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「夏月の荷物は本当にこれだけ?」

「ええ、もともと少ないので。使わないけれどとっておきたいものは昔祖母と住んでいた家に置いたままですし、衣類もすぐ使わないものは祖母の家に置かせてもらって、必要に応じて持ってくるつもりです。家具や家電もほとんど手放しましたから」

「それなら良いけど…じゃあこれでお終いかな?」


 朝、7時頃ハルさんの店と英治さんの店に顔を出し、荷物が運び込まれる前に、私たちが住む店舗3階の住居スペースを一応掃除して。9時前には引越し屋さんが、その後、手配していた家具や家電が順次運び込まれた。

 英治さんの荷物も思っていたほどは多くなく、引っ越しのプランも荷解きまでしてもらうものだったこともあり、午後3時前にはほぼ片付けが終了。

 ガスも電気も水道も既に手続きは済ませているので、後は細かい日用品や雑貨を買い足せば問題なく暮らせるだろう。


「せっかくだし、今から買い物に行こうか……鍋とか欲しいって言ってたよね? それに細々したものも必要だろう? 洗剤とか、シャンプーとか」

「行きましょう、お買いもの! なんか楽しいですね!」


 デートだデート! なんてはしゃいでいたら、いつの間にかすぐ近くにマネージャーの小山田 靖さんが立っていた。小山田さんは、英治さんの店の構想段階から彼と一緒に仕事をしていて、渡仏前彼が任されていた店でも英治さんをサポートしていた右腕というか旧知の仲というか……私とのことを含め彼をよく知っているらしい。


「奥様、えらくご機嫌ですね」

「その『奥様』ってやめてもらえません?」

「じゃあ『蘇芳夫人』ですか? それとも『マダム』がよろしいですか?」

「それもちょっと……もっと普通に呼んでもらえないですか? 夏月とか水縹とか…。」

「嫌ですよ、そんな呼び方したらヒデが厄介ですから」

「本人が良いならいいじゃないですか?」


 小山田さんから向けられる生温かい視線に耐えながら私の呼び方について奥様はやめてくれとお願いするもなかなか受け入れてもらえない。


「いくら夏月が良くても僕は良い気がしないからね」

「そう言うことですよ。ご不満ならご自身でヒデを説得してください」

「で、靖はなんで僕の家にフツーに上り込んでるわけ?」

「玄関が開いてたんでつい。これは取り急ぎ渡した方が良いんじゃないかと思って」


 そう言って小山田さんは英治さんにメールをプリントアウトしたものを渡すと店に戻って行った。






 ***


「英治さん、私、奥様ってキャラじゃないんで。そう呼ばせるのやめてほしいんですけど……」

「でも下の名前で呼ばせるのはなんかムカつくから嫌だよ?」

「ムカつくって……コドモじゃないんだから」

「じゃあマダムでいいじゃん?」

「レストランでいうところのマダムってなんか違いません? 私、厨房にいるわけですし……。仕事中は『水縹』を名乗らせてもらえたら助かるんですけどダメですか?」

「勿論。何でそんなに僕の妻であることを隠したがるわけ?」

「べつにそんなつもりは無いですから……それに正確にはまだ妻じゃないですけどね」


 買い物へ出かける車内で、私は先ほど小山田さんに言われたとおり、英治さんに私の呼び名について直談判していた。

 まだ籍は入れていない。私の誕生日に……という約束をしているので、正確にはまだ奥様だとかマダムと呼ばれる資格は無いんだけどな。奥様とかマダムって、もっと綺麗に着飾ってゴージャスな女性のイメージ。ご夫婦で経営されてるフランス料理店とかだとオーナーシェフの奥様が「マダム」と呼ばれ、店を切り盛りしていることも多いし。ノーメイクでコックコート着ている私とはかけ離れ過ぎる。


「それから……仕事中にイチャイチャするのもやめてもらえませんか? 仕事がやり辛いったらありゃしないんです。休憩も自分のタイミングで取らせてください」

「だからそれは来月にはやめるって言ってるだろ? ……っていうかもう明後日からはしないから安心して」

「本当ですか!? やっと分かってもらえて嬉しいです」

「いや、夏月の気持ちは分かっていたけどさ……分かるんだけど……プライベートな時間も今まではそういうことできなかった訳で…むしろプライベートな時間の方が出来なかった訳で……」

「は?? 仰っている意味が分からないんですが?」

「まぁ、要するに欲求不満だったってこと。今夜からはその心配はないからプライベートと仕事の線引きはきっちりさせてもらうよ? 覚悟しといて?」


 つまり、祖母の手前何も出来ず、ふすま一枚隔てたところで毎晩モヤモヤしていたってわけですね。キスだけで我慢できるかって暗に言ってるわけですね。……はい、良くわかりました。良くわかりましたけど……覚悟はしかねます。体力的に無理です。無理なんですって。私はこっちへ来てから毎日へとへとだったんで布団に入ると一瞬で寝てましたからそんなことに全く気付きませんでしたよ。某国民的アニメの黄色い服を着た眼鏡の少年もびっくりな寝つきの良さでしたからね、最近の私。




 結局スタッフ間の呼び名も、私が「蘇芳さん」で、英治さんが「オーナー」とか、「ヒデさん」とか、「英治さん」とすることで落ち着いた。ハルさんと桃子さんに関しては今まで通り「夏月」とか「夏月ちゃん」でOKらしい。


 呆気ない位あっさりと問題が解決し、2人の時間を思い切り楽しむことが出来た。といっても何か特別なことをしたわけでも、特別な事があったわけでもない。日用品の買い物という、本当に何気ない日常の一コマ。

 今後も何十回、何百回も当たり前にするであろう事がこんなにも特別に感じられる。幸せなんて気持ちの持ちようでいくらでも感じられるというけれど、本当にその通りだって初めて思えた。

 鋳物の琺瑯鍋を大きさ違いで2つ買って、足りない食器を買い足して、夫婦茶碗を買って、シャンプーやボディソープ、洗濯洗剤や柔軟剤を2人で選んで。今日から2人きりで生活する事をようやく実感。

 夕食はどこかで食べようか? なんて話になったけれど、結局食材を買って私が作ることになった。



「何気にさ、夏月の手料理を食べるのは初めてだよね? 楽しみだな」

「英治さん……刃物を持っているときは抱きつくのやめて下さいって何度言ったらわかるんです?」

「夏月こそ……その喋り方どうにかならない? 誠治君にはあんなにフレンドリーに喋っていたのに。僕にもそんな風に話して欲しいって言って……一時はそうしてくれていたじゃないか?」

「話をすり替えないでください……なんか落ち着かないんですよ、英治さんにタメ口って。……だってずっと憧れてたんですよ……この話し方の方がしっくりくるんです。つまり……それだけ英治さんが大好きって事ですから」

「なら仕方ないか……最後のところ、もう一度言ってくれないか?」

「嫌です。ほら、刃物を持っているときは抱きつかないって約束はどうしたんです?」

「それは仕事中にした約束だから今は無効だよ?」

「じゃあ手が滑って刺しても文句言わないでくださいね?」

「スミマセンデシタ」


 包丁の刃先を自分と抱きついている英治さんに向けるとようやく抱きつくのをやめてくれた。

 実はあまり料理が得意ではない。お菓子と料理は全然違う。だから、出来るだけ集中して料理をしたかったのだが、英治さんの邪魔ですっかりペースが狂ってしまい、やたらと時間がかかってしまった。


 そしてどうにか作った夕食。

 豆ごはん、筍と若布のお味噌汁、鰆の塩焼き、スナップエンドウと新じゃがの炒め物、キャベツとジャコのサラダ、それから買ってきたお漬物。

 出来栄えは可もなく不可もなくと言ったところか。そのうち、店が軌道に乗って時間に余裕が出来たら料理を習いたいと思っている。教えてくれる当てはあるんだけどな……。近いし、融通が利くから今すぐにでも習いに行きたいところだけど、残念ながら現状ではとても無理そうだ。




「ごちそうさま……美味しかったよ。毎日夏月の作る食事を食べられるのかと思うと……幸せだな……。」


 食事の後片付けをする私の隣へやってきて笑顔で……例の如く後ろから抱きついた状態で囁く英治さん。

 振り向いて……満足そうな英治さんの顔を見て、私はやっとほっとすることが出来た。……でも、今、「毎日」って言いました?


「英治さん……私、毎日食事を作るんですか?」

「え? 何言ってるんだい?」

「あの……賄い……ないんですか?」

「その件なんだけどね…今、悩み中。特に夜。とりあえずスタッフが集まってから意向を聞こうと思ってるんだけど……どう思う?」

「人によるんじゃないですかね? 賄い食べるくらいなら早く帰りたいって人もいるでしょうし……逆に帰って用意するの面倒だから食べて帰りたいって人もいるでしょうし。いっそ希望者だけにしたらどうです? 1回いくらって決めて、食べた時だけ払う……みたいな感じで。もちろん、私は賄いが良いです! 毎日賄い希望です! 英治さんもそうですよね?」

「夏月……それ、本気で言ってる?」

「ええ、もちろん本気です!」

「……………」


 えっと、もしかしてダメでしたか? 英治さんうなだれてますけど……。

 だって、私の料理より、絶対プロが作る賄の方が美味しいに決まってるじゃないですか? 毎日比較されるのは無理です。お菓子には自信がありますけど、料理は無理ですよ?


「まぁ確かに、1日中厨房にいるのに食事を作って欲しいって言うのは……僕の我が儘なのかな?」

「プロの作る賄いの方が私の作る食事より美味しいに決まってますからね。舌の肥えた英治さんに食事を作るって私からしたら勇気のいることなんですよ?」

「何言ってるんだい? 夏月だってプロだろう?」

「私は菓子職人であって料理人じゃないんです。料理のセンスが無いんですよ、センスが。お菓子と料理は別物ですからね……中には佐伯さんみたいに両方イケちゃう人も結構いますけど」

「夏月は誠治君の事をえらく評価しているよね? そんなに彼を誉めると妬いちゃうよ? それと、夏月が作ってくれる食事ならカップラーメンでも構わないから」

「英治さん、カップラーメン位自分で作ってください。それと……佐伯さんにやきもちを妬きたいのは私の方ですよ? 英治さんが暇さえあれば彼に電話してるの私、知っているんですからね? 食事の件は、暫くは様子を見させてください……。どの程度余裕があるのかわからないですし、料理に自信が無いので……。時間に余裕が出来たら料理も習いたいんです、祖母のところで。本当は花嫁修業的に習うつもりだったんですけど…ここ1ヵ月は思っていた以上に忙しかったし……」


 急に英治さんの表情が明るくなった。


「夏月は本当に僕が好きなんだね」

「……………大好きですよ。じゃなきゃ結婚なんてしませんから」

「せっかくだから一緒にお風呂に入ろうか?」

「……そう言えば今日から温泉には入れないんですよね。あーあ、残念」

「今、思いっきり無視したよね? って言うか、温泉なんて数えるほどしか入ってなかったよね?」

「……なんの話でしょう?」

「だから一緒にお風呂に……」

「丁重にお断りさせていただきます!」

「いいじゃないか?」


 その時、背後から声がした。


「相変わらず仲がよろしいですね……」


 小山田さん、再び。

 お昼にやってきた時よりも更に生温〜い視線で私達を見ている。しかも目があった途端、左手を口元に当てて視線を逸らすとか……恥ずかしいことこの上ない。


「だから何で勝手に入って来るんだよ?」

「インターホン壊れてない? もしくは電源ちゃんと取ってる? 何度押しても反応がないんでドアを開けたら開いたから……ちゃんと声をかけたのに無視したのはヒデだぞ? 文句あるならちゃんと施錠してから言ってくれ」

「……で、どうした?」

「電話……昼間のメールの件で……ケータイにつながらないから店にかけたって。先方には折り返すって伝えたから今すぐかけてくれ」

「わかった……。夏月、ごめん。ちょっと行ってくる。お風呂は一緒に入りたいから待ってて」

「ヒデ、ふざけてないで早くしてくれ。全く……こんな変態じゃ奥様も大変ですよね?」


 笑って頷けば、英治さんは拗ねてしまった。そんな彼を小山田さんが半ば引きずるように店へと連れて行く。

 英治さんがいなくなったので、もちろんお風呂に入る。祖母のところでも、残念ながら帰りが夜遅かったのでなかなかゆっくり温泉には浸かれず、シャワーで済ませていた。

 だからゆっくりお湯に浸かるのは久し振り。しかも、以前1人で住んでいた部屋よりもずいぶんバスタブが大きいからゆったりして最高!

 気持ちが良くてついうとうとしてしまう…。おっといけない、寝ちゃダメ……寝ちゃ……ダ……メ……な……の……に……


「夏月?」

「……英治さん!?」


 私は寝てしまっていたらしい。英治さんに起こされて……結果的に一緒にお風呂ですか!? 入ってきちゃったんですか!?


「まさかお風呂で待っていてくれるとは思わなかったなぁ」

「別にそんなつもりは無いです! もう、人が入っているときに勝手に入ってこないでください……」

「そんなに恥ずかしがらなくていいのに。」


 やたら嬉しそうなしたり顔なのがなんだかムカつきます。

 2人でバスタブに入っても、そんなに狭くないのが悔しいです。狭くないんだから、もっとゆったり入ればいいのになぜこんなにくっついてくるんでしょうか? 先程の狭くないは訂正します、狭いです、とっても狭いです。


「夏月?」

「狭いのでもう上がります!」


 耳や首筋にキスされたら……もう恥ずかしくて……とりあえずバスローブを羽織って逃げるようにバスルームをでてきた私。

 こんな雰囲気になるのは2か月ぶり。その前は5年以上のブランクがあったわけで……。でも初めてじゃないし、年齢を考えたら恥ずかしがるのもおかしな話だけど。……おかしな話なんだけど!


 ふと、あることに気付いてしまった。

 私、お酒の力を借りないと無理!!

 もしくは寝起きで頭が働いていない時じゃないと無理ー!!


 初めての時も、再会した時も、その翌日も結構飲んでる!

 唯一飲んでいないのは、寝起きにそのまま……の時だけだ。


 買い物に行った時の話の流れでも、先程のお風呂の様子でもさすがに今日は避けられないし……どうしよう? 何か飲んでおかなくては……といっても、何かあったっけ? 英治さんのワインを勝手に飲むわけにはいかないし……冷蔵庫の中にアルコールなんて無いし……あるのなんて、私が持ってきたお菓子に使う……お菓子に使う洋酒だ!!

 あった、グラン・マルニエ! それから、オードヴィー・ド・フランボワーズとポワールウィリアムス、そしてキルシュヴァッサー! カルヴァドスもコアントローも……。


 どれもこれも蒸留酒だからちょっと飲んどけばどうにかなりそうだ。英治さんがお風呂から上がる前にぐいっと飲んでおこう。さて、どれにしようか……そのまま飲んだことないからなぁ……とりあえず全部味見してみる?

 ……どれもこれも、味というより香りを楽しんだ方が良いみたい……って当たり前か。喉が熱い。ストレートで飲むものでもないよね……ストレートで飲んだとしても、チェイサーが必要だよね? 美味しく飲むならカクテルだろうな。せめてガス入りのミネラルウォーターで割ればよかったと後悔。

 全部少しずつ飲んだら、お風呂上りで体が温まっているせいかあっという間にほろ酔いになって……いけない、着替えるの忘れてた……下着さえ忘れるってどんだけ気が動転しているんだ、私。服、どこだっけ?


「夏月? 何してるんだい? ……なんでグラン・マルニエ持っているの?」

「ちょ……ちょっと……見ていただけです。」

「……1人で飲んでたでしょ? こんな格好で? しかもストレート? 言ってくれたらカクテル位作るのに」


 瓶を片付けながらなぜ1人で飲んでいたのかと英治さんに問い詰められ、お酒の力を借りたおかげもあって白状した私。そんな私を見て、英治さんは非常に嬉しそうな顔で「ふーん」とだけ言うと、お姫様抱っこで寝室へ連れて行かれて。

 思っていた以上に私は酔っていたようで、ただただ気持ちよかったという事と、おぼろげな記憶しかなく、気付いたら翌朝。


 二日酔いは無かったものの、非常に上機嫌な英治さんに散々からかわれ、もう2度とストレートでフルーツブランデーの飲み比べなどしないとひそかに誓った朝なのでした。

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