44 悪徳の終焉
「……先に行ってて。わたしはまだ、」
「ここに残して行ったりはしない」
遮られても、ディーナは微笑んだまま、動じなかった。自分ごときの口先で本当にごまかせる相手とは思っていなかったからだ。
だが、折れるつもりも毛頭なかった。
「あなたは、僕が、そんなつもりで戻ってきたと思うのか」
「わたしはそういうつもりでここに残ったわ」
眉を寄せたテオドロの険しい眼差し。
以前はこんなふうに責められる瞬間を想像しては、ことのほか恐れた
実際には、想定していたのとはまるで逆の感情を向けられていているのがわかる。
幸せだと思う。それで十分だ。
「アウレリオを殺して、この悪徳のフェルレッティを終わらせるはずだった。結果的に、一番の重荷はラウラに担わせてしまったけど」
十年前、運命がこの身を死なせなかったことに理由があるなら、それはやるべきことがあったからだ。
それなら、すべて終えたあとには、綺麗に後始末をしていかないといけない。
幸い、それは難しくない。家の在り方を存続させるための毒は、そのまま家を滅ぼす毒になる。
毒のしたたる牙を抜いては生きていけない。それがフェルレッティ家。
「あなたと一緒にここを出ても、わたしの体に未来なんてない。結果が同じなら、……明日苦しんで死ぬより、今日ここでひとりにしてもらったほうがずっといい。屋敷に未練なんてないけれど、文字通り、家とともに滅ぶのは、当主の務めでしょう」
言いながら、それでもディーナは自分の胸の内に積み上がる苦しさを感じずにはいられなかった。
自分の後始末は、難しくはない、けれど。
優しいこの人には、それが傷になってしまうだろうか。
見捨ててしまったと思わないでほしい。自分を責めたりしないで欲しい。
最初から“罪のないシスター見習い”なんて、いなかったのだから。
「……だからテオ、」
「解毒薬はある」
少しの間、ディーナは言葉を忘れた。
嘘よ、という反論は形にならなかった。
「ジュリオは殺される前に、フェルレッティの毒に対する解毒薬の一部を手に入れて、軍に渡していた。“フェルレッティの血で完成する切り札だ”と言い遺して。……あまりにも突拍子もない言葉で、何かの比喩かと思われていたらしい」
ばかな、と言おうとして。
そうだ。彼は誰よりも早く、ロザリオのからくりに気が付いていた。
できたかもしれない。でもだから何。
だから、――。
「それから十年もたった。軍はそれを慎重に解析してきた。足りない成分を補って完成させることはできなかったけど、複製には成功したんだ」
どこかで、またガラスが破裂した音がする。
こんな話をしている場合ではなかった。薬品庫には何があるかわからない。延焼したら何が起こるかわからない。
そうわかっているのに。
見下ろしてくる目から、視線を外せなかった。
「解毒薬はある。あなたは助かるんだ」
聞いてはいけないとわかっている続きを、望んでしまった。
「死ぬ理由なんて、どこにもないよ」
唇が震えた。
言い返そうとして、のどが詰まる感覚に、何も言えなくなった。
――悲しくなかった。怖くなかった。
初めから、こうなることが決まっていたんだと受け入れてしまえば。
そう言い聞かせた。
今日死ぬためにあの日生き延びたのだと、自分に言い聞かせて、アウレリオを道連れにすれば退路もなくなると鼓舞した。
家が滅びれば生き延びることはできない毒漬けの体を、この運命の証だと信じて覚悟を決めた。
それが、死ぬことへのなんの理由づけにもならないと言われてしまったら。
「……それでも、フェルレッティ家の人間が生き残ってるだけで、災いのもとになる」
でたらめではない。本物かどうかわからないのに、レベルタには自分を捜していくつもの組織が追手を放った。
そうわかっているのに、伸びてくる手を拒む力が出てこない。
「これは、あなたには関係ない話だけど」
内緒話のような、少し低い声。
血と灰に汚れた手が、乱れて、濡れた髪を撫でて、ひと房掬い。
「……彼女は、一族特有の金髪の持ち主だったそうだよ」
微笑んで、愛おしげに口元に持ってきた髪は、メッキがはがれるようにうっすらと赤く戻り始めていた。
――今さら、髪の色ごときで。
「あなたはやたらにディーナ・フェルレッティの生存を恐れてるけど、そんな人間はもういない。……十年前、ジュリオ・サルダーリが殺したんだから、間違いないし」
――そんな詭弁で逃げても、なんの意味もないのに。
「僕はディーナ・トスカを、なにがなんでもここから連れ帰ると約束した。あの教会へ、無事送り届けなくちゃいけない。それでそのあとも、あなたが誰かに脅かされるかもしれないというのなら、」
――嘘の上に立てた誓いに、意味なんてあるわけないのに。
「それなら、この先も、僕がずっと守り続けるだけだよ」
溢れた雫が頬を伝って床に染みていく。
髪から離れた手が頭を抱えて抱きしめてくるのを、今度こそ振り払えなかった。
「……毒が、つくから」
しゃくりあげながら、それでもディーナは肩を抱き寄せようとする腕をすんでのところで押しとどめて、距離を開けた。
何か言い返したそうにしていたテオドロだったが、結局ディーナの望みを汲み、手を握って部屋を出た。
立ち止まっていた時間は長くなかったはずなのに、廊下はすでにあらゆるところが煙と炎に覆われている。
度数の高い酒を被ったディーナの頭に自分の上着をかけて、テオドロは早足で先を急いだ。途中、生きた人間に行き合わなかったのは幸運のようでいて、その現実が示す光景は地獄のようだった。
足の踏み場もない殺し合いの現場を、抱きかかえようとする男を制してまたぎ、通り越す。
「応援が到着しててもおかしくない頃合いだ。生存者はみんな捕まって外に出されてるんだろう」
全員死んでいるわけではないと言外に伝えてくる気遣いに、「そうなの」となるべく気にしていなさそうに応じる。
だがそこで、ディーナは足をもつれさせて膝をついた。流血か、毒か、光景か、なにが理由かわからない吐き気を耐える。
「……ごめんなさい。煙がすごくて」
足を止めたテオドロに心配をかけたくなくて、口元を手で覆って立ち上がる。焦らなくても、テラスに繋がるサロンまであと少しだ。
「……これらはあなたが持っていてくれ。あなたごと運ぶ」
「えっ、やめて! いくら解毒薬があるっていっても」
「服に染みるくらいどうってことないし、この方が早い」
何かを察したかのような提案と共に帳簿の入った文箱を押しつけられる。
慌てるディーナをよそに、テオドロは床に転がる遺体の懐を探ってナイフを取り出すと、大事なキャンバスの端、本来なら額に隠れる部分に容赦なく刃を突き立て始めた。
「……」
「このほうが運びやすい」
「る、ルカが」
「は、なんて?」
家財が燃える音で聞き取れなかったのかもしれないが、ディーナはなんとなく『ルカがせっかく綺麗に保護していてくれたのに』と言えなくなった。
絵はディーナが恐れるようなひび割れや破損もきたさず、綺麗に木枠と切り離されていく。
「……前に話してた、バザーでつくるお菓子あったじゃない?」
器用なナイフさばきを凝視していたディーナは、急になんの話だと視線を手先から動かす。
テオドロの方は、目を絵画とナイフから動かさないままだったが。
「ここ出たら、僕にも作ってくれる?」
ディーナは固まった。布地を裂く音の合間を縫って、この非常時に出てきた言葉に、きょとんと男の横顔を見つめてしばらく固まる。
お菓子。
――大聖堂で話していたクロスタータのことかと気が付いて、ディーナの顔にじわじわと笑みが広がった。
『ここから、早く帰さないとね』
あのとき、彼が言おうとして、やめた言葉の正体がようやくわかったからだ。
「ええ、だから、早く帰りましょうね」
一緒に。
ディーナの言葉に、テオドロも顔を上げた。自身の血と、返り血に塗れながら、少し照れたような笑みを浮かべていた。
役目を終えたナイフがキャンバスから離れる。
それがちょうど、ディーナの真上から梁が焼け落ちてくるタイミングだった。




