影たちの正月(重)
夜の帳が下りたころ、ボクは眠る気になれなくて、布団から這い出し縁側で空を見ていた。ボクのもやっとした気分なんてお構いなしに星々が煌めいている。冬は空気が澄んでいるから、夏より余程美しい。寝間着に突き刺さる寒さは、この美しさの前には考慮に値しない。植物の緑と、石の白で構成された庭は、星の明かりでは十全には照らされずにいる。
暢気に輝く星を見ながら、カツキ様に言われたことを反芻していた。
“彼らの鍵は、役に立つ”
卯羽は、烏羽の末裔だ。同様に城守も白練の末裔である。両者ともにその祖を辿れば光家――皇家に行きつく。烏羽は政権の安定のために、埋没することを望んだ。白練は政権が清廉であるように、政治を見張っていた――否、彼は、彼らは正しく審判であった。誰に対しても平等に理不尽な罰を下せた。
「あいつは、辿りつくかな……」
怜悧な美貌の、主のお気に入りの顔が浮かぶ。無能のくせに、と憤りを感じる。先祖の至った境地に辿りつかねばカツキ様の駒にはならないのだから、辿りつくのを願うべき。でも、心のどこかで辿りついてほしくないと望む自分がいた。汚い、醜い己が星々によって明らかにされている気がした。
理由を自身に問う。なぜ、かつての同朋がかつての姿――権能をもった状態になるのを妬むのか。
城守キイトが、外国人の血を引いているから?人形のように整った容姿を持っているから?無能なくせに、妙に人望があるから?
どれも違う。一陣の風が吹いて、庭の木々が静寂を取り戻した後、疑問は氷解した。
「負けたくないんだ、ボクは……」
それはただ単に目を逸らしていた事実ではあった。主の関心を自分よりかっているのも気に入らないし、単純な強さも劣っている。何より、鍵の権能も本来の実力だけを見れば、やはり優れているとは言えない。
「……ミカゲちゃん、おはよう」
「……母上」
思考の渦に囚われていたミカゲを引き上げたのは、卯羽ネムリ――旧姓朧――であった。
「母上、まだ夜ですよ」
「起きたら、おはようって挨拶するのが当然じゃない」
ミカゲは寝てばかりの母に何を言っても無駄とばかりに早々に庭に目を向ける。母は娘が何も言わないのをいいことに隣に腰かけた。
「朝食はいいんですか」
「ミカゲちゃん、今だと夜食でしょうね。料理人を起こすのは忍びないわ」
「……。食糧庫から漁れば良いのでは?」
ネムリはそうねえ、と指を当てて首を傾けた。四十近い大人には見えない、少女めいた動作である。
「偶にはお母さんしようかなって」
ミカゲは黙り込んだ。
なぜ、今更?母は寝てばかりで子供たちの面倒を見たことなど、ミカゲの記憶する限りない。話そうとしない娘に痺れを切らしたのか、ただ単純に腹が空いたのか、ネムリは口を開いた。
「……ミカゲちゃん、実はね、お母さんもうチーズとパンとプチトマトとベーコンを食べてきたのよ」
ミカゲはその言葉に衝撃を受けた。食事を終えたのにまだ眠りについてないという事実に。
「ちょっと、昔話をしましょうか。私、稀代の幻術師の娘として生まれ育ったわ」
「そうですね。そして私は伝説の幻術師の孫です」
母上は悲しそうに微笑んだ。
「そうね……。でも私たち、生まれる場所は選べないわ。だから謝らない」
「……」
「私ね、悔しかったの。確かに眠るのは好きだったわ。……いえ、今も好きね。でもね、本当は幻術系統の鍵が欲しかったの。夢の世界はとても平和で、辛いことなんてなくて、優しいところ、それをお父さんみたいに再現できるの。でも、私の鍵は夢であっても幻じゃなかった……。それで欲しかったものが手に入らなかった現実、義務から逃げて逃げて……、ずっと夢を漂っていたわ」
かすかな風が私たちの間に流れ込んだ。
「でもね、追いつかれちゃったの。私の夢は予知夢……あり得る未来、あらゆる明日だった。お父さんのように自主的に幻を見せられない、いつでも受け身の夢……。悔しかったわ。だって絶対に勝てないんだもの。流されるようにしか、生きられずに……。でもね、私、ミカゲちゃんのお爺ちゃんに一つだけ勝ってることがあるのよ?」
星の光しかないのに、母上の目はいたずらっ子のように、夜の星々よりはるかに煌めいていた。だから聞かざるをえなかった。
「何で勝っているんです?」
「ふふふ……素直な子を産んだってことよ。ミカゲちゃん、ライバルが誰かはわかんないけど、頑張ってね。おやすみなさい」
結局母上は言いたいことだけ言って、パジャマ姿のまま縁側の先で暗闇に紛れてしまった。でも、これでいいのだ。母上とこんなに長く会話したのは初めてかもしれないし、これで最後かもしれないけど、緊張するものだから……。
しばらく瞬く夜空を眺めて、私室に戻った。布団に横になれば、瞼は自然と下りて柔らかい夢の中へと旅立てた。
◇◇◇
キイトは、じいちゃんとの思い出の残る木造の自宅で、文字通り本に囲まれていた。でも、内容は頭に入ってこず、さらさらと通り抜けて消えていく現状だ。キイトの頭の中では『まだ、見つめきってない』という言葉がぐるぐると脳をかき乱していた。
(白い魔女は、一体何を知っているんだ?光家の血の鍵を考えれば、不思議じゃないのか……?駄目だ、さっぱりわからない)
ああ、むしゃくしゃする!
「……外に行くか」
梯子を納屋から引っ張り出して、墓を囲む一本の桜の樹に立てかける。じいちゃんが一番好きだった桜だ。しばらく使わずに打ち捨てられていた木製の梯子はきしきしと軋みながらもキイトの重さに耐え抜き、キイトは樹上の人になる。比較的太く、安定感のある枝に腰かけてぼんやりと町を見下ろす。
春の遠い、冷たい風が頬と風を不躾に撫ぜる。存外強い風だったようで、キイトはあやうくバランスを崩すところだった。持ち直して座りなおすと、かしゃん、と乾いた音が響いた。まさかと振り返れば、案の定立てかけていた梯子が地に伏していた。
「はあ……まあ、とびおりても平気だろう」
キイトは目を再び町に向けた。弱弱しい陽の光を受けて、家々の瓦が鈍く輝く。二度目の鎖国時に、当時主流だった石油由来の資源はすぐに底をつき、昔ながらの木造建築か、明治時代のような洋館もどきが現代皇国の主流建築だ。木材だけなら、常盤の当主たちやその縁者がガンガン増やせるということで進んでいるという面も多分にある。
一羽の鳥が目の前を横切った。セキレイだろうか。全体的に白い体を引き締めるように所々が黒く色づいている。目に映る空を見るともなしに眺める。ぷかりぷかりと浮かぶ雲は、のっぺりと現実味の無いように感じられて、どこか夢の中のよう。
(鍵、かぎ、キー……別にこういうことを言ってるわけじゃないだろうし……。そもそも、俺たちが受け継いできたこの血の鍵は何なんだろう……?)
『鍵の中の鍵』と今代の当主である俺が命名した、城守――白練に代々伝わる血の鍵。じいちゃんはただ『鍵』と命名していたし、白練の祖であるシロキは『白き鍵』だった。大体――否、この鍵を受け継いできた者たちはいつだって鍵に鍵の入った名を付けていた……。なぜだろう。そもそもそれをなぜ俺が知っている……?
いつの間にか目を閉じていたらしい。気軽に目を開ければそこに広がっていたのは闇だった。そんなに考え込んでいたのか?
……変だ。月も星もない。町も、うっすらとすら見えない。見えるのは自分と、腰かけているものを含めた桜の樹々の……み?桜が咲いている。固く凍えるつぼみだったはずなのに。まだ冬の盛りのはずだ!
混乱しつつも、俺は桜に魅入られていた。光の無い中、淡く発光しているかのような薄紅の花弁。黒く無骨な枝、そして幹。匂いの無い桜に酔いしれていた。
気付けば自分は桜の樹の下に立っていた。足元の黒に白の波紋が広がる。ただそれを不思議に感じることはなくて、どこか当然な気がした。体が勝手に動き、右手が黒い幹を撫ぜる。そこで不自然な凹凸を見つけた。黒より、なお黒い、ヨルイロの穴――鍵穴の形をしている。
鍵なんて、あったっけ……。
愚問だった。握っていた左手を開けばそこに鍵があった。直感があった。絶対に対の鍵と錠であると。そしてこの鍵が、白練の血の鍵であると。
果たして、音もなく錠は開き、辺りは光に包まれる。
思わず瞑ってしまった目を開き、更に見開いた。
しわがれた手が本を持っているのが目に入ったからだ。見覚えのある、ひざ掛けとゆらりゆらりと揺れる視界。
これは、じいちゃんの……?
ちろりん。
呼び鈴がなった。視線が上へと向き、玄関の方へ移っていく。ドアを開ければどこかで見たことがあるような、眼鏡をかけた神経質そうな男性が立っていた。そして懐かしい声が耳朶を打つ。
『よく来なさった。お茶を淹れよう。良い茶葉が入ったんですよ』
『ありがとうございます。失礼しますね』
『こちらへ』
視点が室内へ戻った時だった。
ドンっ
背中に衝撃を受ける。口からごぼりと赤い液体が溢れた――血だ。
『我汝に物申す。汝に相応しきは我が錠。来たれ、『王鍵』!』
鍵の争奪の呪!
『な、なぜだ!?なぜ私のモノにならない!』
『残念、でしたな。鍵は貴方を認めないそうです、よ』
ごぼっ。しわがれた声が血に呑まれ、視界は真っ赤に染まっていく。段々と彩度と明度が低下し、やがて黒になった。
再び目を開ければ今度は寒々しい、桜の樹の上だ。もとに戻ったらしい。
「今の、は……」
じいちゃんの、記憶?いや、と即座に否定する。何か違うと直感が叫ぶ。ではこの記憶は一体……?まさか、鍵の記憶!?カチリとパズルのピースが嵌った音がした。他の記憶は見られないのかと必死に念じてみたけど、うまくいかない。
どうやってさっきの空間に入れたのか?……こうやって桜の樹の上で、ぼんやり外を眺めていた。あの時俺は……何を考えていた?白い魔女の伝言について、考えていて……あれっ、どんな伝言だったっけ、思い出せない。もしかしなくても、あの言葉が鍵だったのだろうか。修行すれば、もっと鍵と向き合えばいつでもあの場所に行けるのかもしれないが、いつまで掛かるかわかったもんじゃない。……でも、犯人の顔は覚えた。
いつの間にか、空は薄赤く紫になっていた。心の奥に封じていた怒りと悲しみが、明確な敵の姿を見出したことで一気に膨れ上がっていく。一方で、冷静な自分は体を器用に操ってするすると樹から下りたのだった。
蘇った怒りと悲しみを抱えたまま夕食を腹に流し込み、ごろりと布団に転がった。僅かに見える、糸のように細い三日月の微かな光が差し込む寝室。積み上げられた本が、夜に慣れた目にぼんやりと映る。
今日は眠れないだろうな、と思ったのが嘘のようにあっさりと眠りについた。
(あ、これ夢だ)
ふわふわとした感覚。五感が十全に機能していないからこそ、自分が今夢を見ているということがわかる。何が起きるかな、まあ目が覚めたら忘れちゃうんだけどさ……。
ふと、桜の花弁が風に乗ったようにいずこからか流れてきた。風上を見遣れば、そこには忘れもしないじいちゃんがいた。穏やかな表情で、俺を手招いている。
『じいちゃん、俺、強くなっているよ。友達もできた。白蓮流の剣術の訓練も続けてるよ』
じいちゃんは微笑んだまま。
『……じいちゃんを殺した人、見たんだ。ねえ、誰なの。教えてよ』
俺の右手にはいつの間にか紅い刃が出現していた。じいちゃんはゆるゆると首を振って悲し気に微笑んだ。
『じいちゃん、話してよ、お願いだからさ……。犯人についてじゃなくてもいいから……。ずっと怒ってた、ずっと悲しかった、ずっと、ずっと寂しかったんだ!』
夢の中だからか、大好きなじいちゃんの前だからか、普段の自分らしくなく何もかもを吐露している。情けなくて俯く。
ふっと、何かに包み込まれた。顔をあげれば優しいじいちゃんの顔があった。じいちゃんは人差し指を皺が目立ちつつも、緩く弧を描く唇に当てた。でも、目は悲し気で。もう一度抱きしめられて、じいちゃんは離れていった。俺は動けずに、薄れ遠ざかるじいちゃんを見つめた。
見れば、右手にはもう、紅い刃はなかった。




