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神様、どうかこの嘘だけは見逃してください (書籍版タイトル:偽装死した元マフィア令嬢、二度目の人生は絶対に生き延びます)  作者: あだち


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37/50

37 潜入失敗

 ***


 時々家にやって来る、そっけない男が父親だと、少年はそこそこの年齢になるまでわかっていなかった。


 ディアランテの片隅で、少年は母と何不自由ない暮らしをしていた。

 飢えを知らず、衣服は事足りていて、学校にも通う。大通りを一本入ったところにいる浮浪児やなにがしかの中毒者たちなどとは、まるで縁のない生活だった。


 その暮らしが、例の『たまにやって来る男』の金で成り立っていること、男が絶対に自分や母と外出しないことの意味を世間の目とともに理解したあたりで、少年は男を疎むようになった。

 

 だから、十三歳の秋。

『来てはいけない』と言われていた、大聖堂の定例ミサに行った。きっと本妻と一緒にいるのだろうと思えば、それは男に対するささやかな嫌がらせだった。

 ほとんどの人間が前を向いて敬虔に説教を聞く中、少年はあたりを見回して男を探した。二階を見上げるように上を向いたりもした。ミサは退屈で、結局男も見つけられなかった。


 帰宅後、家に来た男ははじめて少年を殴った。驚く母の前で、どうして来たんだと怒鳴った。カッとなった少年が“偉そうなことを言える身か、卑怯者”と言い返すと、男は青白い顔で黙り込んだ。


 それから数日、男は現れなかった。

 その間に、母は見知らぬ客人の対応をした。そして、母は厳しい顔で荷物をまとめるよう少年に告げた。

 男か、本妻が手を回したのだとぴんときた。追い出される前に一言いってやると家を出た。


 少年はすぐに男を街で見つけた。礼拝の時には見つけられなかった姿が、その日はやけに目についた。

 体格のいい数人の男とともに歩いていく男を、少年は追った。



 そして、忍び込んだ屋敷の、礼拝堂の祭壇の裏から、見た。



 家に帰ると、泣きじゃくる母に“どこに行っていたの”と抱きしめられて、そして知った。

 フェルレッティに目をつけられた自分たちは、これから軍の保護施設に身を隠すのだと。



 ***



「起きたか、テオドロ」


 暗闇に、ぼんやりと浮かんできた顔に、テオドロは絶望した。


「……ファビオ、きみまで殺されたのか」


 軍の同僚は呆れたように顔を歪めた。その表情で、彼の死が自分のミスによるものだと察して、テオドロは申し訳無さと深い後悔の念に襲われたのだが。


「あほか。ちょっと泳いだ程度で何を弱気になってる」

「え」

「一通り調べたが、脈も呼吸も正常、顔色も普通。目のガラス取られたのと手のひらの傷以外、元気そのものにみえるぞ。それとも、気分が悪いか?」


 よどみない言葉に、いや、とつられて答えると、ファビオと呼ばれた男は安堵するように鼻を鳴らした。


「奴ら、珍しく仕損じたようだな。とどめをささずにおまえを運河に投げ入れた」

 

 そこまで言われて、ようやく自分が、フェルレッティ潜入時の隠れ拠点として使っているカフェのソファに寝かされていることに気が付いた。閉店後の店内は、内側からは明かりも付けていないから、外からは人がいるとはわからないだろう。


 ――生きている。


(バカな)


 意識を失ったのは、運河に投げ捨てられる直前だった。全身濡れていることから、水の中に落ちたのは間違いない。

 あのときにはもう、毒が回っていたはずなのに。


(毒が致死量じゃなかったのか?)


 とにかく、自分が落とされる場面を、幸運にも同僚が見ていて引き揚げてくれたのだろう。

 体を起こすと、昼間はカフェ店員に扮しているファビオが水を差し出してきたので、ぐっと飲み干した。


「まあ不幸中の幸いだな。テオドロ、屋敷で何があった?」

「何が……」


 聞かれて、テオドロは目を伏せたが、すぐに落ち着いた声で話し始めた。


「バレてた。アウレリオに、僕が潜入者であることが」

「てた、ってことはまさか以前からってことか? まずいな」

「ああ。リッツィア家に入ってる人間を引き揚げさせた方がいい。一昨日の晩餐会で宿泊するよう手を回したことが、バレている可能性がある」


 それから、テオドロはバルトロと女の粛清や、リストの正体も含めて、起きたことを端的に話した。

 真剣に相槌を打っていたファビオが、問いかけてくるまで。


「で、協力者のディーナ・トスカ嬢はどうした?」

「……彼女は……」


 本物のディーナ・フェルレッティだった。


「……屋敷内だ。おそらく、生きてる」


 手のひらを見つめながら、テオドロは簡潔な事実を口にした。もっとも重要な情報は、なぜか喉を通らなかった。


「なら、すぐに保護した方がいいな……誰か、人員を送り込めればいいんだが」


 テオドロの内心など知る由もないファビオが腕を組む。

 難しいのだろう。テオドロの潜入がばれていたとなると、時間を置かずに次に送り込む人員も疑われやすい。


 やってしまった。考えうる限り最悪の展開だ。

 自己嫌悪をおくびにも出さずに、テオドロは「その件についてだが」と話を続けた。


「朝に渡した毒薬で追加情報だ。まだ解析は済んでないだろうけど、あれは側近というより、ずいぶん特殊な対象にしか使われないらしい。解毒薬のない古い毒だから……」


 ――アウレリオは、毒の宿主も食事の毒を取り続けないと死ぬと言っていた。


(ということは、彼女はあそこにいたほうが長生きできるのか)

 

 どこか投げやりな気持ちでそう思い――そこで妙なことに気が付いた。


 じゃあなんで、彼女は十年身を隠し続けられたんだ? と。


 言葉を切ったテオドロを、ファビオは気に留めなかった。何か思い出したように、窓辺に移り、小脇に抱えていた書類をめくる。


「ああ、あの錠剤については本部からも情報が寄越された。今日にでもおまえに知らせようと思ってたんだ」

「なに?」


 予想外の言葉に、テオドロは顔を上げた。


「おまえはアウレリオが部下を縛るために考案した毒薬だと言っていたが、今自分で言った通り、それとは別物だ。十年前、アウレリオの体制が本格始動する直前に、すごく古い、特殊な毒薬が現役で使われてるって情報が軍に上がってきてたんだよ。現物を持ってきたのはおまえが初めてだけど」

「……なんであの錠剤が、その情報の毒薬だと分かったんだ。現物はなかったんだろう」

「現物はなかったが、その毒薬に対する解毒薬の一部が一緒に提出されて、保管されてたんだ」


 その言葉に、テオドロは目を見開いた。


「嘘だ、解毒薬はないと、アウレリオ本人が」

「でも保管されてた薬は、おまえが持ち込んだ錠剤の毒性の一部を確かに消したみたいだぞ。完全な解毒に足りない成分は、本部が総力を挙げて調べてる」


 テオドロは言葉を失った。ファビオは構わず書類をめくる。


「解毒薬も手に入れてたとはいえ、複雑な上に製法が古くて、解析に時間がかかったらしい。おそらくフェルレッティがディアランテに入る前に完成されて伝えられてきた、古い毒と解毒薬なんだろう。もっとも、毒薬そのものが手に入ったからじきに完全な解毒薬が」

「ファビオ。十年前の情報の、報告者は誰だ?」


 話を遮ったテオドロに、本部との仲介役は露骨に嫌な顔をした。

 しかし、テオドロの目が退かないのを見てとると、渋い顔のまま書類を数枚めくった。


「……極秘だから言うなよ。敵方からの内通者だ。十年前、例のお家騒動の一環で粛清された可能性が高い外飼い、ジュリオ・サルダーリって男」


 テオドロは呼吸を忘れた。

 あり得ない。

 なぜ彼が、ないはずの解毒薬を持ち出して、軍にわたしているのだ。

 だってあの男は、金のために――。


 動揺するテオドロに気づかず、ファビオはさらに続けた。


「経済省の官僚だったから情報が秘匿されてんのかもしれないが、サルダーリについての詳細は不明だ。当時の軍部がすぐに保護を申し出てそうなもんだが、そうされてないし。内通の見返りが、保護以外にあったのか」

「……内通の見返り」

 

 来なくなった男。母のもとに来た客人。

 男が死んだ夜に、保護された自分たち。

 

『ジュリオ・サルダーリも浮かばれないね』


「足りない成分について、……サルダーリは、なんて」


 問いかけた声がかすれていたせいか、ファビオはテーブルに置いていた水差しをテオドロに差し出した。テオドロは、受け取ったそれをソファの上に置いて、答えを待った。


「妙なこと言い残してる。何かの隠語かもしれないが、――」


 その回答に、テオドロはしばし呆然として、動けなかった。

 そうか。

 だから自分は生きているのか。


 ――あのとき、彼女は、きっと全部わかっていたのだ。


 自分の中で辻褄が合うと、テオドロはまた深い自己嫌悪に襲われかけた。その理由は先ほどのものとは全く異なり、その深さは先ほどの比ではなかった。


 けれど、俯いている場合ではない。


「……ファビオ、もうひとつ聞きたいんだが」


 追加の質問を聞くと、ファビオは当然だろうと言わんばかりに「それはもちろん」とうなずいた。

 その一言がどれほどテオドロの心に希望をもたらしたかも知らず。


「そうか」


 固い声に、ファビオは痛ましいものを見る眼差しをテオドロに向けて、言った。


「テオドロはよくやったよ。生きて帰ってこられたのを、上もねぎらうだろう。俺は本部から次の指示を仰ぐが、それと並行しておまえは一旦身を隠して」

「いや」

 

 同僚の慰めを切り捨てると、視線を手に――左の手のひらに再び移す。

 ちり、と小さな痛みを訴える傷は、もう一滴の血も流していない。運河の水が洗ったのだろう。


 彼女の血も含めて。


 テオドロは青い目を閉じ、深く息を吸って吐くと、立ち上がった。


「僕は、すぐフェルレッティに戻る」



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