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第一話 進路希望調査は白紙のまま、時空の歪みに飲み込まれました

「――で、進路希望調査をまた提出していないのは、おまえだけだぞ。香月」


放課後の職員室。西日が差し込むデスクの向こう側で、担任の男教諭が頭を抱えながらため息をついた。

指先でコンコンと叩かれているのは、見事に真っ白な一枚の紙。一番上に書かれた『香月(こうづき) 汐恩(しおん)』という自分の名前だけが、やたらと綺麗な文字で主張している。


「あ~・・・すみません。まだ親とちゃんと話し合ってなくて・・・」


黒髪ショートボブを小さく揺らし、汐恩はあははと苦笑いを浮かべた。

まぁ、嘘なのだが。香月家は先祖代々続く一族で、両親も超が付くほどの放任主義。「汐恩の好きなように生きればいい」と言われているので、話し合うも何もない。ただ単純に書くことが思いつかないのだ。


「ったく、おまえな・・・。成績はトップクラス、運動神経も抜群で、大学の指定校推薦だって何件も来てるんだぞ?選び放題だろうが」


「う~ん、でも行きたいところが特にないんですよねぇ・・・」


「それを決めるための進路だろ。・・・はぁ、まぁいい。とりあえず今週中には必ず親の印鑑を押して提出しろ。いいな?」


「は~い、わかりました~」


語尾を少し伸ばした適当な返事を残し、汐恩はひらひらと手を振って職員室を後にした。


校舎を出ると、運動場から部活に励む生徒たちの威勢のいい声が聞こえてくる。汗を流し、ボールを追いかけ、目の前のことに全力になっている同級生たち。

汐恩はオーバーサイズのパーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、ぼんやりと彼らを眺めた。


(何で、あそこまで熱中できるんだろう・・・)


自分には、何もない。

勉強も運動も、少しコツを掴めば人並み以上にできてしまう。けれど、そこに情熱や達成感を感じたことは一度もなかった。


(・・・まぁ、私の場合『人並み』じゃないからなぁ・・・)


校門を抜け、夕暮れ時の街を歩きながら、胸中でぽつりと呟く。

香月家は、現代の人間の世界に溶け込んで生きる『鬼』の一族で、唯一の生き残りだ。

いつ襲撃者や不測の事態が起きても自分の身を守れるよう、汐恩は幼少期から血の滲むような鍛錬を叩き込まれてきた。人間とは比較ならないほどの身体能力、高い知能と治癒力、そして体内に秘めた『妖力』を持つ。現代でその存在を知っているのは、日本のトップである総理大臣などごく一部の人間だけである。


(・・・とはいえ、だよなぁ)


汐恩は自分の掌をじっと見つめた。

幼少期から命がけで磨き上げてきたこの戦闘力。今のところ、その使い道といえば――学校の体育の授業で「圧倒的運動神経の持ち主」として無駄に活躍するくらいだ。


(球技大会で適当に加減して無双するとか、マジで何の意味があるんだろ。相手を骨折させないように手加減する方が疲れるっつの。この時代にこんな戦闘力、本当に必要なのかな・・・)


虚しさを覚えつつ、汐恩はため息をついた。

このままふわっと人間社会に混ざって、何となく進学して、何となく就職して・・・そうやって平凡に生きていくのだろうか。それが悪いことだとは思わない。けれど、どこか自分の人生を他人事のように感じているのも事実だった。


考え事をしながら歩いていると、小さな路地の角に見覚えのある赤提灯が見えてくる。汐恩のお気に入りの駄菓子屋だ。

「おばちゃん、ポテチとおせんべいちょうだい」とお小遣いで買い出しを済ませ、レジ袋をカサカサ鳴らしながら、近道をするために静かな裏路地へと足を踏み入れる。


古い民家のブロック塀に挟まれた、薄暗い道。

その中間まで差し掛かった、まさにその時だった。


(・・・ん?)


ピクリ、と汐恩の短い黒髪が揺れる。

背筋をぞわりと撫で上げていくような、奇妙な『気配』。


汐恩は歩みを止め、鋭い視線で周囲を見回した。

忍び寄る暗殺者か、あるいは凶悪な怪異か。

小さい頃から叩き込まれた戦闘本能が瞬時に警戒態勢に入る。しかし、誰もいない。路地裏には静まり返った夕暮れの空気が漂っているだけだ。


「・・・気のせい、かな」


ふっと肩の力を抜き、再び踏み出そうとした――次の瞬間。


視界の全てが、眩い純白の光に染まった。


「っ・・・!?」


空間そのものがねじ切れるような奇妙な不快感。足元から重力が消え去り、身体ごと底なしの渦に飲み込まれていく感覚。

咄嗟に抱え直した駄菓子屋の袋の感触を最後に、汐恩の意識は一瞬にして浮遊感の中へと攫われていった。


♢


「・・・んぐ・・・っ」


どれくらいの時間が経ったのだろうか。

湿った土と、青臭い葉の匂いで目が覚めた。


ゆっくりと瞼を開けると、視界に飛び込んできたのは夕暮れの街並みではなく、見たこともないほど巨大な巨木が立ち並ぶ鬱蒼とした森だった。


「・・・え、何ここ。樹海?」


汐恩は身体を起こし、黒髪についた葉っぱを払う。

パーカーのポケットからスマホを取り出してみるが、当然のように『圏外』の文字。


「うわぁ、マジか・・・近道しようとしただけなんだけどな」


呆れ半分で呟いたその時――ドシン、と地鳴りのような足音が響いた。


背後の茂みが大きく揺れ、凄まじい威圧感とともに『それ』が姿を現す。

体高3メートルを超す、毛むくじゃらの巨大な熊――いや、頭部にいくつもの目が蠢き、口から禍々しい黒い煙を吐き出している、明らかな『妖怪』だった。


グオオオオオオオッ!!


空気を震わせる咆哮。現代の地球ではあり得ない化け物が、目の前の華奢な少女――汐恩を「ただの餌」と認識し、太い前脚を振りかざして襲いかかってくる。


しかし、汐恩の表情には焦りも恐怖もなかった。

ただ呆れたように小さく息を吐くだけだ。


「・・・なるほど。鍛錬の成果の使い道、ここにあったわ」


ズンっ、と足に妖力を込める。

巨熊の爪が汐恩の黒髪を掠めるよりも早く、彼女の身体は消像して消えた。


「――【鬼流・一閃】」


すれ違いざま。

汐恩の手元から溢れ出た深紅の妖力が、鋭い刃の形を成して巨熊の首元を真横に薙ぎ払う。


ドサリ。


一瞬の静寂。巨大な胴体と首がズレ落ち、地面を揺らして倒れ伏した。血の一滴すらパーカーに飛んでいない。

汐恩は右手の手刀に纏わせた妖力をふっと消すと、足元に落ちていた駄菓子が入った袋を拾い上げた。


「よし、ポテチとおせんべい無事。・・・で、本気でここどこ?」


首を傾げながら森を歩き出すと、木々の隙間から古びた鳥居と、今にも崩れ落ちそうな小さな廃神社が見えてきた。


「あ、神社。・・・まぁ、古びてるけど雨風しのげればいっか」


汐恩はパーカーのポケットに手を突っ込み、呑気な足取りでその神社の中へ向かって歩き出した。

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