36 神様、どうかこの身を許さないで
「何も知らない修道院に引き取られて、トスカ、なんて名乗って、年をひとつ誤魔化して」
「やめて」
「地毛が赤毛だから“金髪のディーナ・フェルレッティ”がここにいるだなんて、誰にもわからない。何も知らない無垢なふりして、この家と血の呪縛からまんまと逃げおおせた」
力ずくで黙らせようとしたディーナを、背後からルカが羽交い絞めにした。
引き離される直前、アウレリオの手が十字架を引きちぎった。鍵とビーズの輪が、床に悲痛な音を立てて落ちる。
「やめて!」
「フェルレッティの迎えとして現れたのが軍の手先で、運が自分に味方したと思った? か弱いシスターのふりを続ければ、正義の味方の“テオ”は身を盾にして逃げ道を確保してくれるんだから、煩わしい過去を精算するのにこんないい機会はない! 何より、いざとなれば家か“テオ”か都合の悪い方を切り捨てれば自分だけは助かるんだもの上手く考えたものだよなぁ女王様は!!」
「違うやめてテオ違うの!! わたしはっ」
――違わない。
騙そうとした。ばれないようにしようとした。世間に対しても、テオドロに対しても。
フェルレッティに苦しめられている人間がまだいると分かっていて、わが身可愛さに過去を忘れようとした。テオドロに本当のことを言わなかったのは、言えば見逃してもらえないと思ったからだ。
今さら、さっき正直に話そうとしただなんて、どの口で言えようか。
後ろを振り返れなかった。声を出せないテオドロの表情を、確認することができなかった。
「ジュリオ・サルダーリも浮かばれないね。身を挺してフェルレッティから守った息子が、自分からフェルレッティに飛び込んで、しかも結局ディーナのお気に入りになってるなんて」
背後で物音がした。その音に、ルカに拘束されたままのディーナは肩をびくりと震わせたが、アウレリオはテオドロに向かってやれやれと首を振った。
「そんな顔しても、私の言っていること間違ってないが。ジュリオは主人が自分の子を求めたもんだから、焦ってあんな愚行に走った。自分と同じ道を歩ませないために、遠ざけようとした。そのせいで死んだ。死ぬ前にいっぱい苦しんだのも、全部無駄になったんだ」
ディーナはもう暴れなかった。
悪夢のような真相を、ただ浴びせられるに身を任せるしかなかった。
十年前、ディーナが欲した少年はテオドロだった。
ジュリオ・サルダーリは、テオドロを守るためにディーナを運河に落とした。
それが原因で、殺された。
テオドロが潜入者であることも、ディーナが本物であり、そのことをテオドロに隠していたことも、アウレリオの把握するところだった。
そして、テオドロは、他の誰でもないディーナによって含まされた毒で、死に瀕している。
『フェルレッティが生んだ罪深い蛇』
『どうか生まれ変わって、今度は善良な人間に』
ジュリオから手向けられた言葉が、よみがえる。
彼はどうして、あのときとどめを刺してくれなかったのか。
ディーナがいなければ、少なくとも今、テオドロは毒に侵されていなかったかもしれないのに。
どうして、自分は生き延びてしまったのか。どうして――。
(……どうして?)
「……アウレリオ、あなた、どうしてわたしを捜し出したの?」
「家族だからだよ」
俯いたままのディーナに、いつかと同じ答えが返る。
ためらいのないそれに、しかし今度は続きがあった。
「本来なら、この家で、正統な当主として生きるはずだったきみが、外で生きてると気がついたからだよ」
微笑んだ口から、じっとりと毒を孕んだ憎悪が顔を出す。
「ひとりだけ、逃がすわけないだろ」
ディーナはその毒を、静かに受け止める。そうするほかない。
ようやく腑に落ちた。
この男が本当に自分を捜そうとした理由。
『フェルレッティの当主がどんなことを教えられて、どんなふうに生活していくかわかるだろう。まあ、楽しくはないんだけど』
復讐だったのだ。
自分ひとり、フェルレッティという沼に沈められたことに対する、恨みだったのだ。
「でも、一度はあなたもわたしの死を信じたんでしょ。なんで、生きてると気がついたの」
「理髪師を見つけた。ついこの間のことだ」
テオドロが動いたのか、後ろで男たちが「大人しくしろ」と吐き捨てる声がした。
「十年前、きみの専属だった男だよ。なんてことはない、こっちとしては挨拶もなしに逃げた三下に、ただ落とし前をつけさせてやるだけのつもりだった。なのにあいつが『あのことは誰にも言ってない』って喚くから、話を聞いたら、なんとまあ妹は地が赤毛だった、毎週のように自分が金色に染めていたって言うじゃん。ふざけんなよと思ってきみを探し出しても、水死体の顔すら判別できなかったニコラなんか面通しの役に立たないし、仕方ないからその理髪師に、晩餐のときのきみの顔を隠し穴から見させて確かめさせた」
フェルレッティの理髪師。ならきっと、蛇の入れ墨もあっただろうし、逃げたならそれを焼き消しもしただろう。
地下墓地でテオドロが不審がっていた男の正体は、これだ。
そうか。
またここにも、自分のせいで死んだ人間がいた。
ディーナはゆるゆると顔を上げて、アウレリオと視線を合わせた。
「満足した? この家をあなたに押し付けたわたしを、連れ戻して、油断させて、そのお気に入りの従僕をわたしの手で死に追いやらせて」
「……そうだね」
力ない詰りに、アウレリオは軽く頷いて。
「ちょっと溜飲が下がった」
残酷に歪んだ笑みを見せた。
『ちょっと』
つまり、まだ足りないのだ。
その証拠に、近づいてきたアウレリオはディーナの作り物の金髪を掴み、顔をさらに上げさせて、冷たい笑みを深めた。
「で、どうする? 十年越しに手に入れたお気に入りは、今まさしく命の灯が尽きかけてるわけだが。飼い続けたいなら、さっさとキスしてやればいいし」
アウレリオが、手の中のロザリオをくるくると弄びながら、ディーナに選択を迫る。
「もういらないなら、こっちで片付けておくけど」
短い沈黙の間、テオドロの荒い息と、宴会場の喧騒が場をつないだ。
「……十字架を返して」
「なんで?」
「祈るためよ。死出の道に旅立つ魂のために」
アウレリオの顔から、はじめて笑みが消えた。
冴え冴えとした目で顎をしゃくると、ルカの腕がディーナから離れていく。
ディーナは眼の前に差し出された十字架を握りしめて、テオドロの方へと歩いた。
何も言わずとも、男たちは抑えつけていたテオドロの上から退いた。死角でアウレリオが合図したのか、すでにテオドロが自力で動けないとわかっていたからなのか。
テオドロは、混乱していた。青い目がありありとそう語っていた。
死に瀕して、憔悴して、それでも美しい顔を、しゃがんだディーナは右手でそっと撫でる。撫で下ろした先にあった冷たい左手を取って、握りしめていた十字架を一緒に包み込ませる。
「結局、こうなっちゃうなら、さっき逃げておけばよかった。……帰るまで必ず守るなんて、口だけ立派なところ、あなた自分で思ってる以上に父親似なのね」
テオドロの目が見開かれ、揺れる。何も言えなくなった口の動きを見届けず、ディーナは立ち上がった。
「今すぐ運河に捨ててきて。この男の父親が、かつてわたしを捨てた、あの運河に」
女王然としたその言いぐさに、周囲にいた何人かが動きかけて、ハッと思い出したように固まった。
腕を組んでその様子を見ていたアウレリオは、「だってさ」と部下たちを促す。男のひとりがテオドロを乱暴に担ぎ上げ、その場を離れていった。
「今後はルカが従者につくように。レディはちょっとわがままで飽きっぽいみたいだけど、前任者の分まで大事に守ってあげてね」
当主の命令に、ルカはなにも言わなかった。
その目には少なくない動揺が走っているようだったが、ディーナはすぐに目を逸らした。
それにしても、とアウレリオがため息をつく。
「“テオ”はあんなに頑張ってたのに。女の子って本当に怖いねぇ」
首を戒められたままのラウラが、呆れたように男を睨んだ。
ディーナはロザリオを強く握りしめ、赤いドレスに押しつけた。
震える手から血が滴り、十字架を濡らしていることが、誰にも見つからないように。
――神様。
もうわたしのことを許してほしいとは祈りません。
無知で、愚かだった過去を隠し、人を騙し、己の罪から逃げ続けたこの身を、どうぞお許しにならないでください。
その代わり。
あの人だけはどうか、お守りください。
この家から、逃げおおせるまで。
いわれのない贖罪のためにしか、生きられないあの人が、過去から自由になるまで。
どうか、この嘘だけは、見逃してください。




