06
天秤が均等であれば、その片方を望めば選ばれなかった片方は地に落ちる事だろう。
その天秤を自らが触れられるなら、或いは両方と言えたのかもしれない。しかし、現実はそう甘くはない。
アレクはクリスタの血を吐くような切実な叫びを聞いた。アレクにはクリスタが心の底から邪悪だとは思えなかった。確かに彼女は悪だ、短絡的で、刹那的で、大凡受け入れられるような考え方をしていない。
それでも、クリスタもまた“運命の筋書き”に苦しんでいるのだろうと見えた。
元々、彼女は“クリスタ”ではない別人だと言う。そして死を迎えた。その死の間際の苦痛から逃れたかと思えば“別人”になっていた。それも“運命の筋書き”を知っている世界の住人にだ。
クリスタの恐れ、怯えはよくわかる。それはアメジスト達もまた恐れたものなのだから。つまり行き着く所は“運命の筋書き”を外れた世界を、その先を誰も確かめる事が出来ないという問題だった。
「……そんなもの、神でもなければわかるまい」
この世界を別世界から見ていたというアメジストやクリスタなら、それは観測出来たのかもしれない。しかし、今となっては彼女達もただの人だ。もし運命を覆した後の未来が見えるならこんな事にはなっていないだろう。
運命に呪われているのだ。アメジストも、クリスタも。そして、こうして思考を巡らせる自分自身も。アレクはそこまで考えて天井を見上げる。
「……全てを投げ捨てる事は出来ない」
その道は既に通り過ぎた道だった。全てを忘れて、目を背けて、幸せを享受する道は己の意志で切り捨てた。その道へ手を引いてくれようとしてくれた“彼女”はもういない。
であれば、“運命”を受け入れるのか。世界を壊さない、正しく続けるならそれが無難な選択肢だろう。つまりはクリスタの望みのようにするという事だ。
その為にはアメジストの処刑を受け入れなければならない。その事実が、ただその1点だけがアレクにその答えを選ばせない。
目を閉じれば、今でも鮮明にあの紫水晶の瞳を思い出す事が出来る。
あの秘密の場所で出会った彼女を、アレクはどうしても切り捨てる事が出来ない。
「……アメジスト」
声が聞きたい。あの子の声が。
そう思えば、アレクのやるべき事は決まっていた。
* * *
「あ、アレク様! 何故こちらに!?」
「アメジストと話をさせて貰おう」
アレクが訪れたのはアメジストが投獄されている牢獄だ。以前、アレク達が忍び込んだ影響で警備の数が増している。今度は正面からアレクは訪れていた。
警備達はアレクの登場に驚き、戸惑うように顔を見合わせている。普通で在れば事前の手続きを踏まえて面会が許されるものだが、王子相手にどう対応するのが正しいのか判断に困っているようだった。
そんな警備達にアレクはそっと宝石を握らせた。手に握った宝石を見て、警備達はギョッとしてアレクを見る。
「ここに私は来ていなかった。……お前達は何も見ていないし、聞いていない。それでいいな?」
「は、はい! わかりました!」
欲に眩んだ目で警備達はしきりに頷いた。そして彼等の横をすり抜けるようにしてアレクは牢獄へと足を踏み入れる。
アメジストが投獄されている牢獄に辿り着けば、彼女は手を組んで祈りを捧げるかのように瞳を閉じていた。
纏う服は囚人服で薄汚れていて、あの美しかった美貌も色褪せている。それでも目を奪われる。美醜ではない、その存在が1つの価値を示しているように思えたのはアレクの欲目なのか。
「……アメジスト」
アレクが声をかければ、目を開いてアメジストはアレクへと視線を向けた。
その瞳が驚きに見開かれている。あぁ、彼女もこのような顔を浮かべる事が出来たのだな、と小さな発見に荒みきっていた心が癒やしを感じる。
「……何故、アレク様、ここに……?」
「お前と、話がしたかった」
「……どうして」
唇をきゅっと引き結びながらアメジストは視線を伏せてしまった。
アレクは鉄格子に背中を預けるようにして座る。そして、アメジストを背に向けながら言葉を続けた。
「……私にとって運命の君は、君だけだ」
「……私は、ずっと貴方を欺きました。ずっとお側にいたのは……!」
「わかっている。それでも、私はあの秘密の花園で出会った君に心を奪われていたんだ。ずっと、あの日からずっとな」
「……そんな」
彼女の声が震えているのは、“姉”を思っての事なのだろう。
アレクに好かれたいが為に努力を重ねたあの子は、確かに魅力的な可憐な花だった。例え、思い出の相手でなくても国を出ようという誘いに頷く事を考える程に。
それでも自分は不器用で愚かなのかもしれない。あの一瞬の、たったそれだけで幸福に溺れる夢をこの手で摘み取ったのだから。
「……クリスタは君と同じだ」
「……気付いてしまわれたんですね」
「君は、知っていたのか?」
「これでも人を見る目はありますし、普段“影”として動いていたのは私ですよ?」
つまり、彼女はクリスタが自分と同じように“転生者”だという事を知っていた事になる。
「……それを“彼女”には?」
「勿論、伝えてあります。……だからこそ、私も覚悟を決める事が出来たのです」
「覚悟……?」
「何が何でも、私は“あの人”を救うと。……でも、同じように苦しむあの子を放ってはおけなかった。痛みも、苦しみも、悲しみも、同じぐらいわかりますから」
彼女とクリスタは同じ境遇だ。違うのは、与えられた配役だけ。
「だから私は諦めました。あの子は説得出来ません。あの子の怯えを、恐れを、それを払拭する事は私には出来ません。それは彼女自身が越えられなければ、彼女はこの世界で生きて行く事は出来ないでしょう。そして、そんなあの子を救ってやれる程、私もお人好しでもないですし、時間もありません」
「……あれを救うなら、それこそ神でもいなければ無理だろう」
「神ではないんですけど、そうですね。……なら、自分を救えるのは、自分しかいない。冷たいかもしれませんけれど、私があの子にしてあげられる事なんてないんですよ」
クリスタは運命に恭順する道を選んだ。それが自分の縋る唯一だと言うように。
だから人の心を惑わせても、人を陥れても顧みる事はしない。それが“運命”だから。その免罪符を握りしめて、クリスタは生きて行く事しか出来ないのだ。
それでも彼女は許されるべきではない。その免罪符を取り上げ、現実を見せて自らが犯した罪と向き合わせるべきなのだ。でなければ筋が通らない。
だが、罪を犯したのだから罰を受けるべきと言われればそれもまた難しい。クリスタだって自分で望んでそうなった訳ではない。誰が本当の意味でクリスタの罪を裁けるというのだろうか。
ただ死んで、ただ生まれ変わって、死にたくないと、もうあんな思いはしたくないと叫んだ彼女もまた、運命に操られた被害者だったのだろう。
「……それでも立ち向かう事は出来た。その余地があった時点で罪は罪だ。私はそう思う」
「どんな弱くとも、罪を受け止めるべきだと?」
「私は公平で公正でなければならない。例外は作れない。作りたくないと思っている。……だが私個人としての言葉を選ぶならば、なんと憐れな事かと思っている」
正直に言えば、アレクは王子とはかくも無力なものだと悟ってしまっていた。
正しくあろうとするならば、それは人の定めた法よりも天上の神々如き者達が決めた法則が正しいと言われれば否定出来ないのだ。
人の法でクリスタの悪事を暴いて裁いても、この世界における正しさなのかはわからない。故に、王子とはかくも無力なのだ。
ならば、とアレクの胸に浮かんだのは……諦観ではなかった。
「……アメジスト」
「……はい」
「私と共に全てを捨ててくれないか?」
いつか、彼女の“姉”がアレクにそうしたように。
アレクは全てを捨てても彼女の手を取りたいと思ったのだ。
鉄格子に預けていた背を回して、向き直るように正面から彼女を見る。
月明かりが僅かに差し込み、彼女を照らし出す。彼女はただ淡く微笑むのみで。
「……申し訳ありません」
「……ダメか?」
「私がここで逃げ出せば、私はお尋ね人として追われる事でしょう。それは私だけではなく、あの人を危険に晒してしまいます。その誘いには頷けません」
「……そうか」
それだけ姉妹の絆は深いのだろう。己の人生を投げ捨てても救うのだと決めた彼女の決意は簡単には翻らない。
その返答はなんとなく解っていた。だからこそ、アレクもすんなりと受け入れる事が出来た。そんなアレクから視線を逸らして、彼女は呟く。
「……貴方様は、本当に馬鹿な人。私の為に、あの人を選ばなかった事を後悔されると良いでしょう」
「いいや、何も後悔はしていないさ。私の望みが叶えられないなら、私は君の望みを叶えるだけだ」
「……何故、そうも私を?」
視線を合わせぬままに彼女はアレクに問う。その問いに、アレクは己の心臓を掴むように手を添え、片膝をつきながら頭を垂れた。
「愛している。君を、君だけを。それがアレクサンド・フォン・エルメライトの真実だからだ」
万感の思いを伝えるように口にした。そして顔を上げれば、彼女の紫水晶の瞳から美しい涙が溢れている。
淡く、淡く。このまま月の光に溶けてしまいそうな程に淡い。この世のものとは思えない、目を離せば消えてしまいそうなこの人をアレクは心の底から愛している。
「……貴方様は、本当に残酷ですわ」
「そうか」
「死を覚悟している女に、愛を囁くなんて」
「それでも、この思いが死せるならその前に本懐を遂げたかった」
「なんて勝手な人」
「あぁ、そうだな」
「……アレク様」
彼女は鉄格子の傍まで歩み寄って、手を差し込んでアレクの頬に手を添える。
手が届きやすいように鉄格子に身を寄せながら至近距離でアレクと彼女は視線を交わす。
涙に潤む紫水晶の瞳がただ、自分だけを見つめている。幸福感と、幸福感と同じぐらいの痛みが胸に溜まっていく。
「……この世界は、愛を強制されるのです。運命だと、そう言うように」
「……あぁ」
「運命ではなく、真実と仰ってくださるのですね?」
「あぁ、嘘偽りはない。……君と、君の最愛の人に誓う」
「まぁ。……狡い人」
繰り返すように彼女は、狡い人、と呟いた。
「……こんなに、この鉄格子が憎いと思う日が来るとは思いませんでした」
「なら、抜け出すか?」
「いえ、いえ……。お願いですから、それだけはどうかお許しを。そうしたら私……きっと、一生後悔し続けますから。ですから、アレク様」
「……何だ?」
何かを告げたそうな顔をしている彼女の顔を見つめながら、アレクは相槌を返す。
1度、その紫水晶の瞳を伏せた彼女は。まるで祈りを捧げるかのように口を開いた。
「――――、です」
それは。
「貴方様にだけ伝える、私の真実です」
「……そうか。異国の響きだな、それは」
「はい。……あの人も知らないんですよ。この世界では、きっと誰も知らない」
「私だけか」
「はい。あの人だけの“妹”であるように、貴方だけの私です。……せめて、私が捧げられるものがこれだけなので受けとってください」
「……あぁ」
アレクの瞳から涙が落ちる。胸を駆け巡る感情に名前をつける事など出来そうにもない。
いっそ、このまま殺してくれと叫びたかった。この瞬間で終わらせてくれと。幾ら望んでもその時は訪れないのに。
「……我が儘を、もう1つ許して貰えるか?」
「……私に叶えられる事なら」
そうして、アレクは望みを口にした。心がバラバラに砕けそうになる、その願いを。
願いを聞いた彼女は驚いたように目を見開いて、そして困ったように笑った。とても安堵したように、とても苦しそうに、とても……愛おしそうに。
「……馬鹿な人」
「自覚している。これも、筋書き通りか?」
「だとしたら、私はその筋書きを描いた者を軽蔑し続けるでしょう」
「……そうか。私も軽蔑するか?」
「いいえ。……いいえ。わかりました、いいですよ。私も、愚かな女ですね」
「言ってくれるな」
「いいえ、言わせてください」
鉄格子越しの距離は短いのに、触れられない。永遠の距離のようだ。
それでも、確かに2人の心はここに繋がっていた。
「愛しておりました、アレク様」
* * *
――その日は来たる。
群衆が見守る中、1人の少女が広場に立てられた処刑台の上に立つ。
悪逆なる非道を為した令嬢、アメジスト・ファルカス侯爵令嬢その人だ。
処刑人によって壇上に導かれるようにして歩いて行く。その格好は見窄らしい筈なのに、ぴんと背中を真っ直ぐに伸ばして静かな面持ちで進むアメジストは美しかった。
あれが罪人の立ち振る舞いなのか、と群衆がざわめく。しかし、貴族の参列者達の多くは囁くようにしてアメジストへの罵倒を繰り返しているようだった。
戸惑いと、熱気と。その2つの異なる思いすらも巻き込んで状況は淡々と進んで行く。
「これより罪人、アメジスト・ファルカスの処刑を執り行う!」
貴族の処刑。それは群衆にとっても大事件だ。それも侯爵家の身分ともなれば尚のこと。
頭を下げさせるように跪かされたアメジストの表情は最早見えない。処刑人が、その首を落とす為の刃を受けとろうとする。
「――その処刑、待って貰おう!」
声が響く。その視線を奪ったのはこの国の王子、アレクサンド・フォン・エルメライトその人だ。
誰もが驚きに目を見開く中、荒々しく歩を進めるアレクは制止の為に掴まれた腕をも振り払い、処刑人が受けとる筈だったその刃を自ら掴む。
「この罪人は、私自らが処刑する!!」
「なっ……!? お、お待ちください、アレクサンド王子! 王子自らが罪人の首を落とすなどと……!」
処刑人が慌てた様子でアレクを止めようとするも、アレクが処刑用の剣を振り、近づけぬようにと威嚇する。
その形相は悪鬼の如きに歪み、憎悪と憤怒を滾らせていた。群衆の中からも、その形相に悲鳴を上げるものが出る程の気迫だった。
「黙れッ! この女は今まで、私を散々弄んだのだ! 運命は筋書きで描かれていると私に嘯き、破滅の未来を覆すと語っていたのだ! その為に誠実に日々を生きると! しかし、蓋を開けてみればとんだ罪人だった! 私は……私は恥ずかしい! この身の恥を雪ぐには、自らこの断罪の刃を振り落とすしかないのだ! 邪魔立てするでない!!」
「ひぃっ!?」
狂乱する王子に誰もが近づく事が出来ない。参列した貴族も、見物に来ていた群衆も。
誰もが処刑台から我先と逃げていく中、アメジストはそれでも頭を下げ続けている。
そこに処刑の刃を手にしたアレクが距離を詰める。そして、その剣を上段へ振り上げた。
「……今一度問う、罪人よ! 貴様の語っていた運命の筋書きとはまやかしか!」
「いいえ、全て私が知りうる真実でございました」
「その運命を覆す為に、清廉たる淑女であると誓ったお前の心もまやかしか!」
「信じられぬというのならば、私の努力が至らなかったのでしょう」
「罪人め! まだ己の罪を認めぬか! もう良い、証は立てられた! 我が身の恥と共にだ! ならばせめて、この国の貴族として――私の為に、死ねぇッ!!」
「――御意に! それが、この国の為ならば! ファルカス侯爵家の一員として、最後の忠誠をここにッ!!」
頭を上げぬままにアメジストが叫ぶ。その気迫たるや、王子の狂気にも勝る程に。
視界の端で、誰かが悲鳴をあげている気がする。誰の悲鳴かも確かめる事は出来ない。ただアレクの意識の全ては彼女に向けられていた。
手が震えた。力の込めすぎで、剣先がブレそうになる。歯が砕けんばかりに噛みしめて、歪みそうになる視界が、世界を歪ませる前に。
――そして、刃は振り下ろされた。花弁を落とすかのように、散りゆくものを残して。
* * *
「どういう事よ!」
夕焼けに全てが染まっている。空も、世界も、赤く、赤く。
だが彼女の“赤”に比べればどれも色褪せていた。そんな風に考えていると、頬を打たれた。
頬を打ったのは――クリスタだった。アレクはぼんやりとしたまま、クリスタを見つめた。
「こんなの、シナリオにない。貴方が自分で処刑するなんて! 私に嘘をついたの……!?」
「……私は、一度もお前と同じだとは言っていない」
「じ、じゃあ……じゃあ、嘘、でしょ……? あの子、今日死んだ、あの子も、私と、私と同じ……?」
ふら、と。クリスタの足下が揺れて、そのまま膝を折る。
そんなクリスタの姿を見下ろしながら、アレクは言葉を続ける。
「知っていた。彼女も、お前が自分と同じだと」
「嘘よ」
「運命を覆し過ぎれば何が起きるかわからない。そう言っていた」
「嘘よ」
「死にたくはなかった。けれど、世界を壊したくはなかった」
「嘘、よ」
「運命に選ばれたのは、お前だ」
「やめてッ! やめて……違う、だって、皆、皆、生きてないでしょ!? ただ操られてるだけの人形と変わらないでしょ!? そうでしょ、アンタだって! 都合良く喋るだけ! 都合良く微笑むだけ! 皆、皆そう! 私の夢なら、これが私の夢なら私の思い通りになってよ! なんでならないのよ!!」
喚くように叫びながら頭を掻きむしるクリスタからアレクは視線を逸らす。
「……私は、お前の死を赦さない。お前は運命に選ばれた。お前は幸せにならねばならぬ。この世界が続く為に、私はお前を生かし続ける。富も、名誉も、好きなだけ持っていくが良い。それが望みだろう?」
「違うッ! 違う……違うっ、違うッ! 私は、私……はぁ……!」
「運命がお前に全てを捧げるなら、私は王子として、この国を守るものとして……運命に頭を垂れよう。だが、だが……ただ1つ、ただ1つだ。それだけは例え世界を滅ぼしてでも、奪わせない」
空が、赤い。
己の手にこびり付いた、あの色とよく似ている日の色を睨みながら。
「――彼女は、私のものだ」
――運命にすら、渡してなるものか。
彼女の死を望んだのは、運命ではない。自分自身だ。
この罪は、自分だけのものだ。誰にも渡さない、渡しなどしない。
――愛しておりました、アレク様。
私は、今でも君だけを愛してる。




