薄氷
「レイン! レイン!!」
焦りに満ちた声が、遠くから響いてくる。
(……うるさいな……)
意識の奥でそう思った。
「レイン! 起きて! ねぇ、お願い!!」
視界がぼやけている。
意識が濁って、うまく焦点が合わない。
それでも、必死に呼ぶ声が頭の奥を叩き続ける。
「っ……!」
身体が跳ね起きた。
荒い息をつきながら、レインは周囲を見渡す。
自分の部屋だ。
床に倒れ込んでいたらしい。
「レイン……よかった……!」
シオリのホログラムが目の前に浮かび、涙ぐんだ表情でこちらを見つめていた。
「お前……何が……」
「何がって……! 突然倒れて、呼びかけても反応しなくて……!」
シオリの声が震えている。
普段の明るい調子ではなく、心の底から怯えたような声だった。
(……そんなに……)
レインは頭を押さえ、ゆっくりと呼吸を整えた。
心臓の鼓動が速い。
先ほどまでの"悪夢"が、まだ頭にこびりついている。
(……軽率だった……)
模倣するだけのつもりだった。
ただ、データをなぞるだけのつもりだった。
けれど、それは"記録"とは違う。
(俺は、ただのデータではなく——"存在"を模倣した。)
無意識のうちに、"エリスの感情"まで引き込んでしまったのか。
いや、そうでなくとも……
(あんな"何か"が入り込んでくるとは思わなかった……)
額に汗が滲む。
才能を理解しきれていないのに、安易に踏み込んだ。
存在の模倣——
自分がどこまで影響を受けるのか、まったく検証しないまま実行した。
「レイン……もう無茶しないで……」
シオリの声が小さく震える。
(……心配させた、か。)
レインは、ゆっくりと目を閉じた。
「……悪かった。」
短くそう言うと、シオリは小さく首を振った。
「無事なら、それでいい……!」
ホログラムであるはずのシオリが、泣きそうな顔をしている。
(……まだ分からないことが多すぎる。)
ただ一つ、確信したことがある。
"才能"の扱いを誤れば、"自分"さえも壊れる可能性がある。
レインは深く息を吐いた。
「……しばらくは慎重にやる。」
シオリのホログラムが、少しだけほっとしたように頷いた。
(……さて、どうする……?)
レインは、まだ鼓動の速い胸を押さえながら、これからのことを考え始めた。
レインは額を押さえながら、ゆっくりと息を整えた。
全身に残る微かな震えと、頭の奥にこびりつく"何か"。
喉の奥に鉄の味がするような、不快な感覚。
(……今のは何だった?)
エリスの幻影。
意識を飲み込むほどの圧倒的な"感情の奔流"。
あれは、ただの模倣じゃない。
(人格の模倣が原因か……?)
単なる"データの再現"ではなく、模倣した"人格"が"意識の領域"まで入り込んでしまった。
それが、先ほどの現象の正体なのか。
レインは手を組み、じっと思考を巡らせる。
("人間観察"……本当にそう呼んでいい才能なのか?)
今までの使い方は、仕草や行動を分析し、模倣し、再現することだった。
だが、今のは"模倣"の域を超えていた。
まるで、"もう一人のエリス"が頭の中に存在するような感覚——
(……まるで精神分裂だ。)
考えてみれば当然かもしれない。
"動作の模倣"だけなら、ただの技術のコピーに過ぎない。
だが、"思考"まで模倣し、"存在"するということは、"もう一人の思考回路"を作るのと同じこと。
それが強くなりすぎれば——
("俺"は"俺"でいられるのか?)
レインは手を握りしめた。
"人間観察"という才能の本質。
それはただの観察眼ではなく、"他者を自分の中に取り込む能力"なのではないか?
(……もし、取り込んだ人格が俺の"意識"を侵食してきたら?)
もし、俺が"俺"ではなくなったら?
"エリス"の記憶が流れ込んできたとき、確かに俺は"レイン"として存在していた。
だが、"俺"の意識が"エリス"に飲み込まれていたらどうなっていた?
"俺"の思考は、俺だけのものなのか?
それとも、他人の思考が入り込む余地があるのか?
(これは、"危険"だ。)
これまで考えもしなかったデメリット。
・他人の思考を取り込めば、"自分"が薄れていく。
・人格が重なりすぎれば、自分が誰か分からなくなる可能性がある。
・空想アバターは、処理負荷が大きい。限界を超えれば脳がオーバーヒートする。
・模倣した人格が"自律"してしまう危険性。
(……最悪、"俺"が"俺でなくなる"。)
レインはゆっくりと目を閉じた。
(……使い方を考えないと、本当に取り返しがつかなくなるな。)
慎重にやる、とシオリに言ったばかりだ。
だが、それ以上に慎重にならなければならない。
これは、"人間観察"ではなく——
"自分を失うリスクを孕んだ才能"だ。
今後、どう使うべきか。
(……まずは、制御方法を探すしかないな。)
レインは静かに息を吐き、目を開けた。
"人間観察"の本質を知るために——
"自分"を守るために。




