プロローグ「普通の夜」
毎朝、7時の電車に乗った。いつもの車両、いつもの位置。
ドアの左端に立つと、会社の最寄り駅でちょうどエスカレーターの正面に出る。
3年かけてそういうことだけを覚えた。
覚えても、朝が楽になるわけではなかった。
車内では誰もが下を向いて画面を見ていた。
俺も同じようにスマホを開いて今日の予定をなぞる。
見ているだけで一日が始まる前から疲れを感じた。
それでも毎朝そうした。確認しておかないと落ち着かなかった。
会社に着いたのは8時15分。定時は9時だが課長は7時半から来ている。
だから8時台には入った方がいい。いつ誰に言われたのかは覚えていない。
気づいたら、そういうことになっていた。
「おはようございます」
「おう」
それだけのやりとりを毎日繰り返した。
デスクに座ってメールを開く。夜中に来た分が30件近く溜まっていた。
優先度の高い順に返しながら今日の訪問先を頭の中で並べ替える。
4件。回る順番を決めれば移動を1時間は縮められる。
うち2件は先月引き継いだ案件で、数字がまだ出ていない。
「今月どこまで来てる」
課長が通りがかりに聞いてきた。歩きながら立ち止まりもせずに。
「詰めてます」
「詰めてるじゃなくて、取れるか取れないかで答えろ」
「……取ります」
「わかった」
それだけで課長は自分の席に戻っていった。
俺も画面に向き直った。
昼は20分でコンビニ飯を流し込んだ。
午後はずっと外回りだった。
電車を乗り継いで駅から歩き、また次の駅へ向かう。
道はもう地図を見なくても体が覚えていた。
1件目は5分で終わった。2件目は担当不在で出直すことになった。3件目で1時間待たされた。
担当者はとても申し訳なさそうな顔をしていた。俺も申し訳なさそうな顔をした。
どちらも、それが仕事だった。
会社に戻って報告書を書いた。電話をかけた。メールを返した。
夕方から数字の詰めが始まる。
今月の見込みはまだ足りない。足りない分をどう埋めるか、誰も答えを持っていなかった。
それでも会議では全員が見込みを口にした。
根拠があるわけじゃない。言わないと終わらないから言うだけだった。
俺も口にした。気づいたら19時を過ぎていた。
隣の席の後輩が立ち上がった。
「お先に失礼します」
返事はなかった。俺も返事をしなかった。
気にしなかったわけじゃない。たぶん。
でも返事をするという発想が、その時の頭にはなかった。
後輩は一瞬だけ待って、それからドアの方へ歩いていく。
その背中を誰も見送りもしなかった。
21時。腹が減っていることに気づいてコンビニへ行った。
おにぎりを2個と温かい缶コーヒーを買った。
レジの人が「ありがとうございました」と言い、俺も「ありがとうございます」と返す。
今日いちばん長く目を見て話した相手はその人だったかもしれない。
デスクに戻ってメールを返しながら食べた。
味は、よく覚えていない。
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23時47分、ようやく立ち上がった。
「お先に失礼します」
返事はなかった。
今月の残業はまた100時間を超えていた。先月も、その前も、そうだった。
でも誰も何も言わなかったし俺も言わない。それが普通だと思っていた。
普通だと思えば、たいていのことは続けられた。
外に出ると雨が降っていた。
カバンから折りたたみ傘を出して開くと、骨が一本曲がっていた。
いつからか覚えていない。直す時間がずっとなかった。
帰り道は車の音が遠かった。すれ違う人もほとんどいない。
濡れた路面に自分の足音と傘を打つ雨の音だけが続いていた。
どのビルもほとんど窓の明かりが消えている。
その向こうにもたぶん同じような一日があったのだろう。
考えても仕方のないことだった。
歩きながら何を考えていたかは覚えていない。
明日の訪問先のことか、来月の数字のことか。
それとも何も考えていなかったのか。
頭が動いている時と止まっている時の区別が、最近うまくつかなかった。
それを問題だとも特に思わなかった。
信号が赤になった。
傘の骨が風に押されてまた曲がった。
青になり、歩き出す。
歩道橋の手前まで来て、ふと思った。
今日、誰かと5分以上話しただろうか。
思い出せなかった。
昨日のこともその前のことも、同じように思い出せない。
毎日が同じ形をしていてどこにも切れ目がなかった。
歩道橋に足をかけた。
濡れた金属の段に右足が触れた瞬間——
足が、前に滑った。
体が、後ろへ流れた。
手すりに手を伸ばす。
指が、動かなかった。
——それだけだった。
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気づいたら、天井を見ていた。
板を組んだ粗い天井。木の節が一つ、斜め上にある。
明かりが一つ、ゆっくりと揺れている。
体が動かない。
声が出ない。
遠くで何かの音がする。
風か、虫か。よくわからない音がずっとしていた。
(ここは)
考えようとした。でも考える前に、別のことに気がついた。
何かが、ある。
頭の奥に。右手の指先に。胸の中の、どこか深いところに。
うまく言えない。
でも——前の自分が、何かを残していった。そんな感覚だけがはっきりとあった。
使い込んだ道具を、長いあいだしまっていた引き出しから出した時みたいに。
そこにあるとわかっているのに、何に使うかがまだ思い出せない。
それが何かは、まだわからなかった。
ただ、何かはあった。




