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番外編七 エルダ村の春の集会所




 黒森の雪が解けると、エルダ村の地面は最初に匂いを取り戻す。


 湿った土、古い落ち葉、芽吹き始めた草、煙突から落ちた煤、冬の間に閉じ込められていた水の匂い。村長の娘リーネは、その匂いを嗅ぐたびに、今年も春まで生きたのだと思う。


 昔のエルダ村では、春はただの季節ではなかった。


 冬を越せなかった家を数える季節だった。


 雪で潰れた屋根、凍った井戸、湿った寝床、足りなかった薪。誰かの家から煙が上がらない朝、村人たちは口数少なく集まった。悲しむ暇もなく、次の冬の準備を始める。北境で生きるとは、そういうことだった。


 だが、今年の春は違う。


 村の中央に、新しい集会所が建った。


 新しいと言っても、王都の建物のように白く輝くわけではない。太い梁と石の基礎、厚い壁、大きな暖炉、広い土間、子どもが転んでも怪我をしにくい木の床。見た目は素朴だが、北境の冬を知る者には分かる。


 これは、強い家だ。


「リーネ、入口の敷物をもう少し右」


「はい!」


 リーネは藁で編んだ敷物を抱えて動かした。


 今日は集会所の開所日である。


 ノルデン公爵家からミリアが来る。家守学校の見習いも数人来る。村の子どもたちは朝からそわそわしていた。なにしろ、集会所の暖炉に正式な名前がつく日なのだ。


 家に名前をつける。


 最初に聞いたとき、村の大人たちは困惑した。


 家は家だ。暖炉は暖炉だ。井戸は井戸だ。名前など必要ないと思っていた。


 けれど、ミリアは言った。


「名前がなくても働けます。ですが、名前があると呼べます。困ったとき、ありがとうと言いたいとき、休んでほしいとき、呼びかける相手がはっきりします」


 その言葉を聞いて、村人たちは少し考えた。


 北境では、人の名を呼ぶことに重みがある。


 吹雪の中で名を呼べば、生きているか分かる。森で迷った子の名を呼べば、帰る道になる。ならば、家の名を呼ぶことにも意味があるのかもしれない。


 集会所の暖炉の名は、村の子どもたちが決めることになった。


 候補は三つ。


 ぽかぽか様。


 大きい火。


 まもり火。


 村長は三つ目を推しているが、年少組は圧倒的にぽかぽか様を支持している。リーネとしては、まもり火が良いと思う。だが、三歳の弟が「ぽかぽかしゃま」と言うと、少し揺らぐ。


 午前の鐘が鳴る頃、馬車が到着した。


 ミリアは厚手の外套をまとい、いつもの道具箱を持って降りてきた。隣にはルカとミナ、それから家守学校の見習いが二人。グレンは公務で来られないらしいが、代わりに公爵家の職人が同行している。


「お待ちしていました!」


 村長が頭を下げる。


 ミリアは微笑んだ。


「開所、おめでとうございます。とても良い集会所ですね」


 その瞬間、集会所の扉が少しだけ開いた。


 まるで褒め言葉を聞いて、照れたように。


 子どもたちが歓声を上げる。


「扉が笑った!」


「本当だ!」


 ミリアは扉へ手を当てた。


「今日はよろしくお願いします」


 扉は、ぎい、と柔らかく鳴った。


 開所式は質素だった。


 村長の挨拶。公爵家からの祝辞。建設に関わった職人の紹介。冬の避難場所としての使い方、炊き出しの手順、寝具の保管場所、井戸水の管理方法。


 王都の貴族なら退屈するかもしれない。


 けれど、村人たちは真剣だった。


 この集会所は、祝宴のためだけに建てられたのではない。吹雪の日、火事の日、魔獣警報の日、家を失った人が一晩眠るための場所だ。


 暮らしを守る建物である。


 昼前、暖炉の命名式が始まった。


 子どもたちが前に並び、三つの候補から選ぶ。投票用の小石を器へ入れる方式だ。


 結果は、ぽかぽか様が七票、まもり火が六票、大きい火が二票。


 村長が少し残念そうな顔をした。


 だが、ミリアは真剣に頷いた。


「では、この暖炉の名前は、ぽかぽか様です」


 大人たちが笑いをこらえる。


 しかし、暖炉の精霊は明らかに喜んでいた。石の奥で、小さな火の子が胸を張っている。


『ぽかぽか』


「はい。ぽかぽか様」


『さま』


 暖炉の火が、ぱっと明るくなった。


 子どもたちは大喜びした。


 リーネは少し恥ずかしかったが、火の暖かさを感じると、これで良かったのだと思った。


 大切なのは立派な名前ではない。


 呼びたくなる名前だ。


 その後、集会所で最初の昼食が配られた。


 大鍋の野菜スープ、黒パン、干し肉を薄く切ったもの、春の若菜を塩で和えたもの。王宮の料理ではないが、村人にとっては十分なごちそうだ。


 リーネは配膳を手伝った。


 ルカが隣で、子どもたちの列を整理している。


「一人一杯ずつ。足りなかったら、おかわりは後で。押すな。スプーンは自分の分を持っていけ」


 彼の声は厳しいが、怖くない。


 子どもたちは素直に並んだ。


 ミナは小さな子にスプーンの持ち方を教えている。


「こうやって持って、こうして食べると、食べやすいですよ」


 三歳の弟が真似をして、慎重にスープをすくった。


「こぼした」


「こぼしても大丈夫です。拭けばいいです」


 ミナは布で床を拭き、床板へ小さく言った。


「すみません。あとで乾拭きします」


 床が、きゅ、と鳴った。


 リーネはその様子を見て、胸が温かくなった。


 集会所は、人を叱るための場所ではない。


 こぼしても、泣いても、寒くても、まず受け止める場所だ。


 午後は、村人向けの家守講習が行われた。


 内容は簡単だった。


 暖炉の灰を全部取りすぎないこと。火は強ければ良いわけではないこと。井戸の桶を乱暴に落とさないこと。寝具は晴れた日に干すこと。扉の前に雪を積み上げないこと。


 大人たちは最初、そんなことかという顔をした。


 だが、ミリアが言った。


「そんなこと、を毎日続けるのが家守です」


 誰も笑わなくなった。


 講習の最後、ミリアは村人へ質問した。


「この集会所を、誰のものだと思いますか」


 村長が答えた。


「村のものです」


「はい。では、村とは誰ですか」


 少し沈黙があった。


 リーネは考えた。


 村長。大人たち。子どもたち。猟師。畑を持つ人。冬に薪を割る人。井戸を掃除する人。遠くへ嫁いだ姉。春に帰ってくる商人。雪の日に泊まる旅人。


「ここに来る人、みんな」


 気づけば、リーネはそう言っていた。


 ミリアが嬉しそうに笑った。


「そうです。だから、みんなで守ります。誰か一人が無理をして支える場所ではありません」


 その言葉は、村人たちの心に落ちた。


 北境では、我慢強い人ほど頼られる。頼られるうちに、倒れる。倒れたら、また別の我慢強い人が支える。それが当たり前だった。


 だが、家も人も、支えを一人に押しつければ壊れる。


 冬の寒さを知る村だからこそ、その意味が分かった。


 夕方、ミリアたちが帰る前、リーネは集会所の暖炉の前に立った。


 ぽかぽか様の火は、昼より少し小さくなっている。けれど、まだ十分温かい。


「今日はありがとう」


 リーネが言うと、火が小さく揺れた。


「冬になったら、たくさん頼ると思う。でも、休ませるから。無理しないでね」


『ふゆ』


 暖炉の精霊が言った。


『まもる』


 リーネは目を見開いた。


 はっきり聞こえたわけではない。けれど、胸の奥でそう感じた。


 冬が怖くなくなったわけではない。


 北境の冬は、今も厳しい。雪は積もり、風は刺し、薪が足りなければ命に関わる。


 それでも、帰れる場所が一つ増えた。


 名前を呼べる暖炉ができた。


 それだけで、人は少し強くなれる。


 馬車が出るとき、ミリアはリーネに小さな記録帳を渡した。


「集会所の記録をお願いします」


「私が、ですか」


「はい。今日の火の様子、使った薪の量、食事をした人数、困ったこと、嬉しかったこと。書ける範囲で構いません」


「嬉しかったことも?」


「記録の中心は事実です。でも、暮らしの記録には、嬉しかったことも必要です。次に同じ喜びを作るために」


 リーネは記録帳を抱きしめた。


「書きます」


 その夜、集会所の最初の記録には、こう書かれた。


 春の第一開所日。参加者四十六名。昼食、野菜スープと黒パン。薪使用量、予想より少ない。暖炉ぽかぽか様、機嫌良し。床にスープをこぼしたが、すぐ拭いた。


 最後に、リーネは少し迷って一行足した。


 子どもたちが、冬になってもここへ来れば大丈夫だと言った。


 それは数字ではない。


 だが、村にとって大切な記録だった。



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