあまりよくないと自覚している私でも、巴さんの意図が分かると、彼女は確信していた。

 当たっていた。私には巴さんの考えることが、あまりにもよく分かる。だからこそ、あの病室に辿り着いた瞬間、巴さんの真意に想像が及んでしまったのだ。

 なぜ分かるのか。簡単だ。

 巴さんにとっての愛鐘先輩は、私にとっての杏里だから。そして今は、そこに茉莉も加わっている。

 だから、杏里には言えない。もちろん茉莉にも言えない。いずれその時が来たとき、二人には私の真意を悟ってほしくないから。

 ただ一つ、今の私が杏里に言えることがあるとしたら……。


「……愛鐘先輩は、今は巴さんの所へ行く勇気がなくても、いつかは行くべきだと思う。本当に手遅れになる前に」

「…………そうだね」


 さすがと言うべきか、これだけで杏里は察してくれた。ここが、察しが悪いと言われがちな私とは違う。澄んだ水のせせらぎのような声が、静かな部屋に聞こえてくる。


「きっと、愛鐘先輩にとっての巴さんは、わたしにとっての蘭子ちゃんと一緒だから」

「? それって……」


 よもや察しが良すぎて、私の真意を残らず看破したのかと思った。それは、私が杏里に抱いている想いを、そのまま立場を入れ替えたものに他ならないから。

 だが、そうではなかった。落涙を堪えるように目にしわを寄せ、杏里は私に真っすぐ視線を向ける。


「愛鐘先輩にとって巴さんは、かけがえのない女性なんだよ」


 ……本当に、呆れるくらい、私は察しが悪いみたいだ。


  * * *


 愛鐘とは、コンビニの駐車場で合流した。少しずつ陽が傾いてきているが、それでも外の暑さはあまり和らいでいない。そんな中、申し訳ないと思いつつ、愛鐘には車の外に出てもらって、話をすることにした。アイドリングはしたくないが、エンジンを止めた車中は熱がこもるので、屋外の日陰の方がマシだと考えたのだ。

 コンビニの日陰に置かれたベンチに腰かけて、ペットボトルの水をちびちびと飲んでいる愛鐘に、私は事の次第を説明している。愛鐘の手元には、すでに例の小箱があった。


「……というわけで、箱を開ける方法が分かったら、自動的にあの数列クイズの答えも分かるようになっていたわけだ。まさか、あの新入りに数学で先を越されるとは、私としたことが不覚だよ」

「あはは……やっぱりあの子、見どころがあるなぁ。さすが、あの二人が気に入るだけのことはある」

「…………」


 強烈な違和感がある。なぜ愛鐘は少しも驚かず、他人事のように笑っているのだろう。自分のかつての研究分野を利用した暗号を、後輩が自分に先んじて解いたことに、何も感じるものがないのか。

 ……いや、そうじゃない。少し考えれば明らかだ。


「愛鐘、お前……知っていたのか。あの数列クイズの答えを……留実が、どこにいるのかを」

「…………」


 愛鐘は何も答えず、弱々しい笑みを浮かべて遠くを見ているだけだ。だがその沈黙が、全ての答えを雄弁に物語っている。

 愛鐘はとうの昔に、留実がどこの病院に移ったのか分かっていた。しかし、その場所を訪ねようとしなかった。なぜなのかは、すでにさっきの電話で、愛鐘自身が泣きそうな声で言っていたとおりだ。

 ……勇気がなかったのだ。今の留実の状況を目の当たりにする、その勇気が。


「……会いたい気持ちが、ないわけじゃないんですよ」


 唐突に愛鐘は口を開き、独り言のように、私と目を合わせることなく話し始めた。


「ただ、あれから一年以上が経っていますし、私も大学で思う存分数学ができているので、留実さんのことは早く、終わった話にして、私は自分の道を歩き始めたいんです」

「自分の道……」

「留実さんのことを忘れるつもりはもちろんないですよ。だけど、叶わない望みに囚われて一歩も進めなくなるのは、きっと留実さんも本意じゃないだろうから……」


 言いたいことは分からなくもない。叶うかどうかも分からない望みに拘泥するのは不毛だ。忘れるという薄情なことはせずとも、吹っ切るくらいのことは必要だろう。今の私だって、留実のことに関しては、だいぶ吹っ切れたつもりだ。

 だけど、愛鐘の場合にも同じことが言えるのか? 本当に?

 私は、心に引っかかりを覚えたとき、絶対に考えることをやめないと決めている。それは数学徒を志す者として、数学という真理を探究する者として、絶対にあるべき姿勢だからだ。

 人間はとかく、考えることをやめた瞬間から、間違った道に進んでしまう。大事なのは間違えないことでなく、間違いに気づいて引き返すことだ。それは、弛まず考えることでしか実現できない。数学という真理も、何度も間違っては引き返し、正しいと信じられる物事を積み重ねて、今に至っている。

 私は考えた。そして、考えたことを愛鐘に伝えることにした。コンビニの外壁にもたれて立って、私は虚空を眺めながら、愛鐘と目を合わせずに言った。


「……数学、あるいは数学を含めた、俗に言う理系科目は、答えが一つしかないから、色んな答えが必要な実社会では役に立たない、というふざけた言説は今でもよく聞く」

「どうしたんですか、突然?」

「確かに数学は、正しい答えがいつも一つに決まっていて、融通が利かないと思われがちだが、その考えには見落としがある。数学で答えが一つに決まるのは、問題を解くのに必要な条件が、過不足なく揃っている場合に限られる」


 だから私はいつも思う。社会はいつも多様な答えを求めたがるが、その手の主張はたいてい、多様性を盾にして自分の考えを正当化するときに使われる。もちろん社会に転がっている問題は単純でないことが多いし、多様な選択肢を用意して吟味するのは大事だ。だがそれは、正解を一つしか認めない数学を、社会において切り捨てる理由にはならない。

 そうした主張に対して、私ならこのように切り返す。世の中に正解が一つと限らないと言われるのは、正解を一つに絞るための条件が足りていないからじゃないか、と。


「例えば、平行でなく一点で交わらない3本の直線に囲まれた三角形の、内角の大きさの合計は……という問題は、これだけだと正解を一つに絞り込めない」

「そうですね……ユークリッド平面ならπだけど、球面ならπより大きく3π未満のどれかだし、双曲面なら0より大きくπ未満のどれかになりますね」※弧度法です

「あるいはもっと単純に、1+1はどんな値かと聞かれたら、具体的な数値を即答できる数学者はまずいないだろうな」

「確かに、代数系を指定しないと、2でも10でも0でもよくなりますね」


 そう。数学に疎い一般人は、2以外の答えなど考えもしないだろうが、2進法なら答えは10になるし、ブール代数なら0になる。これらの条件が指定されていない以上、1+1に一つの決まった答えは出せない。

 与えられた問題を解くだけの勉強しかしてこなかった人には、数学ではいつも答えが一つに決まっていると思われがちだ。しかし、それは答えが一つに絞られるように、問題作成者が条件を適切に用意しているからだ。現実に起きる問題は、いつも条件が綺麗に用意されているとは限らない。だから答えが複数あるように錯覚するのだ。


「数学は、答えが一つであることがデフォルトじゃない。答えを一つに決めるために必要な条件を、過不足なく揃えて、初めて問題の解決に着手できるんだ。同じことは実際の社会にも言える。どんな社会問題だって、最終的には必ず結論を一つに決めないといけないのだから、やることは数学とほとんど変わらない。ならば、結論を出す前に、必要な条件がちゃんと揃っているか確認するのは当然だし、条件が揃ってもいないのに結論を出す奴がいるとしたら、そいつはただの馬鹿だ」

「あの……さっきから何の話を?」


 おっと、脱線しすぎたか。社会で持て囃されるくだらない考えに対する、私自身の鬱憤が混じってしまっていた。

 数学を絡めたことで、愛鐘が興味を惹かれてこっちを見てくれたから、私も今度は愛鐘の方をちゃんと見て、伝えるべきことを伝えよう。


「愛鐘……お前が留実の元へ行く、その答えを導出するための条件は、もうすでに出揃っているんじゃないか?」


 愛鐘の目が大きく開かれた。頼むから、私の言葉が尽きるまで、その目を逸らさないでくれ。


「留実がどこの病院のどの病室にいるのか、お前は知っている。留実がお前に向けて残した謎の答えを、マス部の後輩も把握している。お前には、留実に会いたい気持ちがまだ残っている。そして何より……」


 私は視線を、愛鐘の手元に向ける。渡したのに、まだ開けて中身を確認していない、あの箱が両手に包まれている。


「たとえお前に、留実と会う勇気がまだないとしても、今お前が手に持っているその贈り物が、現実から目を背けることを許さない」


 愛鐘はぐにゃりと顔を歪ませ、じりじりと徐ろに自分の手元へ視線を移す。その箱の中に何が入っているのか、全く予想していないわけでもないだろう。だが、開けて確かめないわけにはいかない。


「……その贈り物を、お前は絶対に手放せないだろう。手放せないなら、どんな言い訳を並べても、留実のことを終わった話にすることは不可能だ。まして、悔恨を残したままあの子が力尽きれば、一生この話が終わることはないだろうな」

「…………!」


 愛鐘にとっては酷な言葉だろうが、それでも言わせてもらう。私も留実の状態を詳しくは知らないが、恐らく、予断を許さない段階まで来ているのだろう。迷っていられる猶予など、ほとんど残っていないのだ。

 皮肉ではあるが、私が二人のために与えられる慈悲は、愛鐘にとって無慈悲な言葉以外になかった。


「愛鐘、もう時間切れだ。その箱の封印は解かれて、お前の手に渡った。もう、お前が留実の元に行かないという選択肢は、潰れたんだよ」


 箱を包む愛鐘の両手に、ぐっと力が入ったように見えた。重荷を背負うように項垂れる愛鐘は、かすれた声を漏らした。


「……会ったところで、私に何ができるのかな」

「知るか」私はピシャリと言い放つ。「テメェは医者じゃねぇんだ。奇跡でも起こせなきゃ病人の見舞いに行くこともできないってのか?」

「……純先輩、急に突き放したような言い方しないでくれます?」

「そっちがいつまでもウダウダ悩んで行動に移さないからでしょうが。別に、好きなようにすればいいんじゃない? 愛の証に指輪交換して誓いの言葉でも告げたらいいさ」

「面倒くさそうに耳をほじりながら適当に済ませないでくれます? というか、やっぱり箱の中身、指輪なんですね」

「予想どおりだった?」

「留実さんなら何となく気に入りそうだと思いまして」


 さすが、私よりも留実と濃密な付き合いをしてきただけあって、彼女の嗜好をよく把握しているようで。


「ん? 指輪交換?」愛鐘は首をかしげた。「純先輩、箱の中身を知りすぎじゃないですか? 指輪交換って、同じデザインの指輪が二つないと成立しませんよね」

「うっ」


 しくじった、と思ったがもう遅い。留実が用意したものを、私が渡すのも違うと思い、箱のことは愛鐘にずっと黙っていた。当然中身についても、私が事前に把握していたことも含めて話していない。だが私は今、墓穴を掘った。

 愛鐘がジト目で私を見ている。なんだか居たたまれなくて、私は目を逸らした。


「ひょっとして純先輩……留実さんに見せられましたか。同じデザインの二つの指輪、ペアリングを。そして私にはその事をずっと黙っていたんですね。大方、留実さんからの頼みで」

「…………」


 冷や汗が湧いてきた。

 確かに、留実は箱を解錠する番号を、愛鐘にクイズの形で解かせるつもりでいたから、中身に関しては完全にサプライズということになる。この企みを知っていたからこそ、誰かが箱を開けるまで、私の口から中身のことを話すわけにはいかなかった。間接的ではあるが、留実からの頼みだとも言える。

 くだらない話だと思う。もし他の奴が同じことを企んでも、私は面倒くさがって早々にネタばらしをしていただろう。浮き世の義理など知ったことじゃないからだ。だが……留実だけは別だ。


「まあ、あいつは同い年の中で唯一、私と話の合う奴だったからな。面倒でも、あいつとの義理くらいは守ろうと思ったんだよ。特に、あいつが愛鐘を想って用意したものだから、なおさら無下にはできなかったんだ」


 妙に気恥ずかしいことを打ち明けた私に、愛鐘はふっと笑って告げる。


「じゃあ、留実さんと私のために、純先輩には指輪交換に立ち会う神父役を頼もうかな」

「砂糖吐きそうになるからヤダ」


 同い年で昔馴染みの後輩と、一年下の後輩が、契る儀式みたいに指輪を交換して愛を誓い合う……どんな気分で立ち会えばいいというのだ。ただその場にいるだけの神父役なんて、邪魔者以外の何者でもない。


「さて、先輩のおかげでウダウダ悩むのがバカバカしくなったし、指輪持って留実さんの所へ行きますか」

「……へいへい」


 さっきまでの落ち込みは何だったのか、愛鐘はすっかり立ち直って、留実のいる病院へ向かう決心がついたらしい。まあ、私がこいつの悩みを一刀両断したおかげなら、面倒でもこうして腹を割って話した甲斐はあった。留実への義理は充分に果たしたと言ってもいいだろう。

 とはいえ、また愛鐘が心変わりしてもいけないし、私も一年ぶりに留実の顔を見たいから、病室までは一緒に行くとしよう。

 愛鐘がベンチから立ち上がり、私と共に車へと向かう。病院の面会時間は限られているから、なるべく急いだ方がいい気もするが、私たちの足取りは重くもなく、焦るわけでもない。ただ仲のいい友人に会いに行く、その程度の気軽なものだった。


  * * *


 しばらくお互いに、沈黙の時間が続いた。

 杏里の部屋のベッドに並んで腰かけ、私たちはじっと動かずにいる。カーテンの開かれた窓から入る外光がじわじわと弱まり、静かな部屋が薄闇に染まっていく。単なる印象だが、数学者の居室はこんな感じなのだろう。薄暗いことを気にかけず、好きな物で自分の周りを満たし、何者も寄せ付けず黙々と作業するような……そんなイメージだ。

 だが一つ、決定的に違う点がある。数学者の静かな時間とは異なり、今この時間に、生産性はない。


 杏里が私に告げた言葉を、できる限り早く、できる限り丁寧に咀嚼していく。杏里にとっての私は、愛鐘先輩にとっての巴さんと同等であり、愛鐘先輩にとっての巴さんは、かけがえのない女性である。友人ではなく、女性であることを強調している。

 つまり、杏里にとって私は、女性としてかけがえのない存在である。論理的に考えて、これ以外の帰結はない。

 それは、まあ、要するに。


「今のは……告白、なのか?」


 よりによって、沈黙を破るひと言が、思考を終えた弾みで口をついたものとは……我ながら情けない。

 横目でちらっと見ると、逆光の中でも分かるくらい、杏里は顔を赤くして、口元を強く結んで俯いていた。私はどうだろう。自分の表情を上手く認識できない。ただ、鏡を見て確認することを避けたい気持ちの方が強い。

 杏里からの返答はない。だが、赤面と無言は充分に、肯定と解釈できるものだ。

 なんというか、デートの最後に告白というのは、オーソドックスが過ぎる。ベタな展開と言ってもいい。これが私の心を乱す作戦だとしたら、その効果は抜群だと断言できる。おかげで今の私は、くだらない事しか言える気がしない。


「えっと……奇妙な話だな。告白されるなんて生まれて初めてだ。その相手がまさか幼馴染みとは……」

「言うつもりなんてなかったよ」


 私の発言を遮るように、杏里ははっきりとした声で、そのひと言を放った。元々、遮られた先の言葉なんて用意していなかったが、それ以上の発言を禁じるような杏里の強い口調に、私は些細な驚愕を覚えた。


「蘭子ちゃんとは、昔から一緒にいるのが当たり前だったし、それだけでわたしは満足だったから、今よりもっと深い仲になることなんて考えてなかった。だけど、いつまでもこの関係が続くわけじゃないって、頭では理解しているのよ。愛鐘先輩と巴さんみたいに、不慮の出来事で離れることだってありうるし、それに……」


 泣きそうな、悔しそうな、怒っているような……名状しがたい表情でまくし立てていた杏里の独白が、途中で堰き止められた。その後の、絞り出された言葉に、私は目を見開くことになる。


「蘭子ちゃんが、わたし以外の人を、選ぶことだってありうるから……」


 ……頭の中で整理される前に、ほとんど反射的に、胸の奥がざわついた。

 私が深い関係になりたいと願う相手に、杏里以外の人を選ぶ可能性がある。確かにそれは、将来的にゼロではないだろう。だが杏里はその可能性を強く意識していた。意識せざるを得ないから、予定外の告白に及んだと言える。

 では、その相手とは誰か。これまでの杏里の言動を顧みれば、少なくとも彼女が想定している相手は、一人しかいない。


「それは……茉莉のことか?」


 聞かれたくないかもしれないが、それでも私は確認した。確かめずにはいられなかったから。

 杏里は一瞬、横目でちらっと私を見て、また視線を背けてから、遠慮がちにこくりと頷いた。認めるのは躊躇われるが、私が杏里以外を選ぶとしたら、茉莉しかいないと考えている。

 私が、茉莉を、選ぶ。


「…………そっ」


 それはもはや、私が無意識のうちに茉莉へ向けていた感情を、真正面から指摘するような行為であって、情けないことだが、羞恥が露顕するのを抑えられない。


「そういうことを改めて言われると、なんというか、妙に気恥ずかしいな……」

「!?」杏里が目を丸くして私に振り向く。「……もしかして、自分では気づいてなかった?」

「……最近、調子が狂うとは思っていた」

「以前から何となく疑ってたけど、蘭子ちゃんって人の気持ちに鈍感すぎるよね。自分の気持ちすらちゃんと認識できないとか……わたし、それっぽいヒントはあげたよね?」

「あー、今にして思えばアレもヒントではあったな……」


 杏里の冷たい視線が刺さって居心地が悪い。科学研究発表会の時の、杏里が私にかけた言葉……私が茉莉に向ける感情が、杏里では変えられなかった私を変えるものだ、という主旨だったと思う。妙に心に引っかかる類いの言葉だったが、結局私は、杏里の真意に辿り着くことができなかった。

 数日ほど遅れたが、ようやく私は自分の気持ちと、杏里の真意を理解したと思う。平たく言えば、私は茉莉に、部活の後輩という以上の強い感情を抱いているのだろう。ひと言で的確に言い表せるだけの、文学的語彙は持ち合わせていないが、たぶん、杏里が私に向けている気持ちと、大きな違いはない。

 そして、導かれた結論を踏まえて、私から今の杏里に言えることは一つだ。


「ただ、安心してほしいとは言えないが……」

「?」

「少なくとも私は、たとえ茉莉への感情に確信を持ったとしても、杏里を差し置いてまで、茉莉と深い関係になりたいとは思わないよ」


 天井を見上げながら告げたから、隣にいる杏里の反応は見えない。だけど微かに、深く息を吸い込む音がした。無言だが、もしかしたら感極まったのか……というのは自惚れかもしれない。

 いや、意外と自惚れでもなかった。隣を見たら、杏里は目を潤ませて頬を染め、口元をきゅっと結んでいた。その表情がとても新鮮で、私は自然と笑みがこぼれた。


「杏里にとって私が、かけがえのない存在であるように、私にとっても杏里は、替えの利かない存在なんだ。こんなに趣味が合って、一緒にいることにまるで疑問を持たない友人なんて、きっとこの先現れない。こればかりは、茉莉でも代わりにはならないさ」

「蘭子ちゃん……」


 うん、言っていてちょっと恥ずかしくなってきたな。こんなことを本人の前で自供するなんて、全く私らしくない。私はスッと目を逸らしてから続けた。


「だからまあ、現時点での私の希望としては、今のまま三人で仲良くいられたらそれでいいんだよ。その方が、杏里と茉莉のどちらを選ぶのか、なんて面倒なことを考えなくて済む」

「面倒って……」杏里は口を尖らせる。「わたしは真剣に告白したつもりなんだけど?」

「どうせ返事なんて求めてないでしょ? 茉莉との関係が悪くなるのは、杏里だって本意じゃないだろうし」

「それは、まあ……」

「でも、そこまで私を好いていてくれるのは、本当に嬉しいよ。ありがとう」


 期待する返答ではないかもしれないが、今の私の率直な気持ちを、私は驚くほど躊躇わずに伝えられた。人生で初めて告白してきた人が杏里でよかった、そう心から思える。


「……もう、しょうがないなぁ」


 そして杏里は、いつも私に見せている、困ったようで嬉しそうな、朗らかな笑みを浮かべてみせたのだった。


  * * *


 大好きな蘭子をデートに誘って、予定にはなかったけど、かねてから抱いていた好意を告白して、結局蘭子からの答えは、わたしも茉莉も大事だからこのまま三人で仲良くしていたい、との事だった。まあ、茉莉を差し置いてわたしと蘭子が付き合う、という展開はわたしも考えにくかったから、蘭子らしくて満足のいく返事ではある。

 本当に、揃いも揃って、厄介な感情を抱いてしまったね。これも幼馴染みの宿命なのだろうか。


「今日のことは、茉莉には黙っていた方がいいのかな」


 腰かけていたベッドから先に立ち上がり、蘭子はわたしに確認してきた。


「そうだね。混乱させるのも悪いし、こういう三角関係は、ただでさえ元の関係を悪化させかねないから」

「おや? 現時点で判明している感情のベクトルを図示しても、三角関係というより折れ線関係じゃないか?」

「そんなこと言い出したら、あらゆるラブコメの三角関係が当てはまって、より面倒なことになりそうだけど……」


 もっともこれは、茉莉がわたし達のことをどう見ているかに依るだろう。場合によっては、三角関係ないしは折れ線関係より厄介な事態になるかもしれない。

 すると、蘭子は何かに気づいたように、顎に手を当てて真剣な顔つきになった。


「ふむ、三角関係、か……」

「あ、なんか嫌な予感」

「よしっ!」急にガッツポーズを決める蘭子。「次のマス部のトークテーマは、『三角形』で決まりだな!」


 ああ……さっきまでのちょっと感動的な雰囲気はどこに行ったのか。これは、次からいつものマス部に戻る、という展開が待っていそうだ。

 まあ、その方がわたしも蘭子も気分よくいられるから、いっか。

 数学トークの予定が(勝手に)決まったことで、一気に元気になった蘭子の背中を、わたしは肩を竦めながらも、どこか喜ばしい気分で見ていた。まったく、しょうがないなぁ。


杏里&蘭子も、愛鐘&留実も、偶然にもイニシャルが一致したので、今回のタイトルとなりました。

普段と比べてあまり数学の話ができませんでしたが、ずっと以前から伏線を仕込みつつ、目論んでいた展開を、ようやく持ち込むことができました。残るは茉莉から出ている感情のベクトルですが、どうやら本当に厄介な方角を向いているようです。はてさて、どうなることやら。

しばらくシリアス多めの展開が続いたので、次からは元のコメディ路線に戻します。数学ネタも思い切りぶち込みます。蘭子が予告したとおり、次は『三角形』を題材にする予定です。……図を作るのがとにかく大変になりそうな予感がします。

それでは、次回更新までしばしお待ちくだされ。

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