こわかった日
統一歴598年 シェルエリナ20歳 Gランク
フェルムでの暮らしが、少しずつ日常になり始めた頃。
朝の光が窓から差し込む。
「シェルエリナ。」
「起きなさい。」
「……あとちょっと。」
「昨日も聞いたわ。」
「今日は昨日より、ちょっとだけ。」
「意味が分からないわ。」
布団が、少しだけめくられる。
シェルエリナは、しばらく丸くなっていた。
「朝よ。」
「知ってる。」
「知っている人は、もう起きているわ。」
「……今、起きるところだったの。」
ようやく身体を起こす。
髪は跳ねていた。
リゼリアは、何も言わず櫛を差し出した。
部屋を出ると、隣の扉が開いた。
そこには支度を終えたガイアス達がいた。
「遅い。」
「起きてたもん。」
「目は?」
「……閉じてた。」
ノクトが小さく笑う。
「それを寝てたって言うんだよ。」
「違うよ。」
「何が。」
「気持ちは起きてた。」
ガイアスのやれやれ、とした仕草。
「行くぞ。」
四人は、笑いながら宿を出た。
市場を抜ける途中、パン屋のおばさんが声を掛ける。
「おはよう、嬢ちゃん。」
「おはようございます。」
「今日は転ぶんじゃないよ。」
「転びません。」
「昨日も聞いたねえ。」
周りから笑い声が上がる。
シェルエリナは、少し頬を膨らませた。
「今日は大丈夫です。」
「なら、帰りに顔を見せな。」
「はい。」
受けた依頼は薬草の採取。
森へ入り、四人は手分けして探し始める。
シェルエリナが、葉を一枚摘み上げた。
「これは薬草。」
「違う。」
「えっ。」
リゼリアが別の葉を指さす。
「こっち。」
「似てる。」
「似てない。」
「ちょっと似てる。」
「似てないわ。」
ノクトが振り返る。
「それ、昨日も間違えてた。」
「だったら先に言ってよ。」
「間違える前に?」
「うん。」
「それじゃ覚えないだろ。」
シェルエリナは、摘んだ草を戻した。
「次は間違えない。」
少し歩いた先で、また別の草を摘む。
「これは?」
リゼリアはしばらく黙った。
「違うわ。」
「……また?」
「またね。」
ガイアスが遠くで笑った。
それでも
籠は少しずつ満ちていった。
依頼も終わりに近づいた頃、草むらが揺れた。
ノクトが足を止める。
「いる。」
低い唸り声。
森オオカミが姿を現す。
ガイアスが盾を構える。
「下がれ。」
言葉より前にシェルエリナは一歩前に出た。
「私が――」
「待て。」
声が届くより先、森オオカミが地を蹴った。
「きゃっ。」
身体が弾かれ、地面を転がる。
肩を強く打ち、腕を擦りむいた。
息が詰まる。
顔を上げると、牙が見えた。
目の前だった。
身体が
……
動かなかった。
ガイアスが間に割って入る。
盾が重い音を立てる。
ノクトが横へ回り、リゼリアが後ろを支える。
ガイアスが押し返したところへ、ノクトの刃が走った。
森オオカミは身を翻し、森の奥へ逃げていった。
静けさが戻る。
ガイアスが手を差し出す。
「立てるか。」
「……うん。」
手を借りて、ゆっくり立ち上がる。
肩が痛んだ。
腕には赤い擦り傷が残っている。
「俺が崩してから攻撃しろ。」
「うん。」
「一人で全部やろうとするな。」
「……うん。」
それ以上、誰も何も言わなかった。
四人は籠を抱え、フェルムへ戻った。
ギルドの受付で薬草を並べる。
受付の女性が一つずつ確かめていく。
「はい。」
「規定の量があります。」
「依頼達成です。」
小さな報酬袋が机の上に置かれた。
「お疲れさまでした。」
「ありがとうございます。」
シェルエリナが袋を受け取る。
少しだけ、重みを確かめる。
「ちゃんと終わったね。」
「途中で飛んでたけどな。」
ノクトが言う。
「飛んでない。」
「飛んでた。」
「ちょっとだけ。」
「十分飛んでた。」
ギルドの中に小さな笑いが広がった。
湯気が立ちのぼる湯あみ場。
シェルエリナは腕を湯につける。
「いたっ。」
すぐに引っ込める。
リゼリアが隣から見る。
「まだ痛い?」
「ちょっとだけ。」
「肩は?」
「動かすと痛い。」
「無理に動かさないの。」
「うん。」
少し間を置き、もう一度湯につける。
「いたた……。」
「だから、ゆっくり。」
「入れないと洗えないよ。」
「洗ってあげるわ。」
「……いいの?」
「怪我をしているでしょう。」
シェルエリナは少し嬉しそうに笑った。
「ありがとう。」
その夜。
酒場は、いつも通り騒がしかった。
食器の音。
椅子を引く音。
笑い声。
入口をくぐった途端、奥の卓から声が飛ぶ。
「おう。」
「飛んだ嬢ちゃんが来たぞ。」
「飛んでません。」
「森オオカミにきれいに飛ばされたって聞いたぞ。」
「誰から聞いたんですか。」
「もう街中が知ってる。」
「早すぎます。」
別の席から声が上がる。
「どれくらい飛んだ。」
「飛んでません。」
ノクトがパンをちぎりながら答える。
「三歩分。」
「ノクト。」
「四歩だったかも。」
「増やさないで。」
酒場が笑いに包まれる。
ガイアスは呆れたように杯を置く。
「笑いごとじゃないんだぞ。」
「でも、無事だったんだろ。」
「まあな。」
「なら笑ってやれ。」
「次から飛ばなくなるようにな。」
また笑い声が上がる。
シェルエリナは頬を膨らませたまま肉を切る。
「もう飛びません。」
「言ったな。」
「言いました。」
「じゃあ次は転がるだけか。」
「転がりません。」
「転がっただろ。」
ノクトが言う。
「ノクトは、どっちの味方なの。」
「事実の味方。」
「ひどい。」
リゼリアが小さく笑う。
「でも、本当に気をつけなさい。」
「うん。」
「次はもっと痛いかもしれないわ。」
「分かってる。」
「本当に?」
「……分かってるよ。」
声は明るいかった。
だから、だれもそれ以上は言わなかった。
食事が終わる頃には、シェルエリナも一緒に笑っていた。
いつものように。
明るく。
大丈夫そうに。
夜、ガイアス達と別れ、リゼリアと部屋に戻る。
扉が閉まる。
酒場の騒がしさが遠くなる。
シェルエリナは荷物を机の横に置いた。
腰の袋を外す。
靴を脱ぐ。
それからベッドの端に座った。
リゼリアは何も言わなかった。
部屋には小さな灯りだけが揺れている。
しばらくして、シェルエリナが口を開いた。
「……こわかった。」
声は、とても小さかった。
リゼリアが振り向く。
シェルエリナは、俯いたままだった。
「牙が。」
「目の前にあって。」
「動けなくて。」
言葉が途切れる。
一粒だけ、涙が落ちた。
「ごめん。」
「謝らなくていいわ。」
「でも。」
「怖かったのでしょう。」
シェルエリナは、小さく頷いた。
また涙が落ちる。
リゼリアは少しだけ間を置いた。
それから、自分の布団をめくる。
「こっちへ来なさい。」
シェルエリナが顔を上げる。
「……いいの?」
「今日はね。」
少し迷ってから、シェルエリナは立ち上がった。
リゼリアの布団へ、そっと入る。
身体を丸めるようにして、隣へ寄る。
リゼリアの手が、背中をゆっくりとさする。
「……ほんとに、こわかった。」
「うん。」
「動けなかった。」
「うん。」
「また、ああなったら。」
「次は、今日より少し動けるわ。」
「少し?」
「少しでいいの。」
シェルエリナは何も言わなかった。
背中をさする手だけが、ゆっくりと動き続ける。
やがて、泣く声が小さくなった。
呼吸が、少しずつ穏やかになる。
「リゼリア。」
「なに?」
「……ありがとう。」
「おやすみ。」
返事はなかった。
「すー...すー...」
小さな寝息が聞こえ始める。
リゼリアはその寝顔を見つめた。
それから、もう一度だけ背中を撫でる。
灯りを消す。
二人はそのまま静かに眠りに落ちた。
翌朝。
リゼリアが目を開ける。
何かがおかしい。
布団は半分なくなっていた。
枕は床に落ちている。
シェルエリナは、いつの間にか逆向きになっていた。
毛布を抱え込み、片足をリゼリアの上に乗せている。
リゼリアは、しばらく黙っていた。
ゆっくりと息を吸う。
「シェルエリナーっ!」
隣の部屋から、ノクトの笑い声が聞こえた。
けれど、シェルエリナは目を覚まさない。
毛布を抱えたまま小さく呟く。
「……お肉、もう食べられない。」
・・・
リゼリアは目を閉じた。
フェルムの朝は、今日も平和だった。




