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5 アリスタと師匠

 隠し通路を辿ると、城の裏手側に出た。来る時に引っ掴んできたなるべくボロそうなイリスの服に、暗闇の中で着替える。着ていた服は上等な物で、この場で捨てていくには惜しいと思い、途中、まだ開いていた古着屋で売った。まだ白い地域だから、ここから足がつくことはあるまい。

 

 そのまま、師匠の元へと人目を避けながら向かった。師匠はやもめだ。子供はとうに成人し、部屋が余っているのも知っている。酔うと時折、「お前今日は泊まっていけ」とちょっぴり淋しそうに言うことがあったので、実は相当淋しいのだろうと思っていた。だからきっと、口ではあれこれ言いながら家に招いてくれる。そう考えた。


 ――人頼みの、あまりにも独りよがりで杜撰な考えだ。


 俺は頭をぶるぶると振ると、改めて自分の心の中を冷静に見つめ返す。そうじゃない、そういうことじゃない。素直になれ。こういう利己的な計算高い考えばかり詰め込まれてきたから、思考がすぐにそちらに傾くだけだ。


「……師匠」


 師匠の家の明かりが見えた。向かいのハンナおばさんの工房からも、光が漏れている。まだ起きていた、よかった。そう思っただけで、安堵で足許から崩れ落ちそうになる。


 なんとか師匠の家の扉の前に立つと、叩こうとして躊躇った。俺のこの行動は、ひと言で表すならば家出だ。師匠に帰れと言われたらどうしようと思うと、上げた手をそれ以上動かすことが出来なくなった。


 脳裏にちらつく、俺を狙うイリスの俺と同じ顔。アレスタは悪徳王子だという噂がいつまでも消えなかったのは、もしかしたらあいつのあの態度が原因なのではと思い始めていた。俺は直接見る機会がないから知らないが、もしかしたらよそにもああいう欲望を曝け出して隠しもしていなかったのではないか。


 それに、これまで見ていたのは作られた仮面だったのだと知らされた色欲と権威欲にまみれたティナのあの顔。正に小説に出てくる様な悪役令嬢さながらの態度は初めて見たが、貴族たちの間でそういう噂が絶えなかったのは、俺が見えていなかっただけでああいう態度を他の人間には見せていたからなのではないか。


 何も知らず、俺は呑気に生きていたのだ。だが、知ってしまった。知ってしまった以上は、あんな場所には戻りたくない。戻ったら、俺の人生は諦観で染まる。


 ここに、これまで経験したことのない様な温かで穏やかな人々の思いやりがあることを知ってしまった以上、俺はもう何も知らないまま守られて隠されているのを当然だと思いながら生きてはいけない。


「……師匠……!」


 思い切り叩くことがどうしても出来なくて、扉にトンと拳を付ける。すると、暫くして中でこちらに向かってくる音がしたかと思うと、躊躇いがちに扉がゆっくりと開かれた。


 隙間から覗く、師匠の驚いた顔。


「アリス?」

「師匠ぉ……っ」


 こんなこと、一国の王子が平民に言ったなんて知られたら、周りの人間は俺をさぞや軽蔑することだろう。だけど、もう他に言葉は思いつかなかった。


「師匠、助けて、助けて……!」


 涙が溢れた。師匠は、慌てた様に扉を開けると俺の腕を掴んで中へと引っ張る。外に誰もいないのを確認する為か、顔を出してキョロキョロした後、頭を引っ込めるとパタンと扉を閉めた。


 その場で情けなくもはらはらと涙を流して立ち竦む俺を振り返ると、ちょっと困った様に笑った後、俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。


「アリス、そう泣くな。怖かったのか? ん?」

「師匠ぉ……っ!」


 そう、俺は怖かったのだ。俺に対し剥き出しにされる理解出来ない感情が、ただひたすらに怖かった。


 ――やはり俺は、国王には向いていない。


 嗚咽を叫び声の様に出しながら、その事実を強烈に認識する。俺はあいつらみたいにはなれない。なりたくもない。それに自分で現状を変えることすら出来ない臆病者だ。


 ただ怖がって泣いているだけの子供だ。


「よしよし、部屋は余ってるからな、寝る場所を用意するからとりあえずこれでも飲んで待ってろ」


 師匠はそう言うと、俺に飲みかけの白い滑らかな液体が入った碗を手渡した。


「……うん」


 まだ止まらない涙と鼻水を啜りつつ、碗に口を付ける。甘そうな香りと同時に、ツンとしたきついアルコールの刺激臭が鼻腔に飛び込んで来た。


 未知の飲み物だったが、師匠の飲みかけだ。城とは違い、ここには怖いことは何もない。


 そう思い、俺は思い切りそれを口に含んだ。途端、口腔内に広がる甘ったるい乳の様な味。何かの動物の乳から出来ているのかもしれない。ごくんと嚥下すると、焼け付く様な刺激を感じて思わず喉を押さえた。


「こら、これはチビチビ味わって飲むもんだぞ」


 あはは、と師匠が笑う。つられて笑顔になった俺は、いつもの俺の席に腰掛けると、師匠の習いに従ってチビチビと飲むことにした。


 師匠は忙しなくバタバタと物を運んでいたが、終わったのだろう。暫くすると俺の向かいの師匠の席に座り、別の碗にコポコポと同じ酒を注ぎ、飲み始めた。


「で? どうした?」


 そのあまりにも心が籠った口調に、酒が入った所為もあり、俺は自分が王子であること以外全てを喋ってしまった。


 静かだと思っていた婚約者が急変し、欲をむき出しにして迫ってきたこと。俺に仕える人間が、常に俺の貞操を狙っていること。それでも逃してくれて、でももうこの機会を逃したら絡め取られて逃げられないと思って必死で逃げてきたこと。


「アリスは真っ直ぐだからなあ。人が本来は隠している昏い欲を見て、当てられちまったんだなあ。可哀想に」

「俺、弱いよな……はは……」

 こんなことで怖がっている様では、この国の頂点に立つなど到底無理だっただろう。俺は本当に臆病で弱い人間なのだと悟ると、深い沼に沈みたくなるくらい自分を情けなく思った。


 師匠が、また頭を撫でる。


「お前は弱くないぞ。ちゃんと俺に助けてって言えたからな」

「……そう?」


 また涙がじわりと滲む。


「そうだ。俺がお前を助ける気になったのは、これまでのお前が俺に誠実だったからだ。そうでなきゃ、助けようなんざ思わない」

「師匠……」


 師匠を見ると、涙で滲んだ上に慣れない酒で二重になった師匠の顔が笑っていた。


「安心しろ、俺はお前の味方だからな」


 心からの安堵。身体から力が抜けて、俺は机の上に突っ伏す。ぐらんぐらんして、もう起きていられなかった。


「おいおい、酒弱かったのか? 待ってろ、水を持ってくるからな」

「うん……」


 そのまま、俺は心地よい深い眠りへと沈んでいく。暫くして師匠が戻ってきた気配を感じたが、もう目を開けることが出来なかった。


 師匠の手が、俺の頭を子供にするみたいに優しく撫でる。


「……本当は、お前みたいな人間が王様になった方がいいんだろうけどなあ。でも可愛い弟子の頼みだ、師匠としちゃあ守ってやらないとな……」


 それは、夢で聞いた言葉だったのだろうか。


 俺には、判別がつかなかった。

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