16 試作品の評価
月曜日。
前の日に真由と一緒に選んだ小さな紙箱に、アップルパイを一切れ入れてきた。秋月さんに渡すため。
けっこう大きな丸いパイの中で、縁の処理が一番上手にできた場所を選んで。
朝、部屋を出るときに、やっぱり渡すのはやめようかと思った。忘れたことにしちゃうとか。
秋月さんには、この週末に作るという話はしていない。
だから、今日渡さなくても、不都合なことはない。
不味いからじゃない。
本当のところ、自分で作ったとは思えないくらい美味しかった。
日曜日に真由と食べて、自分で感動した。
真由も「これなら大丈夫。」って言ってくれたし。
見栄えが悪いからでもない。
切ってみたら、それはあまり気にならない。
なんていうか・・・、 “いいのかな?” って気がして。
手作りのお菓子をあげるって、ちょっと特別な気がしてしまう。
でも、約束したし・・・、お礼だし・・・。
だから、あげなくちゃ!
さんざん迷った末、ようやく小さな箱を入れた紙袋の取っ手を握った。
電車を降りて改札口へ向かいながら、周りを見回す目がおどおどしているのが自分で分かる。
紙袋を持つ手が震えてる。
きょろきょろし過ぎて、自動改札機にぶつかりそうになった。
―― いない。
いつもなら、たいてい改札口の前後で会うんだけど。
駅の外に出ても、初めて出会った信号まで来ても、秋月さんには会わなかった。
どうしよう?
もう、うちの会社の前だ。
・・・メールしてみる?
お買い物に行くことになったときに、連絡先は教えてもらってある。
だけど、なんだか・・・。
どうしよう?
でも、約束だし・・・。
入り口の手前で立ち止まり、少し端の方によけてぐずぐずと悩む。
ええい!
お礼なんだから、気にするな!
『おはようございます。今日、試作品を持って来たんだけど、お昼休みとか、時間はある? 谷村紫苑』
送信!
「えい!」
気合いを入れてボタンを押したら、入り口を入ろうとしていた年配の社員さんが振り向いて笑った。・・・恥ずかしい。
急いで携帯をバッグに入れようとした瞬間、着信のライトが・・・秋月さん!
こんなにすぐ?
「あ、あ、あの、谷村です。」
『紫苑さん、おはよう。』
「あ、はい。どうも。あの。」
自分の会社の前で電話をかけてるのって、なんだか恥ずかしい!
人がいる方に背中を向けてしまうと、ますます怪しい感じがするし・・・。
『約束を覚えててくれたんだね。どうもありがとう。』
「いえ。あの、あんまり上手にはできてないけど・・・。」
『実は今日、僕、出張でね、これから新幹線に乗るところなんだよ。』
「え? 出張?! 新幹線?!」
緊張の糸が切れて、声がひっくり返ってしまう。
『うん。だから、すごく残念なんだけど、受け取ることができなくて・・・。』
「あ、じゃあ、自分で食べるから、気にしないで。うん。全然。」
ほっとして力が抜ける・・・。
『そう? 本当にごめん。今度、僕が作ったのを・・・あ、行かなくちゃ。じゃあ。』
「うん。行ってらっしゃい。」
あーあ。
なんだか疲れたよ・・・。
今日一日、大丈夫かしら。
パイの入った紙袋はそのままロッカーに入れて置くことにする。
ビルの中って暖かいけど、たぶん、大丈夫でしょう。
自分の席に座ったら、やっぱりいつもより疲れてる。
どれだけ緊張していたんだろう?
ああ、なんだか机に突っ伏したい気分・・・。
「はあ・・・。」
「朝からため息なんて、どうしたんですか?」
隣から金子さんが声をかけてくれる。
今日はストライプのシャツに黒のパンツでかっこいい・・・けど、やっぱり可愛い。
「ちょっと、朝から緊張することがあってね・・・。」
金子さんは「そうなんですか?」と不思議そうに首をかしげる。
不思議・・・かもね。
試作品のお菓子を渡すって考えただけで、あんなに緊張するなんて。
試食してもらうくらい、何でもないはずなのに。
論理的に考えれば何でもないこと。
でも、感情が。
動揺を静めて仕事に集中していたら、午前中はあっという間に過ぎた。
お昼休みにコンビニに行く前にロッカーを開けたら、アップルパイの匂いがふわっと広がる。
あらら。こんなに・・・。
「あれ? いい匂いがしますね。」
金子さん、気付いた?
「あ、もしかして、谷村さんですか? 開けた瞬間に・・・。」
ばれた!
「あ、これ? ええと、」
持って来たのに、持って帰るって言ったら、変だよね?!
「お、お昼に食べようと思って。」
「わあ。何ですか? この匂いだと・・・。」
「あの、アップルパイだよ。あとで一緒に食べようね。少しだけど。」
「いいんですか? 楽しみ!」
あたしが作ったことは言わないでおこう・・・。
コンビニから戻るときにロッカーからアップルパイも持って、職場に戻る。
いつものとおり打ち合わせ机に買って来たものを並べ、そこに、パイの入った紙箱も置く。
手が震えちゃう〜。
自分が作ったものを他人に食べさせるって、怖い。
真由はよくそんな仕事ができるよね。
中がどうなっているのか気になって、自分で開けてのぞいてみた。
・・・無事だ。
そんなに下手には見えないし。
「谷村さん、それ、本当にいい匂いですね。どこのですか?」
「え?」
「どこのお店で買えるのかな、と思って。」
「あ、これ?」
びくびくしてるのに気付かないといいんだけど。
「ええと、これ、手作りなの・・・友達の。」
買いに行きたいなんて言われたら困るし、自分が作ったとは怖くて言えない。
「土日で友達が遊びに来て、作ってくれたの。」
「わあ、そうなんですか! そういえば、お友達が来るって言ってましたよね? 見てもいいですか?」
ああ・・・真由、ごめん!
真由は、もっと美しく作れるのに・・・。
「どうぞ。持ってくる間に、少し崩れちゃったみたい。」
箱を開いて金子さんの方に向けると、金子さんが目を輝かせた。
「美味しそう!」
「うん。美味しいよ。家にまだあるの。」
これは言っても大丈夫!
買ってきたお昼を食べ終わってから、給湯室から包丁を取ってきて、パイを半分に切り分ける。
縁の部分がザクザクと音がする。
「ここの生地も美味しいんだよ。」
友達が作ったことにしたから、自慢しても平気だ。
少し余裕ができて、なんとなく楽しくなってきた。
「紫苑〜。」
廊下からハスキーなへろへろ声が聞こえてきて、声と同じようにへろへろした様子で龍之介がやって来た。
「どうし・・・」
「紫苑! それなに?! もしかしてアップルパイ?!」
あたしが「どうしたの?」と言う暇もないほどの勢いで、龍之介が駆け寄ってきて机に覆いかぶさるように乗り出してくる。
「どうしたの、これ?!」
あまりの勢いに思わず身を引いてしまう。
「・・・持って来たの。」
間が抜けた答えしか出て来ない自分に、ちょっと呆れる。
そんなあたしと “理解不能” という顔をした龍之介を見て、金子さんが笑いながら説明してくれた。
「谷村さんのお友達が作ったんですって。」
「手作り?! あ、紫苑の友達って、パティシエだっていう友達か?」
「え? ああ、うん、そう。」
ああ・・・。
真由、本当にごめん!!
「え? 本職のお友達なんですか? わあ、すごい! いただきます♪」
「紫苑。俺も食べたい! 俺、アップルパイ、すっげえ好きなの! こっちの半分、ちょうだい!」
「龍之介、騒ぎ過ぎ・・・。」
子どもじゃないんだから・・・。
「だってさ〜、午前中、ものすごく忙しかったんだぞ。月末が目前なのに、インフルエンザで休みの人が出て・・・。」
ああ、それで疲れた顔してるのか。
「谷村さん、これ、本当に美味しいです。」
金子さんが目を輝かせて言う。
「さすが、本職の方は違いますね。」
「ま、まあ、彼女の店のレシピとは違うんだけどね。」
買いに行くとか言われたら困っちゃう。
「なあ、紫苑。俺、午後も忙しいんだから、可哀そうだと思って、これちょうだい。」
龍之介が手を合わせて頼んでくる。
そんなに好きなのか・・・。
「わかったよ。どうぞ。家にまだ残ってるし。」
「やった!」
龍之介はそのまま手でパイをつかんで、三角形のとがった方から一気に半分くらいを大きな口でパクリと食べた。
その様子を無言で見守る。
どうだろう・・・?
もぐもぐと口を動かしていた龍之介が笑顔になった。
「紫苑。これ、すごく美味い。」
「本当?」
やった〜!
嬉しいよ〜!
「うん。俺、こういうの好き。特に、皮が。店で売ってるのとは違うな。」
「そうなの。普通のパイみたいに、薄い層が重なってるんじゃないんだよ。」
だから、あたしでも作れるんだけど。
「うん。この、中身がしみ込んだ底もいいけど、こっちの端っこも美味い。」
2口で全部食べきって、龍之介は満足そう。
「ああ、美味かった。ここに顔出してよかった〜。」
こんなに褒めてくれるなんてウソみたい。
嬉しいけど、なんだか、ちょっと恥ずかしいな。
あたしが作ったってわかっても、同じ感想を言ってくれるかな?
「そうだ、紫苑。」
「なに?」
「これにしてくれ。」
「は?」
「ほら、約束したケーキ。」
「あ、ああ。」
「これを友達に教わって、練習してくれよ。」
「本当にこれでいいの?」
そんなに気に入ってくれたんだ・・・。
「“これで” って、お前、余裕だな。」
だって・・・、そりゃ、そうだよ。
「い、いや、そんなことないよ。生地を混ぜるのも、りんごを切るのも、形をちゃんと作るのも、大変・・・そうだったよ。できるかなあ?」
「多少、形が悪くてもいいぞ。この味と食感があれば、とりあえずアップルパイって認めるから。」
「うん・・・。わかった。練習する。」
「谷村さん。そのときはわたしにも食べさせてくださいね!」
「うん。・・・頑張るね。」
こんなに気に入ってくれるなんて・・・。
誰かに美味しいって言ってもらえるって、すごく嬉しい!
それに、龍之介があたしを褒めたことって、初めてかもしれない。
・・・本人は真由を褒めたつもりだろうけど。
はっ!
秋月さん、試作品を食べる第一号じゃなくなっちゃった!
・・・まあ、いいか。
よく考えたら、第一号は真由だよね。
すでに第一号じゃないんだから、そんなに気にすることないか。
一応、約束を果たそうとしたことは解ってもらえてるし。
それにしても・・・やっぱり嬉しい!
龍之介が気に入ってくれるなんて。
しかも、もう一度食べたいって思ってくれたんだよ。
ふふふ。
何も知らずにね。
見なさい!
あたしだって、やればできるんだから!