35 『口から』
「……テオ?」
一瞬何が起きたのか、ディーナにはわからなかった。
だが、絵に縋るように右手を残してうずくまった男の尋常ならざる様子に、心臓がどくんと大きく跳ねた。
急いで隣にしゃがみこむ。周囲にスケッチ用紙が散らばった。
「どうしたの? なにかあったの? 喋れないの!?」
覗き込んで見た顔は白く、唇は震えている。瞳孔は丸く開き、呼吸は何かに遮られているかのように切れ切れで汗みずく。左手は心臓を抉り出そうとするように、青筋を浮かべて胸元に食い込んでいた。
「嘘でしょ、また演技なんでしょ? ……ねぇ、なんで、なにがあったの!?」
ディーナが半狂乱で問い詰めたとき。
「お困りですか、お嬢様」
芝居がかった声と同時に、背後から、腕が肩を抱くように伸びてきた。凍りついたディーナは絶望と共に、恐る恐る振り向く。
「……アウレリオ」
すぐ横に、出会った夜と変わらない穏やかな笑みを浮かべる男の顔があった。
「ネズミを捕らえろ」
ルカの声がした。屈強な男たちがあっという間にテオドロを拘束する。
ろくに抵抗らしい抵抗もできないまま床に抑えつけられるのを見て、ディーナは「乱暴しないで!」と叫んだ。見渡せば、ルカのほかに厳しい顔のニコラや、いつもと変わらないベルナルド、冷たい目のラウラまでいる。
誰一人として、ディーナに味方する気配はない。アウレリオが肩を揺らした。
「ネズミって、なに、なんのこと!? ちょっと驚いて会場から出たわたしを、テオが迎えに来てくれただけよ!」
「地下墓地の鍵を土産に?」
笑いをこらえながら、アウレリオの指が首から下げたままだった鍵を掬いとる。凍り付いたディーナの頭を、その手は優しく撫でた。
「……わたしが見たいって言ったの。に、偽物の遺体が気になって、そうしたらこの絵の下絵があったから、だから」
「だからいい証拠を見つけたと思って、喜び勇んで戻ってきちゃったわけかあ」
「しょうこ、なんて」
「ま、戻らず逃げてても、いずれテオドロは薬が切れて死んでたわけだけどね」
どうして、と、口が無意識に動いていた。
「飲ませてないのに、って顔だね」
恐怖を隠せないディーナを、アウレリオは嬉しそうに抱き込んだまま、ことさら優しい声を出す。
「でもこいつは飲んだよ。私の目の前で。ルカやニコラたちの前で、確かに。もとから、他の幹部にくれてる薬とは別物だったけど、それを錠剤よりずっと早く浸透する液体の形で、口に含まされた」
アウレリオの手が、頭を撫で、頬に下り、顎をくすぐる。
そんなはず、と抗議しかけたが。
「おまえが飲ませたんじゃないか、その口から」
指が、唇をなぞった。
――口から?
「フェルレッティの毒の食事。ちゃんと順番通りに食べてれば、体の中で完全に抹消されてると思ってたよね。食事の毒が、蓄積されて、体液全体を毒に作り替えていってるとは思わないよね」
黙りこくったディーナとは対照的に、アウレリオは上機嫌で、饒舌だ。
この上なく楽しそうに、ディーナに語りかける。
「フェルレッティの“蛇の毒”が、文字通り身の内から生じて、キスした相手に中毒起こさせるとは、思わないだろうね」
蛇の毒。
作り方も使い方も伝わらない、当主の牙にだけ蓄えられた毒。
毒の晩餐を平らげる、当主だけが備えた毒。
(あのときに)
ディーナの口から、広間で倒れたテオドロの口へ。
吐き出した錠剤より、ずっと早く、浸透した。
「……嘘よ」
「本当。しかしかわいそうに。この時間に症状が現れるということは、先代や私の血から作った錠剤ももらってないうえ、昨日以来キスしてないのか」
寂しいじゃんね、とアウレリオはラウラに声をかけてから「あ、ごめん。きみ今日喋れないんだ」と白々しく謝罪した。
「さてディーナ。テオドロに飲ませたものも、ルカたちが飲んでるのと同じで一定間隔で飲まないと死ぬわけだが。他の奴らとの決定的な違いは、解毒薬がこの世にないことだ。解放してやりたくても、死なせるか、延々と薬を投与し続けるしかない。後者を選んでも数年経てば、毒が回りきって死ぬみたいだけど。ほら、私たちの母親って短命だったじゃん?」
アウレリオの指が、ディーナの右手を取る。指に嵌ったエメラルドの指輪を撫でて、引き抜いた。
「――とはいえ、毒の宿主だって頻繁に毒を体で調合し続けないとそれはそれで死ぬんだけど。跡継ぎ含め、誰にもこの家を裏切らせないのが、あの食事習慣の本来の目的だから」
低く呟いたあと、男は自分の腕から妹を解放し、その背中を軽く押した。拘束されて、苦痛に顔を歪める裏切者に向けて。
「というわけだから、ディーナ行ってあげな」
「……なにを」
真っ青になって震えるディーナに、アウレリオは楽しそうに告げた。
「言ったろう。死なせたくないなら、与え続けるしかないんだって。キスで済むから楽だね」
つまりアウレリオは、もう一度、毒を流し込めといっているのだ。
そうしなければ、テオドロはここで死ぬ。
でも、ここでアウレリオの言うとおりにして、そのあとはどうなるのか。
「それで死ぬまで縛り付けてあげればいい。もともと、おまえはそれを望んでいたはずだろ」
動けないでいたディーナは、急かす言葉に戸惑った。
嫌な予感とともに。
「なに言って……」
「まだ思い出さないのか。……ああ、目の色が違うから?」
言って、アウレリオは抑えつけられたテオドロの元に寄ってしゃがみこんだ。その灰色の目に手が伸ばされたのを見て、ディーナが悲鳴をあげる。
しかし、恐れたような惨劇は起きなかった。
「取れた。これでわかりやすくなった」
立ち上がったアウレリオの指先には、薄い、ガラスの膜のようなものが乗っていた。ちょうど瞳を覆うような大きさの、灰色のもの。
そうして現れたテオドロの目を見て、ディーナは息が止まった。
「もとの目だと、すぐに十年前の子どもと結びつけられる。だからこんな小細工してたんだろ。涙ぐましいったらないよ」
浅く早い息を繰り返し、汗だくの顔でアウレリオを睨みつけるテオドロの両目は、青かった。
ディーナの記憶が呼び覚まされる。レベルタの教会で彼と出会った日の翌朝。閉じ込められた地下室に差し込む朝日に、一瞬変わった目の色。
そして、もっと遠い、昔の記憶。
「……あ」
“あれが欲しい”
讃美歌の響く大聖堂。
眼下に見下ろした民衆。
ディーナが指さした、青い宝石。
「……いや……まさか」
“あの男の子が欲しい、持って来て。ジュリオ”
背後に立っていた男の、従順な返事。
「そんな……」
『ディーナ・フェルレッティは死ぬ直前にも、外出先で見かけた青い目の子どもを、犬猫のように欲しがっていたとされている』
最後のわがままの標的となった、青い宝石のような目を持った少年は、テオドロその人だった。自分はその父親に、子を連れてこいと命じた。
わななくディーナに、アウレリオは歌うように軽やかに続ける。
「サンジェナの女はこれで緑の目のふりをしてたけど、ディーナも逃げてる間、逆に青目とか茶目とかにしとけばよかったのに。せっかく屋敷にいた頃は金髪だって信じ込ませたんだから」
“信じ込ませた”。
ディーナは驚愕の表情で振り返った。細められた緑の目と、視線が合う。
その愉悦に満ちた顔が、ディーナの背筋をぞわっと冷やした。
「何、言ってるの」
「聞いてない? フェルレッティの手先はどこにでもいるって。サンジェナにも。レベルタにも」
頭の奥で警鐘が鳴る。
正体の分からない、けれど最悪な事態の予感に、警告されている。
「――運河に落ちて、髪染めが落ちるほど流されて、たどり着いた街で記憶喪失になったふりをして」
「……やめて」
自分のことのように語りはじめた、男の上着の襟を掴もうとして、片手でやすやす阻まれる。空いた手が、ディーナの首にさがったロザリオに触れた。




