冬―氷の刃
寒くなったな、と思いながらカーテンを少し開ける。ちらちらと、雪が舞っていた。地面を見てみると、うっすらと雪が積もり始めている。そうか、もうそんな季節か。ため息をついて、そっと目を閉じる。雪の季節になると、思い出すことがある。そんなに昔の話ではない。そのはずなのに、もう僕には随分と昔のことのように感じる。
僕が、まだ施設にいたころの話である。
氷室サヤ、という少女がいた。綺麗な長い黒髪と、抜けるように白い肌が特徴的な少女。彼女は読書が好きで、静かな部屋で一人読書をするのが好きだった。電気を付けず窓からの日差しだけで、一日中本を読んでいた。文字が追えないくらい暗くなったらやめるのだ。僕は彼女と親しかったわけではないが、彼女が本を読んでいるのを眺めているのが好きだった。サヤが読書に使う部屋には、彼女のために机と椅子が二脚用意されている。僕は彼女と向かい合う形で椅子に座り、何も言わずに少女を眺めるのだ。折れそうに細長く白い指を、伏せられた長い睫毛を。部屋には二人分のかすかな呼吸音と、ページをめくる音だけが響く。
最初のころは、サヤも不快そうになぜいるの、と聞いてきた。見ていても楽しくない、というようなことも言った。僕は見ているだけで楽しい、と答えた。呆れた、とため息をついて彼女は本の世界へ舞い戻った。それ以来、何かを言われることはなかった。
毎日眺めに行っていたわけではない。邪魔されずに一人で本を読みたいとき、彼女は決まって部屋に鍵をかける。そういう時は当たり前だけれど部屋に入れなかった。僕は施設の最年長だったから、小さい子たちの世話を任されることもあった。勉強をしないといけない時もあった。そういう、予定があるとき以外は大抵サヤと一緒にいた。
ある冬の日だった。外は吹雪で、窓ガラスががたがたと音を立てていた。
いつも通り、僕はサヤが読書する部屋へと向かった。扉を開ける。そこには、本を開いたまま机に顔を伏せているサヤがいた。眠っているのだろうか。
眠っているのなら起こさないほうがいいだろう。しかし、違和感がある。僕は息をつめ、聴覚に集中する。呼吸音が聞こえない。眠っているなら穏やかに上下するはずの背中も、動きを止めている。上着の袖を伸ばして、直接触れないよう気を付けながら長い髪をかき分ける。背中に、刺されたような傷があった。衣服に血が染み込み、どす黒くなっている。指先を袖で覆ったまま、背中に軽く手を置く。体温はすでになかった。
扉の開閉音に顔を上げる。白衣を着た青年が、入口に立っていた。長めの髪を後ろで結び、眼鏡をかけた、僕と同じ顔の青年。
どちらも口を開かない。彼は無表情で僕を見ている。僕も同じ表情をしているのだろう。
「来ると思ったよ」
彼の薄い唇が開く。僕も同じ言葉を口にしていた。
「こんなことを思いつくなんて、君か僕しかいない」
そうだ、とでも言わんばかりに彼は唇の端を少し上に吊り上げた。
「それで、どうして殺した?彼女は健康体で、殺していい実験体ではないのに」
傷は深く、助からないだろうと勝手に思った。すぐに処置すれば一命は取り留めただろう。何故か、彼女の生存にあまり興味はなかった。
「鋭く尖らせた氷で、人を殺せるか。それが試したかっただけだ」
「実験体を殺せばよかったじゃないか」
「それじゃあ、面白くない」
髪の長さ以外違いのない容姿、似通った思考回路。しかし、どこか僕と違う思考。そっくり同じでも気味が悪いかもしれないが、僕はこっちのほうが嫌悪感を抱くだろう。
「素晴らしい表情だった。白衣に髪を隠して、君であるかのように近づき、そして後ろから刺した。彼女は君に殺されたと思っているだろう。疑問と絶望に満ちた表情だったよ」
「仮にも、妹だろう。僕らの」
「それがどうしたんだ?諦めきった表情で死んでいく子より、日常を破壊され絶望した表情のほうが、いいに決まってるじゃないか。…兄さんなら、わかるだろう?」
彼が、和雪が僕を兄さんと呼ぶときは、大抵ろくでもないことを考えているとき。その頭の良さを買われて―そういう風に造られたのだから、シナリオ通りではある―施設の研究員になったときも、そうだった。僕と彼、どちらかしか研究員になれないと言われ、和雪は僕を殺し研究員になろうとしたのだ。生憎、わかっていたから死なずに済んだが。
「僕が殺したことにしよう、ってことだろう?」
「その通り。実験体以外を殺せばどうなるか…知らないとは言わせない」
ため息。
「…僕を殺人者に仕立て上げ、堂々と実験体にして、僕で実験する。違った?」
「その通り。施設の孤児として生きていた日々には、もう戻れない」
人工的に双子を生み出す実験。一卵性双生児を造りたかったのだろう。結果はクローンのような、あるいはコピーと言えばいいような代物だった。僕と彼は指紋まで同じなのだ。
「生み出された時点で実験体みたいなものじゃないか。研究員になったのも、予定調和だし」
「確かにそうだ。じゃあ元に戻るだけだな」
面倒だ。別に僕は実験体にされたって構わない。生まれてきて、ある程度育った段階で、いろいろと体を弄繰り回される予定だったのだから。僕も和雪も。しかし、所長の気まぐれで孤児として生きることになった。「施設で保護」されている子供として、「フユキ」「カズユキ」という名前が与えられた。冬に生まれたから。苗字も、氷の字を入れて、氷室。
「和雪は勘違いしている」
人工的に血縁者は生み出せるのか、という実験で妹が生まれた。それがサヤ。彼女も、所長の気まぐれで実験体を免れた。僕は…嬉しかったのだろう。和雪は、片割れのような存在だったから。それ以外の家族が出来たことが、きっと嬉しかった。
「施設の人間になったのが、自分だけだと思ったんだね。どちらか一人だって、言われたし」
施設の職員は全員漢字の名前を持つ。研究員になった弟は、漢字の名前をもらった。
「でも、君が知らない間に…僕は、施設の職員になってたんだよ」
研究室と無関係な、施設の職員。研究室の存在を黙認するも、干渉しない、できない人たち。
「そして、職員しか知らないこともある…和雪、職員の仕事は、健康体の子供を安全に保護、養育すること」
「…まさか」
「サヤは基本的に一人でこの部屋を使っていた。施設は、本当に「子供が一人になる部屋」を、作ると思う?」
僕はそのまま、呆然とした顔の和雪のそばを通り抜け、部屋を出た。
あの後、僕は施設を出た。十八歳になった孤児は、住む場所を探し、仕事あるいは学校を探して施設を卒業する。職員になった、なんて嘘だ。監視カメラや収音機があることは予想済みだったし、他の職員の話をこっそり聞いたのだ。安全のためとは言え、監視されていることなどわかっていた。施設を出てしまえば、嘘がばれたって怖くない。丁度あの日は僕が施設を出る日だったのだ。
目を開けて、窓の外を見る。相変わらず雪が降っていて、雪化粧が濃くなっていく。
絶望した表情は、確かに面白い。笑いながら死なれるより、はるかに面白いだろう。だから彼の思考もわかるし、同意もする。しかし、僕は自分で殺すことや目の前で誰かが死ぬことに興味はない。死にゆく人の、あるいは死んだ人の、死に際の様子を想像するのが好きなのだ。自分が深く関わった人、あるいは自分に懐いている存在ならなおいい。直接見てしまっては意味がない。実際に辿った死に際は一つでも、自分の想像の中に様々な死に様が現れる。そうやって、何度も何度も死ぬ様を想像するのが、何よりも好きなことなのだから。
カーテンを閉めて、キッチンへと向かう。
もしかしたら、あの時僕はサヤの死を望んだのかもしれない。僕の知らないところで死ぬサヤを。そう考えると、僕らは兄弟だったのだな、と切に思う。




