竜と妖精の琥珀/番外編・1
その男は年老いた、灰色の体毛を持つ犬に似た獣人の男だった。名はグラナート・ウォルク。医師を生業としている、他に身寄りのない老人だった。ある雨の日の夕方、帰宅したグラナートは玄関の軒先でうずくまっている裸足の少年がいることに気が付いた。
「今日は休診日だが、どこか具合が悪いのかね?」
「……別に。雨が上がるまでここに置いてくれればそれで」
鳶色の髪に琥珀色の瞳をした、鋭い目つきの少年はそっぽを向いたまま疲れ果てたような声で呟いた。
「見たところまだ成人前だろう? 家の人はいないのかね?」
「……家出したからもういない」
「そうか……雨は明日まで止まんじゃろう。上がっていきなさい」
グラナートの言葉に少年は顔を上げた。
「……いいのか?」
「年寄りの話し相手になっておくれ。わしはグラナート・ウォルク。お前さんは?」
「……カイト」
「カイト……『青空』か、良い名じゃ。さあ、ここは冷える。中に入りなさい」
グラナートはカイトと名乗る少年を中に入るよう促すと、傘を閉じて扉のそばに立てかけた。カイトは雨に濡れており、足は泥だらけだ。
「お前さんにまず必要なのは風呂と綺麗な服だな。そのままでは風邪をひく。ついてきなさい」
グラナートはカイトを浴室に案内すると、着替えの服を用意しながら呟いた。
「患者に貸す病衣だが、今着てるものよりマシだろう。湯は好きに使って良いから、綺麗になって温まるまで出てきてはいかんぞ」
「……はい」
カイトは目を合わせないまま返事をすると、脱衣所の扉を閉めた。浴槽はなく、魔道具が水道管に取り付けられているタイプの風呂だ。カイトは蛇口を捻って湯を出すとシャワーを頭から浴びる。
「……」
温かさに触れたのは、とても久しぶりだった。
「ふむ、さっぱりしたようじゃな」
泥と汚れを落とし、充分に温まったカイトはタオルで頭を拭きながらリビングに移動した。長い前髪が目にかかるが、これはこれで良いと彼は思った。
「まずはこれをお飲みなさい。蜂蜜入りのホットミルクじゃ。お前さん、飯は食えておるのか?」
「……飢えは凌いでいた」
カイトはカップを受け取るとそっと口をつけた。温かいものも甘いものも、随分と口にしていない。カイトは熱いのも気にせずホットミルクを一気に飲み干すと、大きく息を吐いた。
「……事情があるようじゃが、わしはお前さんが話してくれるまでは深入りはせん。ここに居る間はただ温かくして腹を満たしていれば良い」
グラナートは目を細めて優しく微笑むと、カイトから空のカップを受け取った。
「夕食はパンとスープじゃ。いつもと違って作り甲斐があるのう」
キッチンへ向かうグラナートの背中に、カイトはぽつりと呟いた。
「一つだけお願いがあります……オレの眼は見ないでください。あなたは優しいから、傷付けたくない」
「ふむ? どういうことかの?」
グラナートは振り向かずにカイトに声をかけた。
「オレの眼は、他人の自由を奪います。……呪われてるから。目を合わせられないご無礼をお許しください」
「なるほど、事情はわかった。気を付けるとしよう」
グラナートは顎髭を触ると、穏やかに言った。
カイトと視線を合わせた者は、体が痺れ自由を奪われる。いわゆる、〈邪眼〉である。望まずして得てしまったその特性は、時に彼を苦しめた。両目を抉り出そうとも〈超回復力〉持ちである以上は再生してしまうため、逃れることは不可能だった。
「わしの隣に座るがよい。これなら目を合わせることもないじゃろ」
グラナートはそう言って笑うと、カイトの席を作りパンとスープを並べた。
「オレのこと、怖くないんですか?」
「怖いもなにも、わしのことを気遣ってくれる優しい子じゃ。それだけで充分じゃよ。さあ、食べようかの」
グラナートは食前のお祈りを始めると、カイトもそれに続いた。正直なところ、カイトは食前のお祈りにあまり価値を見出していない。それでも、ただ目の前のこの老人への感謝だけは祈ろうと思った。
「いただきます……」
お祈りを終えてカイトはスープを口に運ぶ。人間らしい食事は数年ぶりだった。野菜とベーコンを煮込んだスープは優しい味がして、カイトは視界がぼやけるのを感じた。
「……っ、……」
一度零れてしまえばとめどなく溢れてくる涙に、カイトは自分でもわからずにただ泣きじゃくった。グラナートはカイトの背中を優しく撫でると、何も聞かずにしばらくの間そうしていた。
「……取り乱してすみません」
目の周りを赤く腫らしたカイトは、鼻をかみながらグラナートに申し訳なさそうに言った。
「安心できる場所となれたならそれで結構。……お前さんが良ければの話じゃが、しばらくウチで過ごさんか。お前さんの心の雨が止むまで、な」
「ご迷惑をおかけする訳には……」
「一人暮らしが寂しい年寄りのお願いじゃ」
グラナートは飄々とした態度で告げた。
「わしは話し相手ができる。お前さんは住む家ができる。一石二鳥だと思わんか?」
グラナートはそう言ってにっこりと笑うと、カイトの頭をくしゃりと撫でた。
「独りぼっち同士が二人ぼっちになるんじゃ。きっと、楽しいぞ」
「……はい」
カイトは少し照れながら、小さく笑った。こうして、二人の同居生活が始まったのである。
「お前さんは物覚えが良いのう」
グラナートは仕事の簡単な手伝いをカイトにさせてみると、その手際の良さに驚いた。賢く器用なカイトは家事能力に多少の難はあるが、助手としてとても有能だったのだ。
「以前研究所に勤めていたので……」
カイトは診療に使った器具を煮沸消毒しながら、ぽつりと呟いた。この世界では未成年の就労は禁止されておらず、家業などに従事していることも珍しくない。
「わしが聞いても良い話かの?」
「……生物に関する研究をしていました。解剖もしたことあります」
「なるほど……。お前さん、十三歳だったか。その歳で研究所勤めとは、まあ納得じゃ」
グラナートは顎髭を撫でると少し考えてからカイトにとある提案をした。
「カイト、お前さん医師を目指す気はないか?」
「医師、ですか……?」
「そうだ。わしももう歳だしの、この診療所を継いでくれると助かるんじゃが」
「お金がありません」
カイトは即答した。医師になるためにはそれなりに金がかかる。たとえ独学で知識と技術を身に付けても、資格を取るのにまとまった金が必要だった。
「なに、急がなくて良い。お前さんが成人して、資格を取ってから返してくれればそれでな。この家にはわしが若い頃から集めていた医学書やその他の本が沢山ある。好きに読んで構わないから、もし医師を志したいと思ったなら遠慮せず言うといい」
カイトは黙って頷いた。
「そのためにもまずは、お前さんの眼をなんとかしないとのう。〈邪眼〉と言ったか? 似たような症例や言い伝えを集めて、制御できるようにするんじゃ。簡単ではないぞ? だが、やるんじゃ。お前さんがヒトの中で生きるためには、それが必要じゃ」
「はい」
グラナートは優しい笑顔で頷くと、カイトに一つの頼み事をした。
「よし、とりあえずこのわしに〈邪眼〉をかけてみてはくれんか? 何事も体験じゃ。なあに、椅子に座ってやれば大丈夫じゃろ、ほれ」
「え……? あんた正気か?」
〈邪眼〉をかけろと言われて素直にかけれるほどカイトは図太くはなかった。だが、椅子に座ったグラナートに前髪を上げられて瞳を覗き込まれ、カイトの意志とは無関係に発動した〈邪眼〉は案の定彼の自由を奪った。
「これは……痺れるのう」
椅子に深く沈み込むようにぐったりとするグラナートは、どこか満足そうに笑った。
「ちょっと、わしをつねってみてはくれんか? 痛みの感じ方に変化があるのか気になるぞい」
「はい……」
カイトは遠慮がちにグラナートの腕をつねると、その反応を窺った。
「痛みは減らないようじゃな……。突っついてみてくれんか?」
カイトはグラナートの指示に従うと、指で彼の腕を突いた。
「触覚もそのままじゃ。興味深いのう」
グラナートは思い付くままにカイトに指示を出し、〈邪眼〉の効果を検証していった。三十分ほどして自由を取り戻したグラナートは、興奮した様子でカイトに告げた。
「脳からの指令を遮断するとでも言うのかのう、指先の一本も動かせなかったぞい。瞬き、呼吸、それと喋ることはかろうじてできた。痛覚と触覚は通常通りで、三十分程度持続する。どうじゃ、体験してみないと分からないことじゃろう?」
グラナートはカイトの頭を撫でながら優しく言った。
「お前さんは賢くて優しい。気にすることはないんじゃ。ヒトには与えられた天命というものがある。重要なのは、どう向き合っていくか、じゃ」
「はい」
カイトは戸惑っていた。〈邪眼〉を受けてなお彼を罵らずにいてくれたのはグラナートが初めてだったからだ。身を守るために役に立つ〈邪眼〉は同時に彼を孤立させてきたのだ。
「なあに、一つずつ、じゃ。ゆっくりと探していけば良い。肝心なのは、諦めないことじゃ。職業柄もあるが、この歳になると諦めが悪くてのう。未知の事象は知りたくて仕方がないんじゃ。すまんが、わしの好奇心にもうしばらく付き合ってもらうぞい」
「……はい」
グラナートの言葉は、彼の優しさからくるものだとカイトにも解っていた。
彼らはカイトの〈邪眼〉の対策のために色々と試した。前髪越し、鏡越し、窓越しと思い付くかぎりの方法を試して辿り着いたのは眼鏡をすること、そして意識をすることである。
「意志の力が〈邪眼〉の強弱に関わることが判っておる。硝子越しで弱まることも。ならば、眼鏡をかけて常に意識しておくことが、今のところ最も有効な手段ということじゃ」
「……試してみます」
カイトは度の入っていない眼鏡をかけて、グラナートの目をまっすぐに見た。〈邪眼〉は発動していなかった。グラナートの紅い瞳が、穏やかに笑う。
「……制御、できそうかの?」
「できそうです……」
「じゃあ、この前髪ももう上げてしまって良いな? せっかくの男前が台無しだぞい」
グラナートはカイトの前髪を上げて後ろで結ぶと、青が混じる琥珀色の瞳を覗き込んだ。僅かに涙に揺れるそれには気付かないふりをして。
「グラナート、あんたは凄いよ……」
「年の功じゃ」
グラナートは慣れた手つきでパイプに刻み煙草を詰めて火をつける。美味そうにパイプをふかすと冗談めかして言った。
「しかし、〈邪眼〉を制御可能になると暴れる患者をおとなしくさせるのに使えそうだの」
「骨折や脱臼の応急処置ですね」
「そうじゃ。だが、勝手に使ってはいかん。基本は説明をして同意を得ることじゃ。人外の能力だからの、私欲の為に使ってはいかん」
「はい」
「……お前さんなら、大丈夫じゃの」
グラナートは満足そうに笑うと、パイプをもう一度大きくふかした。
カイトとグラナートは秘密を共有しながら穏やかに暮らしていた。そんな彼らに別れの時が訪れたのは、二度目の冬のことである。
「おやっさん、しっかりしろよ!」
流行り病に倒れたグラナートはもう二度と起き上がることはなかった。
「カイト……お前さんと過ごした日々は悪くなかったぞい。妻と娘夫婦を事故で亡くして、独りぼっちだったんだ……お前さんと二人ぼっちの生活……ふふ、楽しかった」
激しく咳き込むグラナートに、カイトは背中をさすった。
「無理して喋らなくていいから、なあ……」
「家族はいいもんだなあ、カイト。独りぼっちになっちゃダメだぞい。ヒトとヒトは寄り添って生きるもんだからな」
「オレもあんたと暮らせて楽しかったよ……」
「わしが死んだら、解剖して役立ててくれ。カイト、お前さんは病気にならないじゃろ……?」
「そうだけどッ……それは医師の仕事だろ⁈」
グラナートは小さく笑うとカイトの頭を弱々しく撫でた。
「弟子に遺せる、最期の仕事だ。未来の医師に託すんじゃ」
「……わかった」
「この家は今日からお前さんの家だ。村の連中は気の良い奴らばかりだから、ちゃんと近所付き合いするんじゃぞ?」
「……はい」
頭を撫でていたグラナートの手が落ちて、カイトは彼の手を取った。脈と呼吸はかろうじてあるが、後はもう時間の問題だった。
「その瞳を見せておくれ、カイト」
「はい」
カイトはグラナートの紅い瞳を覗き込んだ。
「綺麗だなあ……竜と妖精に愛された琥珀だ。カイト、これは呪いじゃなくて祝福じゃよ。胸を張って生きなさい」
「……はい」
グラナートはそのまま目を閉じると、眠るように旅立った。
* * *
グラナートの遺髪だけを残して埋葬が済むと、カイトは広い家で独りぼっちだった。時折訪ねてくる怪我人の手当てをしてささやかな報酬を受け取り、好きに研究をして暮らしていた。
ある日彼はふと思い立ってグラナートの遺髪に己の血を混ぜてみた。グラナートの魔素が多く含まれるそれに生命力を強化する己の血が混ざることで、新たな生命が発生した。
「……マジか⁈」
試験管の中を満たす薬液を大きな容器に移し替えるとそれはたちまちヒトの赤子ほどの大きさになっていった。再現性があるかどうかも疑わしい、神の気まぐれとも呼ぶべき大事件である。人造亜人プロトタイプ1号と名付けられたそれは、問題なく成長し誕生することとなった。彼とカイトは短くない年月を共にすることとなるのだが、それはまた別のお話。
* * *
「ちょっと出掛けてくるから留守番頼んだぞー、プロト」
「はいなのです!」
ブーツを履き、いつもよりきちんとした格好のカイトは小さな花束を持って出掛けていった。村のはずれにある共同墓地に到着すると、一つの墓碑の前にカイトはしゃがみ込む。地面に指で穴を開けて煙草を立てると、マッチを擦って火をつけた。
「パイプじゃなくて悪いね、おやっさん。オレはこっち派なんだ。……なんだかんだで上手くやってるよ」
墓碑に花束を備えると、カイトは立ち上がって天を仰いだ。どこまでも広がる青空が視界に入る。
「最近面白い奴らに会ったよ。たぶんだけど、また会える気がする。……じゃあ、また来るよ」
カイトは墓碑に背を向けて歩き出すと、煙草を取り出して火をつけた。流れる煙が空に昇って消えてゆく。穏やかな風が頬を撫でて、葉擦れの音が周囲にさざめく。
「雨はもう、降ってないよグラナート」
カイトの独り言は、大気に溶けて消えていった。
〈了〉




