第8話
その後、夜会は予定より早くお開きとなった。
王太子殿下が退室すると、張り詰めていた空気が一気に緩んだが、私の足はまだ震えていた。今さらになって、王太子殿下に逆らったという事実が重くのしかかってくる。
「アリア!」
鋭い声に振り返ると、姉がこちらへ向かってきていた。
「お姉様……」
「あなた、何を考えてるの!?」
姉は顔を真っ赤にしていた。
「王太子殿下の夜会で、あんなことを言うなんて! 少しは自分の立場を考えなさいよ!」
「こ、これは、言わなければならないと思って――」
「あなた一人の問題じゃないのよ! 私の結婚にまで影響したらどうするつもり!?」
その言葉に、思わず黙り込む。
「アリア嬢」
そこへユフィル様が割って入った。
「申し訳ありませんが、今は彼女から詳しく話を聞く必要があります」
「この子は私の妹です!」
「だからこそです。今回の件に誰がどこまで関わっているのか、まだ分かっていません。今の段階で彼女をそのまま帰すのは危険です」
「危険ですって? この子は殿下に無礼を働いただけでしょう――」
「その通りですな」
エヴァレット公爵がこちらへ歩いてきた。
姉が慌てて頭を下げる。
「こ、公爵閣下……」
「この令嬢は、今夜の件で重要なことに気づいた可能性がある。しばらくはこちらで保護した方がよいでしょう」
「ま、まさか。この子は世間知らずなのですよ? 何かの間違いでは――」
「我が家で預かります」
公爵様はさらりと言い切った。
「調査が終わるまでは、その方が安全でしょう」
姉は何か言いたそうにしていたものの、公爵様を相手にそれ以上強く出ることはなかった。やがて不満そうな顔のまま、婚約者のグランヴィル様とともに離れていく。
私はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
「……すみません」
「何を謝ってるんだよ」
ユフィル様が呆れたように言った。それから少し間を置き、私の顔を見る。
「それにしても、アリア嬢。まさか殿下相手にあそこまで言うとは思わなかった」
先ほどまでの真剣な表情が崩れ、口元が緩む。
「しかも、ちゃんと根拠まで揃えてさ。ディーンが見てたら、どんな顔したかな」
「そ、そんな……私はただ……」
以前、図書館で計算を教えていただいていたときのことだ。
『……ここ、おかしいな』
『え? でも、答えは合っていますよね?』
『答えは合っている。だが、途中が飛んでいる。これでは、どうしてこの答えになったのか分からない』
ディーン様は私の書いた紙を指で示した。
『たまたま正しい答えに辿り着いても、どうしてそうなるのか説明できなければ意味がない。報告書だって同じだ』
『……つまり、何かを事実だと言うなら、それを裏づけるものが必要、ということですか?』
『そうだ。日付でも、記録でも、数字でもいい。誰が見ても同じ結論に辿り着ける材料を揃えるんだ』
「ディーン様から教えていただいたことを、使っただけです」
「……そうか」
ユフィル様は一瞬目を丸くしたあと、どこか嬉しそうに笑った。
「よくやったよ」
その言葉に、ようやく少しだけ身体の力が抜けた。
◆
その夜から、私はエヴァレット公爵家でお世話になることになった。
そして翌日。
「……え?」
目を覚ました私は、しばらく天井を見つめた。
見慣れない立派な天蓋に、ふかふかの枕。身体が沈み込むほど柔らかなベッド。窓からは明るい日差しが差し込んでいる。
「……今、何時……?」
慌てて起き上がると、控えていた侍女が微笑んだ。
「もうお昼を過ぎておりますよ」
「お昼!?」
こんな時間まで眠ったことなんて、一度もない。夜会で疲れていたとはいえ、いくらなんでも寝すぎだ。
「昨夜は遅うございましたから。ごゆっくりお休みいただくよう、公爵様から申しつけられております」
「お、お気遣いありがとうございます」
それから用意された食事にも驚いた。
温かいスープに、焼きたてのパン。柔らかく焼かれた肉まで並んでいる。
「お肉なんて、ちゃんと食べたの、いつ以来だろう……」
思わず呟くと、侍女が驚いたようにこちらを見たので、恥ずかしくなって、私は身を縮めた。
さらに驚いたのは、着替えとして用意されたドレスだった。
青緑色の柔らかな生地で仕立てられた、見るからに上等なものだ。侍女が手早く腰回りを合わせてくれたおかげで、身体にも馴染んでいた。
「本当に、私が着てもいいのですか?」
「もちろんでございます」
侍女たちは当たり前のように私を着替えさせ、髪まで丁寧に梳いてくれた。
こんなにも大切に扱われた記憶は、おそらく今まで一度もない。
「ふわぁ……かわいい……」
鏡に映った自分を見て、思わず声が漏れる。
まるで私ではないみたい。
嬉しくなって、しばらく鏡の前でくるくると身体を回してしまった。
「あらあら。よく似合っているわね」
声に驚いて振り返ると、そこにはエヴァレット公爵夫人が立っていた。
「す、すみません! はしたないところを……」
慌てて頭を下げると、夫人は楽しそうに笑った。
「いいのよ。わたくしが選んだドレスを、そんなに喜んで着てくれているのだもの。見ているこちらまで嬉しくなるわ」
「あ、ありがとうございます。こんな素敵なドレスを着たことがなくて……それに、こんなによくしていただいて……」
「あら、あなたがお礼を言うことではないのよ」
「え?」
「さあ。そろそろお茶にしましょうか」
夫人はそう言い、私を促した。
そしてその日の午後、これまで耳にした噂や、自分で調べたことについて詳しく尋ねられた。
私は思い出せる限りのことを紙にまとめ、巡行経路や新聞の記事についても書き添えた。それを公爵家に仕える文官へ渡すと、彼は何枚かめくったあと、意外そうに私を見た。
「……これ、全部あなたが?」
「はい」
「へえ……」
それだけ言って、また資料へ目を落とす。
……何なのだろう。
気になったものの、それ以上は何も聞けなかった。
その後の公爵家での暮らしは、驚くほど穏やかだった。
使用人たちは皆丁寧に接してくれたし、公爵家の方々もとても親切にしてくれた。
「それにしても、本当によく言えたわね。テオバルト殿下を相手に」
ある日の午後、公爵家のサロンでお茶をいただいていると、公爵令嬢のソフィア様が感心したように言った。
「いえ……あのときは、もう必死だっただけで……」
「それがすごいのよ。ほら、あの方、全然あなたの話を聞こうとなさらなかったでしょう?」
「……はい」
とはいえ、王太子殿下が、私のようないち令嬢の話を簡単に聞き入れてくださらないのも仕方がないのだと思っていた。
「でもね、あの方、話したくないことになると論点をずらすのよ」
「……そうなのですか?」
「そうよ。それで、いつの間にかこっちに問題があるような話になっているの」
言われて、あの夜のやり取りを思い返す。
確かに、私が噂の矛盾について話していたはずなのに、いつの間にか私がディーン様を慕っているから騒いでいる、という話に変わっていた。
――殿下は、あの噂について話したくなかったということ?
どうして……。
考え込んでいると、ソフィア様がにやりと笑った。
「それにしても、あれだけ頑張ったのは『愛ゆえに』ってことかしら?」
「っ!」
危うく紅茶を吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。
ソフィア様は楽しそうに笑う。
「見ている方は、ちょっとした観劇みたいだったわよ」
「そ、そんな……」
「そのうち夜会の定番の話題になったりして」
ますます小さくなりながら、私は紅茶をちびちびと飲んだ。
そんなふうに過ごす一方で、夜になると、私は毎日窓辺に立った。
ディーン様からの手紙を受け取って以来、いつの間にか日課になっていた。
両手を組み、目を閉じる。
「どうか、聖女様と巡行団の皆様をお守りください」
そして、もう一つだけ願う。
「ディーン様が、無事に帰ってこられますように」
神のご加護がありますように。
毎晩そう祈ってから、私は眠りについた。




