34 描かれた答え
「あのね」
ディーナは少しだけ、テオドロから距離を取ろうとした。もし突き飛ばされたら悲しい。
――だがそのとき、一歩下がったディーナの足が木棺にあたり、盛大な音を立てて蓋がずれた。
「あっ……キャアッ!!」
つい振り返って、燭台の火に照らされた死体に、ディーナは悲鳴をあげて飛び上がった。死体は額に黒い穴を開けた中年の男で、目を見開いて虚空を見つめていた。
「ああ、いいよ。僕が閉める」
死体を見る心の準備は皆無だったディーナがあわあわと狼狽えて後退るうちに、テオドロがいつも通りの平然とした物腰で木箱のそばにひざまづく。
だが、蓋を手にして棺桶の中を見下ろすと、テオドロは不可解そうに眉を寄せた。
「……まだ新しい死体だ。昨日か、一昨日くらいか?」
死体をじっと見て、棺桶の中に手まで入れ始めたテオドロを、ディーナは(どうしよう)と思いながらもそろそろと後ろ歩きで離れた。話しかけるのは、彼が棺桶の蓋を閉めてからだ。
「二の腕に、古い火傷の痕……入れ墨隠しか? それに、この手からの匂い。……染髪料?」
マッチを擦って明かりにしながら、テオドロは何か呟いている。
声をかけるべきか迷ううちに、ディーナのかかとはまたしても固いものに当たった。
すんでのところで悲鳴を飲み込み振り向くと、それも棺桶だった。ただ、素の木材でできたほかのものとは違い、それは石で作られ、表面には植物と天使の浮彫が施されていた。
明らかに丁重に作られたそれに、ディーナはある種の予感めいたものを得た。燭台を蓋の上に掲げる。
――蓋の表面には“ディーナ・フェルレッティ”と彫られていた。
(これが“ディーナ”。……わたしの、身代わりになった子ども)
ディーナはロザリオを手に祈りを捧げ――そして、何気なく見た蓋のわずかなズレに、違和感を持った。
よく見ると、十年前の石棺にしては、埃も砂も被っていない。
石棺の周りの砂まみれの床を燭台で照らすと、重い物を引きずってできたような線が残っていた。
誰かが蓋をあけて、床に置いたような跡。
「……神様、この罪深い行いをどうか、お許しください」
ディーナは石棺の蓋に手をかけ、精一杯の力で持ち上げた。
そうして中から出てきたのは、小さな白骨と、何枚もの紙だった。黄ばんだものから、新しいものまで。
頭蓋骨にからみつくくすんだ金髪に痛ましげに眉を寄せて、ディーナは紙を手に取った。
それは何人もの人間が宴に興じるさまを描いたスケッチだった。
その構図、人物の歴史的な服装や表情には、見覚えがあった。大階段踊り場の絵だ。もっとも古い一枚は全体の構図を描いているが、他の紙は一枚につき一人か二人を選り抜いて詳細を描いている。
(……あれ、でも、これ)
燭台を頼りに、ディーナはじっと絵を注視していたが。
「ディーナ、次から次へと開けないでくれ。しかも、よりによって彼女のを……なんだそれ」
テオドロのやや呆れた声に、ディーナは慌てて振り返った。
「ごめんなさい、あの、蓋がずれてたから気になって。これは石棺に入ってたの、階段の踊り場の絵ね。あの、それより」
スケッチの束を石棺に戻そうとしたところで、手首をテオドロに掴まれた。
「……作成日は、ニ十年前。ディーナ・フェルレッティの誕生日に作られ始めたスケッチだ」
テオドロの固い声に、ディーナもその視線を追う。確かに、黄ばみのひどい紙の端に黒檀でうっすら書かれた日付は、石棺に彫られた生没年の始期と同じだ。
石棺に入れられていたことを考えると、この絵は自分と何か関係があるのだろうか。
「テオ、これ、一番古い絵は今飾ってあるのと少し違うのよ。臣下の人数とか、人相とか……あ、名前が書いてあるわ。絵のモデルになった人物かしら」
テオドロと並んで覗き込みながら、先ほど思ったことを告げるうちに、人物スケッチのわきに走り書きで名前が書いてあることにも気が付いた。
テオドロは紙束を受け取って素早く目を通していき、そしてある一枚で手を止め、呟いた。
「ジュリオ・サルダーリ……」
「え?」
「父の名前だ。ルディーニは母の姓だから。……服の模様も、よく見ればサルダーリ家の紋章だ」
ディーナは驚いてテオドロの持つ紙を見た。細身の男が宮廷文官の格好をして、王に財宝を捧げている絵の横には、確かにジュリオ・サルダーリと書かれ、大きな古めかしい袖には百合の意匠が細かく描かれている。
そしてその顔には、大きくバツが上から描かれているのだ。
「でも今飾られてる絵に、この人物は描かれていないわ。同じポーズで、別の人物が描かれてたと思う」
「……今は描かれてない人物の絵は他にもある。シルヴァーノ・モンタルド……ラウラの父親の名だ。肩にとまっている鷲は紋章に使われていたし、持っている酒はモンタルド家が裏を牛耳っていた北部の街の特産品。……ニコラの名前もあるが、この絵は今も残ってる」
テオドロが、他の紙を順繰りにめくっていく。バツがある絵もない絵もあったが、すみに書かれた名前を口にしては表情を険しくしていった。
「……絵の中の臣下たちは、みんな外飼いたちを暗示しているんだ。バツのついていない人物が表す幹部は、……ほとんどいないが、まだ現役だ」
ディーナは逸る胸をぎゅっと押さえた。ここまでくれば、テオドロの言わんとしていることには、見当がついていた。
「ねえ、わたしたちがニコラに会った日、あなたたち話してたわよね? 離反した外飼いの制裁がどうって……」
「ああ、あの日、絵画は外されて、修復師が直していた。……外飼いが一人減ったと、アウレリオに報告が上がった日に」
絵画は油絵だった。絵具は上から削れるし、別の絵で描きつぶすこともできる。
さながら、幹部の“入れ替え”のように。
顔を見合わせた二人は、確信していた。
屋敷に入ってきた人間たちを王のように見下ろすあの絵画が、外飼いたちの一覧リストそのものだったのだと。
「取って来る」
言うなり、きびすを返したテオドロに、ディーナは慌てて追い縋った。
「待っ……」
一人で行かないで、とも、こちらの話を聞いて、とも言う暇がなかった。
紙束を抱えて階段を上り、礼拝堂に戻る。だがそこで、ディーナが手に持っていた燭台の火が、力尽きたように消えた。もとから使いかけの小さな蠟燭だったのだ。
「こ、こんな時に……」
窓のない暗闇の中で、ディーナは手探りで祭壇へと近寄った。用をなさない燭台を置いたつもりが、すぐに床でガシャンと嫌な音がした。
焦れながら、ディーナは天板の下の物入れから典礼用のろうそくを出し、マッチで火を灯す。
床に転がった燭台を拾って立ち上がろうとしたところで、炎に浮かび上がる、祭壇の側面に施されたモザイク画が目に入った。
枠で三枚に区切られたそれは、竜退治の絵だ。竜は悪魔と同一視されるから、モチーフとして珍しくはない。
と、二日前に見たときは思っていたのだが。
「……蛇?」
長い体をくねらせた怪物に手足はなく、どちらかといえば這いずる蛇のように見えた。
三連の祭壇装飾画は、たいてい聖書の一場面を、左から右へ時系列順に描くものだ。
だが、そこに描かれた絵は、ディーナの知らない物語のように思えた。
向かって左の絵で、蛇は人間に噛みついており、その周囲には犠牲者と思しき骸骨が並んでいる。
一番大きな真ん中の絵では、聖人らしき人物が大きな両手剣を蛇の体に突き立て、蛇の体は血を流している。
右端の絵になると、血を流し絶命する蛇の周りで、人間たちは手を真っ赤にして祈りの形に組んでいる。
退治した怪物の血を崇拝するような場面など、聖書にはない。
妙だと思ったが、今は絵解きをしている場合ではなかった。
屋敷の広間では、まだ宴会が続いているようだった。
人気のない階段の踊り場で、ディーナはテオドロにようやく追いついた。
「テオ……あの、聞いてほしいことがあって」
こちらを振り向かないテオドロに、ディーナは肩で息をしながら近づく。
二人の前には、王が臣下に囲まれて宴会を開く絵が壁に掲げられている。テオドロはその表面をなぞるように、右の手のひらをつけて微動だにせずにいた。
ディーナが生まれた日から作られ、屋敷を訪れる人間に見せつけられてきた絵。
おまえはフェルレッティの家来だと、後ろ暗いところのある人間たちを、堂々と脅し続けた協力者のリスト。絵の中には軍人、貴族、裁判官や聖職者らしき人物もいた。
これを手に入れたら、あとは帳簿を取ってきて、ここを逃げるだけ。幸い、持ち運べない大きさではないし、アウレリオも宴会場だ。
だから、言うなら今だ。罪のないシスター見習いのふりをして黙って逃げるのは、彼への裏切りだ。
息を整えて、ディーナは男の背中に向かって手を伸ばした。
だが、その手が届くより先に、テオドロの体はその場に崩折れた。




