あの時よりは
息吹は暗い廊下をゆっくり歩いていた。厠に行って来たのだが、あまり布団に戻りたくない気分だった。
(どうして、いつも居心地よく感じた頃に、嫌な事が起きるんだろう)
息吹は夕食の時間を思い出していた。七之助が無理をして笑ってくれたのが、息吹にも分かった。
過去を見たあの夜、法力を教えてもらってから逃げ出そうと思っていたのに、法力はいつまで経っても使えず、その上、七之助や尊治に対しても情が湧いて、逃げ出す事が申し訳ない気分だ。先生の所に帰れるかもしれないと期待したが、怒った尊治を見たらそんな気持ちも何処かへ行ってしまった。
(それでも、ここに来た時よりはましだよね)
息吹は、フッと笑った。あの自暴自棄だった頃を思えば、今はちょっと幸せな気がする。
息吹は気を取り直して、布団に戻ることにした。
(えっ……)
廊下に髪の長い、美しい人が立っている。息吹は幽霊かと思って、目をゴシゴシ擦った。尊治だった。尊治はこちらに気づき、厠かと言った。息吹はコクリと頷くと、黙って尊治が喋るのを待った。いつもであれば、すぐ逃げ出す所だが、今日の尊治は髪を下ろしているせいか、いつもと雰囲気が違った。
「帰りたいか」
尊治はポツリと言った。息吹は最初自分に言ってると気付かず、ぼうっとしていたが、ハッとしてどう答えていいか分からず、やはりバカみたいに突っ立てるだけであった。
「お前は本当にバカだな」
尊治は、呆れたように息吹を一瞥すると、いいものを見せてやると言い、さっさと歩き始めた。
(また前みたいなのはこりごりだな)
そう思いつつも、逃げ出す事もできず息吹は犬のようについていくのであった。




